第8話 キューピットさん(8)
玲奈は一人で、色とりどりの花畑の中にたたずんでいた。
そこへ不意に、純白の天使が舞い降りたのである。
大理石の様な、純白の裸体と頭髪。深紅の瞳。男にも女にも見えず、どちらともとれる体つきだった。胸部には赤いハート模様がかたどられており、背には矢筒と弓を背負っている。
キューピット。彼(女)はそう名乗って、玲奈に優しく語りかけたのだ。
キューピットは、玲奈のことを何でも知っていた。そして、彼女の気持ちに寄り添って、これ以上ないくらい優しくして、悩みを理解してくれた。
「――そう。玲奈はずっと、頑張ってきたんですよね。知っています。私は全部見ていましたよ。」
「お父さんやお母さんの期待に応えるため。ずっとそれだけで頑張ってきたけど、形のある成果以外は、認めてくれませんでしたね。それで、ただただ淡々と続けるのが、つらくなってしまったんですよね。」
「誰かに褒めてほしいけれど、友達が少なくて、人とうまく打ち解けられなくて。本当のあなたは、誰よりも輝いているのに。」
「もうどうでもいいと思っていた時に、礼司くんに出会った。彼は、あなたの努力に気づいてくれた。埋もれているあなたの輝きを、認めてくれた。素晴らしい、美しいと――」
「それに、あなたの悩みもすぐに察してくれた。共感してくれた。」
『……褒められたいから頑張るのって、良いことだけどさ。やっぱり自分のためだからさ、限界あるんだよな。……でも、自分と同じように頑張ってる奴がいれば、自分も負けてらんねぇ、ってなるだろ?そうやって仲間同士がお互いに置いて行かれないように、走り続けられるって言うか、励まし合うって言うか……。』
それは、どこかの漫画の主人公のセリフのような、ありきたりのものだったかもしれない。
でも決して――決して軽薄でも、中身のないスローガンでもなかった。そう言う言葉が届かないのは、大人が子供に鞭をふるいけしかけるために使われているからだ。
だが、礼司の口から発されると、その言葉は本来の輝きを取り戻す。なぜならそれは、紛れもなく、彼自身が生きる、リアルな世界だからだ。
「だからさ、俺も頑張るぜ。玲奈に負けたくねぇからな!まあ、俺がやってるの水泳じゃないけど。……えーと、だからさ。……玲奈も、俺がサボらないように、頑張る玲奈でいてくれよな!」
――あの笑顔を見たその瞬間から、私の恋は始まった。
「……だから、約束したんですよね。これからは、自分のためだけじゃなくて、お互いのために頑張ろう、って。」
「……うん。」
「……だから、礼司くんのために頑張ってたんですよね。ずっと、ずっと――」
――ねえ礼司くん、私昨日、自己ベスト出たんだよ!
――ねえ礼司くん、県大会で三位になったよ!
――ねえ礼司くん、もっと上、目指した方が良いかな?私なんかに、できるかな?
――私、礼司くんみたいに、なれるかな……?
ねえねえ、礼司くん。ねえ――!
