聖・9

 夕方に水閘の開閉を手伝いについて来たのはキョウヤだった。

「キョウヤくん、車椅子押すの上手だね」

「そ、そう?」

 自然に車椅子を押し始めたのでそのまま身を任せているけれど、こういった道具の扱いに慣れているのだろう。石畳のせいで揺れはしても、ターリアが押すよりいくらか快適だった。

 すぐ後ろで鼻歌混じりにご機嫌な足音が聞こえてくる。

 不思議な壁のせいでこんな森の中に閉じ込められたというのに、素直な彼がそのことで狼狽えたり不安そうにしているところを未だに見ていない。よく言って泰然としているのか、それとも悪く言って呑気なのか。

「キョウヤくんは帰りたかったりしないの?」

 そう訊ねてみると後ろでううーんと唸る声が聞こえる。

「帰ったら舟職人にならなきゃいけなくてさ、」

「舟?」

「うん、舟。旅舟。細長いやつ」

 この水路を舟が通ることはないので他にどういう舟があるのかこの目で確かめたことはない。節目で食料調達に出かけても、街の狭い運河を往来するのは見慣れた細長いボートばかりである。

「ああ、あの屋根がついてる?」

 空を仰ぐようにキョウヤを振り返ると彼はもともと少し細い目をまた狭めて笑った。

「そうそう」

「へえ、おうちが船大工なのか」

 そう言い当てるとキョウヤは口を尖らせ、不服そうに話す。

「父ちゃんがおれにあとを継がせようとしてんだ。おれが一人っ子だから……」

 キョウヤはそれが嫌になってこっそり逃げ出してきたのだ。キョウヤより年上でしっかりした弟子も何人もいるのに、どうしてキョウヤが受け継がなければならない理由があるというのだろうか。

「……お父さんは自分の仕事に誇りを持っているんだね。」

 キリヒコは視線をキョウヤから木々へ移す。

「お父さんの期待に応えないとね」

「そうなのかなあ」

 キョウヤはなんだか合点がいかないらしく口の中でもごもご呟く。

「でも舟のことになると怖いからやなんだよ……」

「大事な仕事だから、大事な息子に受け継いでほしいんだ。厳しくもなるさ。世襲ってそういうことだよ」

 車輪が古い石畳をガタガタ進み、風と野花の香りが頬を通り抜けて。こうして車椅子を押してもらって水路を進んでいると、父とこの道を通っていた頃を思い出す。

「わかるよ、僕もお父さんからこの仕事を授かったから」


 やがて水路の終わりがまた見えてきて、夕方の仕事に取り掛かる。と言っても掃除は朝にしてしまったので、門扉を再び開いて舟を崖下の底へと降ろす。

「うおお…………」

 ギギギと回る歯車の音にふわふわ寄ってくる精霊が、物珍しそうに水閘とキリヒコの仕事を眺めていたキョウヤの脇を通り過ぎて。すっかり夕暮れ色に染まった空気を纏った精霊たちは光を反射しながら乗船していく。

「わ〜、なんかきれい」

 キョウヤの声が小さく呟いて、振り返ると外の埃と精霊の鱗粉の光る向こう側で、彼の黒い瞳にオレンジの水彩絵の具を垂らしたみたいに浮かんでいた。

「帰ろう、キョウくん」

「え、もう?」

 朝にターリアを連れてきた時も同じような反応をされたが、確かに単純な作業なので歩いてきた時間より遥かに短くて釣り合わないから、驚かれても仕方ない。

「儀式みたいなものだから。でも昔からこうで、大事なことだって教わってきた」

 へあ、と納得したかわかっていないかの間を取るような相槌を打って、キョウヤはキリヒコの車椅子の押し手をまた掴んだ。

「リアちゃんは何してるかな?」

「彼は食事を作ってくれるそうだよ。昨日は結局ほとんど何も食べていないみたいだったし、とりあえずはしばらく任せてみようと思って」


 そう、一方で家に取り残されたターリアのほうは精霊を避けながらキッチンに顔を出し、夕飯の支度をして待つことにしていた。別に料理が得意なほうではないが、精霊に作ってもらうより余程安心して食べられる。

 とはいえ得意な料理と言えるものは一つもない。この家にレシピがあるのか聞いたら、

「どこかにあるかも、探してみたらいいよ」

 とだけ言って家主は行ってしまうし、手元にはなにひとつヒントもない。「サンドイッチとかで勘弁してもらうか……」と許可が降りたとはいえ家探しをする罪悪感に耐えかねて、ターリアはひとりごちた。

 と、手を突っ込んでいた本棚の奥でがさりと音がして反射的に撤退する。二秒待つと紙の精霊が古いノートの間から出てきたので軽く追っ払い、間違えて引き抜いていたノートを元の位置に差し込む。

「…………」

 けれどその一瞬、目に映った表紙の文字に引っかかって、まだ背表紙をつまんだままだったノートを再び引き出した。

 レシピ、とだけ書かれたそれを一頁めくると、炊飯器での米の炊き方が順序立てて書かれてあった。次にめくると味噌汁の作り方、玉子焼きの作り方……。ざっと見ると料理のレシピがまとめられているようだった。

 ターリアは数頁まで捲っただけで一度閉じた。これを借りるとして、材料は……と振り返ったところで竜の顔が視界いっぱいに広がって。

「ただいま」

「ただいまー!」

「……いい加減にしろお!」

 なんで放っておいてくれないんだ、この竜は!

 ターリアの叫びが玄関を開けた一階にまで響いて、キョウヤの元気な挨拶と同時に重なったのであった。


「君が気にするからジャクも気になるんだよ。普通にしてないと」

「簡単に言ってくれる……」

 それができればとっくに精霊嫌いなんて克服している。だいたい視界に入ってくるのは向こうなんだからやめてさえくれればもう少し気楽にいられたんだが。もう負のループに陥っている気がして、ターリアは頭痛を覚えた。

「ね、ねえ、でも美味いよ、これ」

「はいはい……」

 結局サンドイッチになってしまった粗末な夕食を文句も言わずに食べてくれているだけ救いである。

 キョウヤが口を挟んできたおかげで空気が保たれる。何が「でも」なのか文脈はわからないが、彼の場を和らげようという努力を汲んで憔悴したままのターリアはせめてと前髪をかき回してやる。

「おわっ」

「それで、レシピがあったの?」

「あったよ。まさか書斎にあるとは思わなかったけどな。おかげでキッチンにあるものは大体把握できるようになった」

 キリヒコにノートの存在を指し示す。キッチンのカウンターにおいたままの古いノートを見ても彼女は特にはっきりした反応を示さない。見覚えがありそうではなかった。父親の書斎だと言っていたし全ての書籍を把握しているわけではないのだろう。まあターリアも父の研究文献には手を触れたこともなかったし、ささやかな財産の継承なんてそんなものだ。

「でも今日はサンドイッチね」

 キリヒコの細めた眼がこちらを見る。キッチンと自分のちょうど線上にいた彼女が振り返ったせいで、同じくキッチンを見ていたターリアとしっかり目が合ってしまった。棘はないが、揶揄う意図を隠そうとしない表情をしていた。

「わるかったなあ」

 この少女との距離感が掴めない。初対面で大事なものを否定したターリアに苦手意識を持っていないのだろうか。

「冗談だよ。おいしいよちゃんと」

「なんなんだよ…………」

 慰めるみたいに言ってくれるがそういうことじゃない。前言撤回だ。やっぱりお前ら、何を考えてるのかさっぱりわからない……。

 ターリアがこめかみを抑えるのと同時に、キッチンのノートがパタリと倒れた。

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