スピリットネバーランド
聖・8
ジャクはお世辞にも器用とは言えない。
いや、竜にしては器用なのだろう。前脚はそもそも炊事洗濯掃除のために発達したものでは決してない。彼が動けば高い頻度で大きな翼が何かしらにぶつかっている。グラスの並べられている戸棚や食卓テーブル、天井からぶら下がるガーランド。いつものことなのでキリヒコにとっては瑣末なことだが、ターリアの方はそれが気になるのだろう。遠目からもどかしそうな顔で眺めているのを見かけるようになった。ついでにジャクがうっかり落としたものを後からこっそり拾って直してくれるようにもなった。
ターリアは初対面の印象の落差があまりに大きかったが、精霊が関わらなければ怒鳴る事もないし至って冷静な男の子だった。
「キリちゃんどうしたの?」
キョウヤは見たまま、接したそのままの子だった。人と喋ることに慣れていない、よく動く素直な少年。精霊が好きなのだろう、自分の帽子につけている精霊もクリップと呼んでよく話しかけているし、ジャクにも笑いかけてくれている。
「なんでもないよ。キョウヤくん、少しジャクを手伝ってくれる?」
「うん、わかった!」
二つ返事で了承する彼は洗濯物を運ぶ竜の元に駆け寄っていき、慣れた様子で何をすべきか指示を仰ぐ。
少年と二階の物干し台に移動するジャクを見届けて、キリヒコは玄関へと向かう。
「竜は?」
玄関から出て裏に回ろうとしている所を、ターリアの声が後ろから引き止めた。
「ジャクは今はキョウヤくんと一緒だよ」
「フーン」聞いてきたのにどうしてか興味のなさそうな顔でハミングのような相槌を打つ。質問の意図は、と聞き返そうとすると彼が先に口を開く。「で、お前はどこに行くんだ」
「ちょっと水路沿いの道を」
「竜もいないのにそのでこぼこ道を?」
確かに水路に並行した道はとても古いもので、舗装し直すこともできないので石畳はすでに苔生して木の根に持ち上げられている。車椅子で行くのは骨が折れる。
「仕方ない。ここくらいしか道がないんだ」
腰に手を当て何か言いたげな顔をするターリアに構わず車輪を回す。玄関先もタイルが剥げていたりするのでガタガタと揺れる。いつものことだからこれくらいはちゃんと動けるけれど。
後ろから溜め息が聞こえて、それから足音が近付いてくる。
「……押すぞ。いいな」
「わ」
声がかかった後、瞬間的に車椅子が浮いたような感覚になってひとりでに前に進み出す。当然、ターリアが後ろの押し手を操作してのことだけれど。
「ねえ、いいよ、別に一人で行けないわけじゃない」
「ついて来てほしくないならそう言えよ」
「そんなことはないけど、付き合わせるのは悪いから……」
「ならいいんじゃないか?」
タイルから石畳に変わるとさらに揺れが強くなる。押してもらっているのでいつもと感覚が違って、身体が翻弄される。それにターリアも気付いたのだろう、少し押したところでゆっくりと止まった。
「……自分で回した方がいいか、もしかして」
「…………そうかもしれないね」
なんだか歯痒そうに喉元で唸る音が聞こえてくる。
「だからさ、構わないでいいってば」
「何しに行くか知らないけど、こんな森の真ん中で精霊しか出ないとは限らないだろ。危なっかしくて黙って見てられるか」
「…………」
頑固というか、曲がらないというか。面倒な人だなと微かに煙たく感じながらもキリヒコはふっと笑ってしまった。
「なんだよ」
「そうやって生きて来たんだね、君は」
「は?」
「じゃあついて来て、手伝ってほしいことがあるから」
彼は怪訝そうな顔をしつつ、キリヒコの膝に置いてあった大きな箱を取り上げる。ついていくついでに持ってくれるようだ。
毎日通っている道は風と木漏れ日の気持ちいい場所だ。時折ジャクに周囲の草刈りを頼んでいるから、木の枝も自然とアーチのように天井を作ってくれる。進みづらいのは知識も技術もなくてほったらかしにしている石畳だけだ。
斜め後ろから付き従うように歩くターリアの様子が見えないが、微かに伸びをしている時の間伸びした声が漏れたのが聞こえる。精霊が近くにいないからだろうか。なんだかんだリラックスしているみたいだから、キリヒコが過剰に気を遣う事柄はとくに無いのかもしれない。
「来てもらって悪いんだけどさ、そんなに難しい仕事はしてないよ。門を開けるだけ」
「門?」
話を聞くために隣に近寄ってきたターリアが飲み込めないと言った顔で聞き返すので、そうだよと説明を続ける。
「厳密にいうとロック、水閘だけどね。昨日話したでしょ」
この地域一帯では運河が生命線である。地形的な理由で船が通れないような高低差がある場合、二つの扉の間に舟を通し、その中で水位を調整して舟を昇降させることで克服する。そういった役割を持つのが水閘である。
しかしそれは水路に流れる水があって初めて役に立つシステムだ。
「……水も流れてないのに毎日開閉することに何の意味があるんだ?」
