瘴・3
あまりに複雑な道でも、一ヶ月弱も続けて歩けば覚えられるようになってきた。つまりは地下の壁の先の廊下の道、外での浄化作業と周回ルート。
「だいぶ慣れてきたんじゃないですか?」
博士が低いテーブルにコーヒーを一杯置いて言った。
ミノリはそれを受け取って、両手で抱えて手のひらから暖をとる。
「あなたに報告作業を任せてもらえるまで三十日もかかりました。一人でここに来て何度迷ったことか」
「精霊の駆除ははじめから結構動けていたじゃないですか、一つできることがあるだけで十分優秀です」
「博士が戦ってくれないんじゃないですか……」
いつも駆除するために精霊の群れの中を走りまわっているのはミノリで、博士は俯瞰できる場所から狙撃援護するだけだ。もう少しだけでもサポートしてくれてもいいんじゃないだろうか。
「君は洗浄作業に一番真剣に取り組んでいるように見えたので、一番早く慣れてもらおうと思ったんですが……」
「…………」
「それに僕は学者として外で活動する精霊を観察してくる仕事がありますから。フィールドワークを兼ねているのでメモしつつの作業なんです。動作も鈍くなります」
いつも近くに寄ってくる精霊を凝視して何か紙に書いていると思ったら、ああやって研究しているのか。
「でも研究室にはもう所属していないでしょう? あなたの研究を止めたかった上層部が」
「君のそういう遠慮ない物言いは好きですよ」彼は爽やかに笑って皮肉を言う。あるいは本心なのかもしれない。「どうあれ表向きは洗浄現場に赴いて大量のデータを取るようにという命令で洗浄官に異動したんです。指示には従わないとね」
話の途中で気付いたミノリは部屋の奥にあるごちゃごちゃとした研究スペースを横目に見る。
「……それで、ついでに自分の研究用にそのデータを横領してるわけですか」
「こら、人聞きが悪いな」
博士は言葉を選ばないミノリを嗜めるが、これは弁解できるものなんだろうか。
「大丈夫ですよ。ある程度のデータは全研究者に対して公開されていますし、データ採集から管理しているのは僕ですし」
「暴論では……?」
誤魔化されるには雑な言い訳だった。大体この人は研究室に籍を置いていないのだから、そういったデータの共有は許可されていないのではないだろうか?
「と言っても博士号まで剥奪されたわけじゃありませんよ。局に害を成していない以上、邪険にされているだけで蔑ろにされたりあまつさえ研究を禁じられる道理はありません」
「ああもうなんでもいいです」
問答も面倒になってコーヒーの入ったカップを口に運んで、淹れたてなのをすっかり忘れていたせいで火傷しそうになった。
「ミノリ? 大丈夫?」
「…………そういえば」
「はい?」
ミノリは今度こそひとくち含んで言う。重々しくならないように淡々と口調を保って。
「竜はどうなったのでしょうか。あの後、当然ながら何の知らせもありませんが……」
「さあ」
カップの中で揺らしたコーヒーの波紋から顔を上げると、博士は何の翳りもなく首を傾げているだけだった。
「精霊の中でも放つ瘴気が最も強い竜の扱いには細心の注意を払う必要があります。おそらく局の重鎮や少数精鋭の研究者だけを集めて観察するなり解剖するなり処分するなりしているんでしょうね」
残念、と肩をすくめる博士に眉を顰める。
「……なんてこと。まだ諦めてないなんて」
「諦めたからこうして大人しくしているんじゃないですか。本当はできるものならもう一度、一目だけでも見に行きたいしなあ」
「ならそのまま堪えていて下さい」
ぼんやりと自分の机のほうを見ながら憧憬の眼差しを今は見えない竜に向けているので、危なっかしくてミノリは冷や汗をかいた。この人は、竜に対して抑えきれない執着を抱えている。いずれ、シェルターの制止を振り切ってしまうのではないかと心配になる。
けれど彼はくすっと笑ってミノリに微笑みかける。
「大丈夫ですよシスター。流石に局に叛逆する予定はありません」
「……あなたの言うことはあまり信用できないのですが」
「あははっ」
博士はなぜか愉快そうに声を上げた。ミノリは何も面白くはない。叛逆などという雲行きの怪しい言葉が流れるように聞こえてきたので不信感を露わにしただけだ。けれど博士は向かいに座ると、仏頂面のミノリの頬を両手でつまんで言った。
「君がそれを望まないなら竜だって諦めるさ。相棒が守りたいものを、僕も尊重したい」
「……はなひてくらさい」
「ふふ」
