瘴・4
シェルターの中では上層へ行くほど地上、すなわち精霊の汚染に近くなるというイメージが潜在的に共有されている。手水局でも下層の方には研究所が、上層にはシェルター外の洗浄と精霊駆除を担当する洗浄官の部署が置かれている。
研究区より濃い消毒薬の匂いのする廊下を歩いていくと洗浄出動の当番班が白衣の横を忙しく追い抜いていき、カナリーは端に避けて歩くことにした。
普段は研究員が洗浄区を訪ねることはほとんどない。カナリーこそ先日には消毒室のすぐ近くまで赴いたが、本来は彼女の様な一般の研究員は研究区から出ることさえ珍しい。白衣のまま歩けばなおのこと、洗浄官たちの目によく留まる。行き違う洗浄官たちの好奇の視線に加えて研究区とはまた違った殺伐とした空気に浸かりきって怯えながら目的の部屋に急ぐ。
こんなことになったのには、内緒話に出くわしてしまった先日の自分の間の悪さを恨むしかない。
「さて従えといったものの、お前に合った仕事を探すのは難しい。ことこういった……ダクトの中を進むような仕事に関しては」
記憶の中のアサキ室長が嫌味なのか愚痴なのか、顎を指でさすりながらぼやく。室長は思案顔でデスクまで歩いていくと、コンピュータの前に立って座るまでもなくキーボードに何か打ち込んだ。
「こうしよう。お前は外へフィールドワークに出てもらう」
「……そ……」
外。それはシェルターの外のことを指す。
カナリーは言葉を失った。洗浄官でもないのに未経験者がシェルターから外に出るなんて、いくら防備を完璧にしていても危険極まりない行為だ。
「研究期間は一ヶ月。しかし盗難事件の方にそんな猶予はない。精霊を見つけ出すのに許される時間はせいぜい五日ほどだ。何せシェルター内のどこかに爆発物が仕掛けられるより深刻な事態だからな。一刻を争う」
室長はどこまでも愚痴っぽい調子で言いながらコンピュータから身を起こし、こちらに歩み寄ってバインダーをバンと机に乱雑に置いて寄越す。
「いいか、名目上は研究活動だ。研究員がシェルター外に出ること自体が異例な中で押し通すんだからこれも真面目にやってもらわなければ俺の立場がない。これをこなしつつ、アズマ・レスピンゲラの身辺と個人研究を優先して調査し、三日後に報告しろ」
分かったな、とアサキ室長に睨まれ捲し立てられ、カナリーは気付けばバインダーを抱えて部屋を追い出されていた。
「お前は精霊に対して何か間違った期待をしているようだから……」
室長の涸れた声が、閉まる扉の軋みと共鳴して聞こえてくる。
「ついでに再認識してくるといい。その無機質で無感情な危険性を」
こうなればもう従うほかない。
カナリーは息を深く吸って、目の前の金属扉をノックする。
と、そう間も無く扉が開いて、背の高い元研究者が先日と同じように自分を見下ろしていた。レスピンゲラ博士はカナリーを見てほんの少し不思議そうに首を傾げてから口角を上げた。
「……こんにちは。今日はどうしたのかな?」
「巡検員のカナリー……です。あの、連絡、きてませんでしたか」
「えーと……」
博士は視線を天井に向ける。呆けた表情で記憶を辿る様子は、とてもシェルターへの裏切りを企んでいる人には見えない。室長ないしその上司たちからの命令である以上、自分の所感で判断することは許されないけれど。
レスピンゲラ博士の沈黙を見るに連絡が届いていないか、確認していないのだろう。カナリーは説明するためにまずバインダーを開いて博士に渡す。
「巡検って……」
「連絡はきましたよ。ついさっきですが」
そのタイミングで廊下を歩いてきたのはミノリ・イクタ。一ヶ月前からレスピンゲラ博士とバディを組んでいる洗浄官——レスピンゲラ博士の身辺を調査するならば、彼女のことも知らなければならないのだろう。
「ええ? さっき確認した時はありませんでしたけど」
「だからその後に送信されたんですよ。確認してください、今」
「本当だ……通知が来ている」
バインダーを捲る手を一度止めて自分の端末を開くと確かに赤い未読のマークが連絡欄に点滅している。
「…………そうですねえ……取り敢えず防護服を申請して……」
「博士、今日は援護だけじゃなく参戦して下さい。ふたりもカバーするのは流石に無理です」