ふとキリヒコは車椅子を斜めに止めて、ターリアに向き直るようにして見上げる。
「意味があるからこそ、続けているんだ。樋口家が滅ぶまで——」
キリヒコは記憶のどこかで残っている口調を真似て言う。
「もしくは、この約束が消えるまでね」
ターリアが運んでいる丈夫だが冷たい箱に手を伸ばして、ぽんぽんと親しみを込めて触れる。
「やく……いや、なんでもない。」
ターリアはキリヒコの挙動に戸惑って立ち止まり、何かを言いかけたが途中で取り消した。そしてまた足を踏み出して。
「つまるところ、伝統なんだろ。よくは知らないけど」
水は枯れるまで流れが止まることはない。それを否定することもないよ。
ターリアは少し歩いたあと、キリヒコがついてくるのを感じなかったからかひょいと振り返った。「……水、か」特に意識しての発言ではないのだ、きっと。キリヒコはふっと溜め息を吐く。
少女がようやくハンドリムに手をかけると彼は前方に視線を戻し、ゆるりと歩き始めた。
なだらかな上り坂を歩いていくうちにいつの間にか水路橋とキリヒコの目線が同じ高さになっていて、流れのない石造りの底が覗けるようにまでなっていた。
「そこだよ。あの、ちょうど橋が途切れているところだ」
キリヒコが視線で示した方を見ると、確かに水路橋に門が付けられていてその先には何もない。水路橋は途切れ、草木も生えていない。
「……おかしくなりそうだ」
覗き込めば水閘から先は井戸のように深く、暗い。ほぼ垂直の崖になっているようだった。こんなに高低差のある水閘なんて見たことがない。
これは本当に水閘と呼べるのか?
「僕の家系が長年ロックマスターを名乗っているのだから、これは水閘だよ。君がなんと言おうと」
「何も言ってないだろ」
先手を打たれて肩をすくめる。心が読めるのか、過剰に予防線を張られているのか。
「落ちたら戻ってこれないよ。こっちきて」
ターリアは覗いていた崖っぷちから踵を返し、持ってきた箱を彼女に差し出した。キリヒコは受け取ることもなくそのまま蓋を開け、工具を取り出した。
「はい、君は向こう側。よろしくね」
「何?」
「錆び取りと掃除。毎日やってることだから、あんまり汚れはないと思うけど」
「…………」
結局労働はするんだな。ターリアは水路の上に架かるスロープの足場を渡って指示通りに掃除をする。
キョウヤはまだ竜の手伝いをしているのだろうか。ジャクと名付けられたあの竜は、まるで人間のように勤勉に働く。精霊が人間の仕事を意識的に手助けする様子なんて見たこともなかったし、ただいるだけの存在なのかと思っていたのに。やっぱり竜は他とは違うのかもしれない。
あるいは、あの個体が特別なのか。
「終わったぞ」
「じゃあ下がって。動かすから」
水路の壁越しにキリヒコの方を見ると丁度彼女の両目がギリギリ見える高さにあって、こちらに目配せしていたらしいその一瞬だけ目が合ってすぐに逸れた。
「下がって」
二度目の指示で二、三歩下がる。と、ギギギ……と重々しい金属の擦れる音が空気を揺らした。
水流のない水路橋と閘門。どれほどの深さなのかしばらく歯車の回る音だけが幅二メートル強の二つの門扉の間でゆっくりと満ちて。底の方には水面があってそれが運び上げられてくる……ということもなく。
やがて軋みの音が耳障りに聞こえてきた頃に二枚の門の間から一艘の舟が底から届いた。
何も乗せていない、空っぽの舟……ではなかったのだが、そうであった方が何倍もましだった。
「うわっ……………!?」
「あ、ごめん」
ターリアが悲鳴を上げて一目散に逃げるとようやく思い出したのか、ちょっとだけしまったという顔をした。
木の旅舟には通常あるはずの屋根がなく、ただの細長いボートの形をしている。それに乗ってきたのは何匹かの精霊だった。
「それが乗ってくるなら言えよ……」
五メートルくらい離れたターリアが苦情を言う。
「ごめんって」
崖の底から訪れた精霊はめいめいふわりと舟から降りたり飛び立ったりして解放されたように離れていく。
「…………本当に何だこれ」
精霊が散り散りに森へ混ざっていったので不服そうにターリアが水路の足場を越えてキリヒコのもとに戻ってくる。
「舟の昇降に目的があるんであって精霊が乗ってくるのはおまけ。言っておけばよかったね、僕は特に気にしたことがなかったから」
水路内は立ち入り禁止にしてくれよ。
「……それで?」
「そうしたら夕方にまたこれを下ろす。毎日、これの繰り返しだよ」
つまり舟をこうやって移動させるだけのために彼女はこの閉ざされた森で暮らしていると言うわけだ。
なんて孤独で、なんて不毛な。
ターリアは出かかった言葉を唇で堰き止めて。
戻るよと車輪を回して方向転換するキリヒコの後へ続いた。
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