博士は自分の子供にするように、軽くつまんでいた頬を離すついでに形を直すような仕草でむにむにと捏ねていった。あまりに楽しそうだったので毒気を抜かれてしまって、そのまま立ち上がって鱗粉の研究に戻る博士をただ見送った。
レスピンゲラ博士は洗浄官になったミノリを一ヶ月の間指導してきたが、彼もまた研究所を異動してからミノリと組むまで数日ほどしか経っていなかったらしい。それでも自然と手に馴染んだ道具のようにすんなりと仕事ができるのは、もともと研究所の仕事でも精霊を扱っていたせいか、彼のセンスと外の仕事との相性が良かったのか。
「寒いですか?」
不意にそう聞かれて確かに最近肌寒いな、と思い至った。どうしてだろう。と言っても人間によって管理された上に風も吹かないこんな地下で、なんの変化も起こるはずもない。
「大丈夫です」
そう言いながら無意識に腕を擦る。振り向いた博士はそれを見ていたが、特に言及することもなくガラス越しの手作業を再開した。
いつからか廊下の一室にある彼の個人用研究室を休憩室のようにして使うようになった。外からの帰りが遅くなった時には今座っているソファを借りて寝る。だから空調も好きに使ってくれと言われているのだが、長時間場所を借りて研究の邪魔をしている身であまり好き勝手振る舞うのも忍びなかった。博士もそれを見かねて毛布を自宅から持ってきてくれたりした。結局気を遣わせているのでどちらにしても変わらないようにも思えるけれど。
「今日ももう遅いですが泊まっていきますか?」
「…………」
「僕はこの後帰りますからひとりになりますけど。家に資料を置いてきてしまってたので」
「なら泊まります」
どうぞ、と無防備に許可して、そのまましばらく何かをいじっていた。
その後ろ姿を眺めていれば時間があっという間に過ぎる。気付けばぼうっとしていて、ふと自分を俯瞰したミノリは悲鳴に近い声で机を叩きながら立ち上がった。これはまずい。
「やはり帰ります。」
「え?」
「あなたといると気が緩む。このままでは腑抜けてしまいます」
「へえ……ん、それっていけないことですかね」
「いけません。わたしは、もう一度駄目になったらもう戻れない! あなたは危険です!」
ミノリは大慌てで荷物を掴むと研究室を飛び出した。
「…………ん?」
博士は戸惑ったまま取り残される。彼女が突然立ち上がって逃げていったのを目の当たりにして笑うのを堪えていた博士は、扉が閉まった後の静寂に堪えきれず吹き出した。
「本当に面白いな彼女は、全く」
○
「おはよう。今日の調子はどう?」
カナリーはいつもの日課で水槽の掃除をするため、肘まで覆うゴム手袋を装着しながら小声で言った。精霊に話しかけることも日課のうちだ。後者はカナリー個人で習慣づいたものであって、室長をはじめ恐らく誰にも理解されそうにない行為である。精霊に話しかけるなど、見つかったら頭がおかしくなったと思われるのが関の山。
けれど息苦しい研究室の中で、精霊という存在はカナリーにとって紛れもなく癒しとなっていた。花の精霊は水槽越しのカナリーの声など聞こえないから、いつものようにくるくる回っていて、眺めていたカナリーの顔が綻ぶ。この精霊を観察している時間が、今は何より大事だった。
「おい」
カナリー以外はまだ来ていなかった研究室の扉が開いて、室長の声が後ろで聞こえる。反射的に振り返るが、今朝はカナリーに対する用事ではないようだった。彼は一緒に入ってきた他の研究員に声をかけていた。
「あの件はどうなっている? 上から催促が来ている、あまり猶予はないぞ」
「す、すみません。しかし彼の部屋を一通り見ましたが、片鱗の一つもありませんでしたし」
二人は声を潜めて会話をしていて、奥の入り組んだスペースにカナリーがいることに気付いていない様子だった。
「彼は研究室に鱗粉を持ち帰っているはずだが、隈なく調べたのか?」
「一ミリグラムほど採取して照合させましたが、落下した竜のものではないようでした。外周で処理したただの精霊の鱗粉の寄せ集めです」
室長は静かな部屋に憚らず舌を鳴らす。
カナリーは息を潜めたまま部屋を仕切るカウンターの陰にしゃがんで隠れる形になっていて、これでは見つかった時に盗み聞きしていたと思われてしまう。緊張で速まる呼吸を抑えようと口を塞いで、ただじっと彼らがそのまま部屋を出ていくことを祈っていた。
「事実上研究部を追い出された人間にいつまでも研究室を与えたままでいるからこうなるんだ、馬鹿が。さっさと退去させてしまえば良かったものを」