あまりに急な決定で彼らにも準備などできていないだろう。ばたばたと準備を始めて、カナリーは部屋の前で置いてけぼりになってしまった。
「あ、ごめんよ。出発まで少し時間があるから、座って待っていて」
気遣いの言葉と手伝うことの出来ない立場。すこし申し訳ないような居心地の悪さを感じながら、素直なカナリーは示された低いテーブルの前の座布団に腰を下ろした。
面識のある調査員が所在なさげに渡された現地資料を眺めている。ミノリは奥のコンピュータで申請入力をしている博士のそばまで行って小声で尋ねた。
「博士、巡検ってなんですか」
「ああフィールドワークのことですよ。つまり研究区の職員……彼女がシェルター外へ出向いて、自ら研究調査をするらしい。何か採取でもするのかな、精霊の粉塵とか、土壌サンプルとか」
「成程」
つまり連れていくだけではなく、その何か用事を済ませるまで守っていなければならないということか。
「……フィールドワークね」
気乗りしないのはミノリだけではなかったのか、レスピンゲラ博士が低く呟いたのが聞こえてきた。
「なんですか?」
「いえ、少し妙だと思いましてね。違和感はありませんか? そもそも何かの採取だけなら研究区の職員を派遣する必要はありません。仮にその必要があったとして、本当に僕たちに、素人の調査員の同行をさせる程の技術があると思いますか?」
博士はコンピュータを閉じて言った。
「僕が上司なら……本当に本意から調査を目的としているなら、ベテランの洗浄官に担当させます。必ず」
レスピンゲラ博士の潜めた低い声が穏やかでない空気を呼んでくる。
「……あなたにやましいことがあるからそう思うのでは?」
「っはは、それもそうかもしれません」
何がおかしいんだと顔をしかめながら、ミノリはこっそり調査員を盗み見る。しかしミノリには、彼女がただ居心地悪そうに座って待機しているようにしか見えなかった。
カナリーが調査するものはシェルター近くにはないらしく、当然歩みを進めるごとに精霊に出くわす確率は上がっていく。落葉した木々の間を地図を確認しつつ先行するミノリと自分の横をキープしている博士に護衛される形で歩く。その間も精霊が何匹か現れて、その度にミノリがパイプの形状に作られた音響銃を構えると、精霊はカナリーに近寄る前に粉塵となって消える。
「……今日に限って出現が多い」
「災害なんてそんなものですよ。こっちの事情が悪いときを狙ったように顔を見せる……」
ミノリが鬱陶しそうに服のよれを直し、レスピンゲラ博士は彼女に見つからないようにあくびを噛み殺した。
「まあそんなに深刻な段階でもないですよ、このくらいは月に何度か記録されるものですから」
音響銃に吹き飛ばされた精霊の粉塵が風に混じって水蒸気のように見えなくなる。透明になった精霊の瘴気が目の前を浮遊している。ゴーグルを外せば、マスクを取ってしまえば当てられてしまうであろう死の近さにカナリーは腕をさすった。
「そこですね。この辺りがL—025地点のはずです」
ミノリが示した場所は小さな水溜まりのある一画。ここは深い崖下であるらしく、そのまま切り取ったような地層剥き出しの崖が目の前にそびえている。
「合ってますか」
ミノリが単調に問うてくるが、実地のことを資料の情報でしか知らないカナリーは「そのはずです」としか答えられない。彼女は指令通りに崖の手前にある水場まで歩いていく。
不信感を滲ませながらミノリが腕を組んで、研究者の動作を見守る。
「……さっきから静かですけど、体調不良なら早めに申告して下さい」
「ん? 大丈夫ですよ。すみません、少し考え事が」
「考え事?」
博士だけでなくミノリまで油断なくカナリーの背を目で追いながら聞き返す。意識下で出発前に聞いた博士の言葉が引っかかっているのか、カナリーを探るような目で見てしまうようだ。
レスピンゲラ博士はバディの様子を眺めたあと、ふと組んでいた腕を外して研究員のそばまで進んで行った。
「カナリー?」
「はい」
「手伝おうか?」
「…………」
逡巡の間があって。
「それとも部外者が手を出してはいけないかな。それほどに大事な研究みたいだ」
「……いえ。よければご意見を聞かせてください、レスピンゲラ博士」