やがて同性の友人達もできたが、どうしてもうまくなじめなかった。口下手だし、人間関係も難しいし。恵美に気を遣うのは疲れるし――両親と話す機会もすっかり減っていた。
もう、いかにも子供らしく自分の成果をひけらかすことは、できない。だから彼女の心は全て、礼司一人に寄り掛かることになった。彼に対する成績開示は、いわば自分の努力のランドマークとなる。こうすることで、お互いに高め合えるのだ――そう言う大義名分があった。
……だが、三年間同じクラスだったのが、五年生になって別れ別れになると、彼女は彼と積極的に関われなくなった。
礼司からすると、彼女もまた数多くの
去る者追わず。
それが不本意ながら、彼女の人間関係の在り方だった。彼女は礼司の世界観、彼の物語の一部に参加することで、自分も強い何者かになれたかのように錯覚していただけだった。その夢が覚めてしまえば――自分からは、何もできない のだった。彼女は、再び自分が何者にもなれないことを自覚した。
そして、来る者拒まず。
彼女に残された交友関係は、恵美たちのグループだけだった。
それでも、せめてもの矜持と、彼への想いを軸に――『頑張る』生き方は、やめなかった。彼の期待に応えるために。いつかまた、彼に褒めてもらえるように。
……そして、その生き方は、他の誰かにとっては全く褒めるどころか、目障り極まりないものだったのだ。
そして、地獄のような日々が始まった。
心の底から通じ合った友達など一人もいなかった。だから、彼女たちが名目上の「友人」でなくなるのもあっという間だった。
誰も玲奈をそこにいるものとして扱わなかった。玲奈はそこに存在していなかった。それでも、自分に対する中傷だけは甘んじて傾聴しなければいけなかった。彼女たちは生徒の謝罪を待つときの教師同様、玲奈に「反省の態度」を求めていたのだ。
だが、玲奈にはそんなことはわからない。どうしようもなかった。
玲奈は心を入れ替えない悪い子と言うことになった。そのため、女王からさらなる懲罰が課される。
更に間が悪いことに、そのころ飯島家内の空気は完全に冷え切っていた。玲奈には責任のないことだったが、なぜか些細なことで、彼女が責められたり、怠惰だと過剰になじられるようになった。
そしてそんな家から、毎日変わらず学校へ行く。いつも通り。
大したことは無い。
ただ少し、転びやすくなっただけだ。
ただ少し、忘れ物が増えただけだ。
ただ少し、先生に対する告げ口が増えて、『自分よりできない人たちを見下して陰口を言っている、嫌な子』になって。
それから、友達が作ってくれたお菓子がたまたま消費期限切れだったのに目くじらを立てて、その場で吐き出してみんなを不愉快にさせて。その友達を逆恨みして、被害妄想で騒いで嘘泣きをした――
それだけ。
ただ、それでも玲奈はずっと、ひそかに礼司の背中を追っていた。少なくとも、自分ではそうだと思い込むことにしていた。
頭の中ではずっと、自分は彼の隣にいるのだと。そう自分に暗示をかけることで、あの地獄をやり過ごしていたのだ――そしてそれはもうすっかり、癖になっていた。
もはや意識しなくても当然のごとく、架空の礼司と会話できるほどに。
それでも、わかっている――現実には、自分は何もできないでいるのだと。
中学生になって、水泳はやめて、代わりに弓道を始めた――それだけ。些細な変化だ。
本当にそれだけ。それだけだった――
数年後の当事者たちにとって、学校という空間において、世界にとって――本当にそれだけの、取るに足らない、どうでもいいことだった。
「どうして……私、何にも悪いことなんてしてないのにぃっ!」
「分かってますよ。私は、あなたのことは全部知ってます。本当に、ひどいですよね……許せない、ですよね。」
天使は玲奈を抱きしめ、背中をなでる。
「……しかもこの上、礼司くんまで奪おうとするなんて、絶対に許せない。」
礼司が、恵美と――
想像するだけで、天地がひっくり返るようなめまいを覚える。
嫌、嫌、嫌――絶対、嫌だ。
きっとその時、私の世界は終わる。
もう、頑張って生きる理由もなくなってしまう。
そうだ。そうなったら、本当に死んじゃおうかな……。
飛び降りる前に、遺書を書こう。それが、礼司くんへのラブレターだ。
死ぬと決めてしまえば、それぐらい簡単だ。
それで、私の想いはようやく彼に伝わる――
「……そんなこと、許せません!あっていい訳ない!」
「でも、どうしようもないんだよ。もう……私、勇気なんてないもん。誰も味方してくれないのに、頑張れないよ……。」
「いいえ。私が、あなたの味方です。」
「……え?」
彼女が顔を上げるとそこには、聖母のような慈愛に満ちたまなざしがある。
「私は、恋のキューピットですから。誰よりも強い味方になるはずですよ。」
「……でも、どうやって。」
「あなたの恋を邪魔する奴らは全員、この魔法の矢の力で眠らせてしまうのです。それから、あなたには勇気をプレゼントします――大丈夫。あなたの恋は、必ず叶う。」
キューピットはそう言って、その顔に似つかわしくない、不敵な笑みを浮かべる。
「……本当に、できるの?」
「ええ、もちろん。……ただし、その代わり一つだけ、私からもお願いがあります。」
「……お願い?」
「あなたの魂を、私に下さい。」
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