「あれでまだ博士ですから……」
「無駄に功績を持つ問題児は厄介だな。局はまだレスピンゲラから利益を搾り取れると思っているらしい」
レスピンゲラ博士。
あの博士について調べているのか。けれど彼が洗浄官に異動してから随分経つ。今更何を調べているのだろうか。
「仕方ない。まだ別の誰かが盗んだ可能性も残っているし別のアプローチから調べるか。……お前はもういい」
「はい」
扉の閉まる音がして、一人だけ離れていく足音がした。
室長の溜め息が誰もいない部屋の空気を重くして、ますます出て行きづらくなる。
「手袋を嵌めたまま顔を触るな。鱗粉が付着していたらどうする」
「ひぇ…………っ」
頭上から室長の注意が降ってきて心臓が飛び跳ねた。
「上司が来たのに挨拶もなしで何をしていた。寝ていたわけでもあるまい」
「あ……」
見上げると室長はカウンター越しに身を乗り出してこちらを覗き込んでいた。既にカナリーがいることを気付かれていたらしい。勿論、ここで話を聞いてしまっていたことも。
「す、すみませ、」
「……まあ丁度いいか。お前は近頃、何か盗んでいないだろうな」
盗む? 何を疑われているのだろうか。けれど何も心当たりがない。
「いいえ」
彼は曖昧な返事を嫌うから肝心なところで言い淀んではいけない。カナリーは動揺を殺してはっきりと何も知らないという姿勢を見せた。
「私は盗みなんてしていません」
室長はカナリーを試すような目でしばらく観察してからようやく低く声を漏らす。
「ふむ」
目を細めて顎に手をやる。何を考えているのかはいつもわからないが、目の前の部下の答えを完全に信用していないことだけは明確だった。それから何かを決定したように腕を組んで姿勢を直す。
「…………補佐君」
「は、はい」
「では協力してもらおうか。上からの命令でな、勿論この件に関して他言無用だよ」
「……あの、」
口を挟もうとしたカナリーを視線だけで圧殺し、話を続ける。
「お前とっては精霊の管理ほど楽しいものじゃないと思うがね。大体盗人探しなど憲兵に任せる仕事よ」
「盗人、ですか」
「そうだ」
今度は返事が返ってくる。話の区切り以外に口を挟むと睨まれるのは分かっているのだが、いまだに合間を見分けるのが難しい。
「詳しくは話せないが、四日前に局の所有していた精霊が何者かによって盗まれた。現在、それの行方を少数の人間で追っている」
「精霊が……! 一体何の」
「機密情報だ補佐君、詳細はお前には教えられない。しかし精霊を回収するのは専門家の仕事だからそれ自体について考える必要はない。俺たちは犯人探しを命じられている。ここで物を盗むのは人間だ。人間に注意しろ」
「……分かりました」
信用されていないが故なのか、それとも元々彼もこの程度しか知らされていないのか、どちらにしても少ない情報をカナリーは純粋に吸収する。
「犯人は精霊について知っている人物に限られる。例えばアズマ・レスピンゲラ。先程話したのを聞いていただろう、あれは精霊の出現条件と鱗粉の成分研究を併走して行っていた。そいつに興味を抱いても不思議ではない人物だ」
レスピンゲラ博士を一番疑っているのだろう、室長の声色がいささか剣呑になる。
「アサキ室長は……」
「なんだ」
「レスピンゲラ博士が苦手なんですか」
そう質問をした途端、室長の目が怒った猫のように見開かれた。余計な一言を言ってしまったと気付いた時には遅かったらしい。
「成程。お前は、俺が私情に流されて奴を執拗に追っていると思っているわけか……」
そんなことは、と慌てて否定しようとしたカナリーは室長が二人を遮っているカウンターを蹴りつける音で遮られてしまった。
「この事件は露見すれば手水局の汚点として記録されるだろう。瘴気によって騒ぎが起き、死者が出る前に片付けなければ大事だ。俺も、偶然にしても意図的な盗み聞きにしても知ってしまったお前も、無事でこの研究所に居続けることは不可能だろう」
室長の冷たい目で睨め付けられる。まるで蛇と対峙しているようで、カナリーは冷や汗をかいた。部屋がいつもより狭く感じる。もうとっくに、逃げ場はなかった。
「もう一度脳に刻め、補佐君」
室長は低く暗く告げる。
「俺への裏切りは組織への裏切りだ。分かっているな」
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