「いいとも。……すでにいくつか言いたいことがあるんだけど。まずは一つ、ミノリにとっても大事なことを言っておこうかな」
博士はカナリーより先へ進んで行って、水場に近付いた。
「ここはあまりに危険な場所だってことを。……すでに周辺には精霊が五十は集まっている」
風音が大きく聞こえる。信じがたい警告にカナリーは自分の耳元で血の気が引く音を聞いた。
「……ごじゅう…………!?」
「静かに。今は見えないかもしれませんが、確実に近くにいます。刺激すればすぐに寄って来ますよ」
ミノリはすでにパイプの引き金に人差し指を添えて構え直していた。カナリーを博士の方に押しやり、険しい顔で周囲を警戒している。
「囲まれてる」
目の前に聳える崖と通ってきた密度の荒い森の他に、カナリーには何も見えない。この洗浄官たちは精霊の何を感じ取っているのだろうか。
「撤退しましょう博士、道を作ります」
「頼みますよシスター」
「シスターと呼ばないで下さい」
潜む精霊は五十。瘴気は徐々に空気中を支配していた。毒が防護服の中へ侵入することはあり得ないが、毒粉に触れはせずともかすかな瘴気にあてられれば人は体調に支障をきたす。精霊による重い気配にカナリーは咳き込んだ。ふらついた肩を博士に受け止められる。
「……走れませんか」
博士がカナリーに問いかける声に、走り出す準備をしていたミノリが振り返って。
「どうしました」
「あてられてしまったようです。……僕が運びましょう」
「あなたが?」
相棒からの信用のない疑いの質問に、博士は心外だというように言い返してカナリーの前に背を向けて膝をつく。
「女性を背負うくらいできますよ。」
「ですが……」
「置いて行きたくはないからね。早くどうぞ」
この場で一番の荷物である自分は決定権がない。仮に自分で走っても二人には着いていかないだろう。急かされては従うしか無かった。
「……荷物が多い。最速でここを抜けるのは難しいですね」
「こら」
カナリーが遠慮がちに博士におぶさる所にミノリが余計な一言を口にするのを窘めて、動き出せるように屈みがちに腰を上げる。
来た道を引き返そうとミノリが振り返るとすでに精霊が多数、接近して来ていた。
「…………っ」
いくら防塵服を完全に装備しているとはいえ精霊に囲まれては危険だ。人間の気配が分かるのかふわりと寄ってくる精霊たちにパイプの口を突きつけて、前方の五匹を一気に吹き飛ばす。
「ミノリ、戻って! そっちは多すぎる!」
「ですがここしか突破口がありません! 出来る限り援護を!」
ミノリの背に寄ってきた精霊を駆除するが、その間にもどこからともなくわんさか集ってきて完全に包囲網が完成した。
『お前は精霊に対して何か間違った期待をしているようだから、ついでに再認識してくるといい。その無機質で無感情な危険性を』
いちばん最後に聞いた室長の言葉が、カナリーの頭の中に反芻される。
『災厄の前に人は無力であり、決して気を許してはならない。その事を経験して知るがいい』
「どうしてこんなに集まってくるの……!?」
ミノリが零さずにはいられないというように言った。一瞬見えた横顔が、劣勢であることを如実に物語っていて。
状況は最悪にまでもつれ込む。襲われているわけでもない。爪や大きな牙があるわけでもない。ただ精霊が人に寄ってきた、それだけのことなのに。
これこそが災。
三人を囲んで飲み込まんとしていた精霊たち。その大群の波のある一点が突然、爆風によって崩れ去った。
『こっちだ!』
何処かから届いたのは確かに人の言葉。
『全員こっちに来い、早く!』
声のする方向を振り返れば森の奥、束の間あいた精霊の群れの穴の向こう、その向こうの木々の間から遠く空気にぼやけて人工的な光が明滅しているのが見えた。洗浄官たちは目を見合わせる。
「行きましょう」
博士が声に従う判断を下し、音響銃を抱え込むようにして狙いを定めると四、五発撃ち込んで閉じていく精霊の群がりをまた吹き飛ばす。ミノリは即決に反対することもなく彼の背から離れないよう走り出した。
役立たずの精霊(仮) 端庫菜わか @hakona
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