瘴・2

「今日は西南西を見回りましょう。出現率は二割ほどですが」

「そう言って昨日は精霊のコロニーにぶつかったし、竜まで降ってきたじゃないですか」

「だから昨日のは残りの八割をすり抜けての二割分が訪れたというわけです。新人の初日はあまり出現が当たらない場所を任せられるので運が良かったのですよ」

「……駆除出来ないと意味がありません」

「そんなことはない。現状を見て、居ないことを把握するのも大事な仕事です……それに君のように意欲ある人が初めて精霊を洗浄するのは危険ですから、外の空気に慣れてもらうことを優先するんですよ」

 二日目はそんな会話をして出かけて、結局何にも会わずに帰還の指示に従いシェルターの門まで戻ってくる。

「お待ち下さい」

 防護服の全身洗浄が済んだ後、白衣の女性が二人を呼び止める。

「はい、なんですか?」

 博士が柔らかく返答すると、研究員はバインダーを博士に差し出して言った。「昨晩提出された報告書のドラゴン型精霊の項目で疑問点がありましたので質問をさせていただきたいのですが」

「勿論構いませんよ。どうぞ」

 しかしスムーズに質問が始まる訳ではなかった。妙な間と視線を感じてミノリが研究員を見ると、彼女も迷ったようにこちらを盗み見ていた。

「ああ、このままどうぞ」

「……では」

 博士が促すと未だ言いにくそうにしながら研究員は話し始めた。実際、ここにミノリがいたとしても専門家の二人が何を話しているのか全くわからないので場を離れようが同じである。博士もそれが分かっているのだろう。控えめに邪険にされた気がして些かもやくやしたが、一介の作業員には公表できない研究内容などもあるのだろうと大人しく待った。

「精霊の落下地点に間違いはありませんか」

「ないよ。記載の通りだ」

「しかしここに落ちたとすると、この精霊がシェルター近くを通ったことになります。資料によると竜は他の精霊と違う性質を持っており、人間に近付くことはないと……」

「いや、そうとも言い切れないと思うよ。竜はかつて、我々人間と寄り添って暮らしていたのだから」

 ミノリは振り返った。博士が淀みなく答えた言葉に疑問を抱いたからだ。その説はミノリでも知っているような有名な説得力に欠けるため、半ば都市伝説のような扱いで葬られたものだった。

「確かに歴史上はそういった時代もあったという記録も見つかっているようですが……」

 研究者も流石にこれはと異を唱える。しかし博士は断言する。

「あれは研究すべき論題だよ。というか、竜については僕がずっと追究していたテーマでもある。こうして僕のところまでわざわざ質問に来たということは、僕のことを知っているはずだけれど」

 バインダーに挟まれた書類の端をちょいちょいと弄りながら博士は穏やかに話し続ける。

「君がこの考察を初めから否定したいのであれば竜について深く知る必要もない。竜の軌道など周りの言う通りに改竄してしまえばそれで済むことだ。そうだろう?」

「…………」

 それは研究者たちの全てを侮辱するような言動だ。博士は声の調子も温度も変えずに、その行為に何の抵抗感もないように言い放つ。

 研究員はしかし、ここまで言われても顔を青くするだけだった。

「分かるよ、彼らの考えることはいつも同じだ。シェルターを守りたいのか、自分の体裁を守りたいのか、常にはっきりしない。……さて君の質問だけれど、軌道と落下地点に間違いはないのだからそのまま通してもらう他ないかな。どうせなら竜の解析を僕に任せてくれてもいいけど」

「博士、休暇以外は毎日精霊除去でしょう。予定を変更されるとわたしが困ります」

「…………」

 博士の声が弾み始めたのを察知してミノリはすかさず釘を刺した。業務外に研究を始められたりして体調を崩されたら迷惑だ。

「ならお任せするしかないですか。仕方ない」

 大体、多くの人が博士と呼んではいるが彼は今は浄化の作業員であって局の研究員ではない。関係者内から外れた彼を、研究所に入れるわけにもいかないだろう。博士は残念そうな、しかしこうなることを予測していた諦めの表情であっさり引き下がった。

「他に質問は?」

「……いえ」

 研究員はバインダーを抱えて一礼すると、作業員では開けられない扉を通じて戻っていった。

「真面目な人でしたね。きっと上司の誰にも言わずに僕に会いにきたのでしょう。気になるところを放っておけなかったのですね」

 いい研究者だ、と頷く。確かに嫌な感じのしない女性ではあったが、それ以上のことがどうしてわかるというのだろうか。

「博士、今日は報告書の書き方を教えてもらえますか」

「勿論。昨日は例外のせいで複雑だったから敢えて説明しなかったけど今日の分ならわかりやすいですしね。行きましょうかミノリ君」

 昨日通ったシェルターの端に沿った高台の道を真っ直ぐ歩くと、壁際にいくつか重そうな扉が並んで付けられている。

「記録室は情報を扱うので奥にあります。特に精霊の情報は一般の人たちには、」

「分かっています。精霊との交戦内容の多くは機密情報と」

「よろしい。それじゃこの先は少し複雑ですから、ちゃんと覚えるように」

「地図とかは…………」

「ないですよ?」

 博士は歩調に淀みなく迷路のような暗い通路を進んでいく。成程、順路を知らなければこれはどこにも辿り着けないだろう。どうやって覚えればいいと言うのか。記憶力に関する自信を失いそうになって、ミノリはげんなりした顔でぱさついた灰色の髪を追いかけた。


「あなたはどうなんですか」

「なにがです?」

「シェルターを守りたいですか、自分の体裁を守りたいですか」

 先程の話ですか。博士は呟いて、一本取られたという顔を笑顔に戻してから振り向いた。

「正直に言うとね、僕には今守るものがないんだ」

 報告室を後にしてまた迷路を戻る道。窓もなく誰も通らない、薄暗い通路のさなか。

「勿論僕はシェルターを守るために働いている。だけど正確には、僕が守りたかったのは妻子だった」

 どこまでも穏やかな声を崩さずに彼は話をする。それは今はいないということを暗に示す言い方だ。

「あなたの噂は、あなたが博士だった頃に耳に入っていました。家族がいらっしゃると聞いていたから、生きているのかと思っていましたが」

「いますよ……彼処の星にね。いまは精霊に悩まされることなく、幸せに暮らしています」

 あそこ、と天井を指す。地下に引っ込んでしまったせいで見えない星に祈るのをやめた人間は、上を指差されても天空をイメージする者は少なくなってしまった。けれど彼は雨の降ることもないシェルターの天井を見上げるたびに、亡くした家族のことを想うのだろうか。

「だから今のシェルターには守るものが無いんです。本当はね」

 博士は肩をすくめる。

「……なら、今はどうして洗浄班に入ってこられたのですか。守るものがないのに、精霊を排除する必要はあるのですか」

 ずけずけと問いかける言葉に、しかし特に気を悪くした様子もなく博士は少し黙って微笑んだだけだった。それからミノリに手招きをして、一歩進んだ彼女の耳に囁いた。

「もしも妻と息子が戻ってきたときに、ふたりが安心して暮らせるためだよ」

「…………」

「あ、違う違う」

 眉を顰めるミノリに気付いて、慌てて弁明する。

「確かに僕が研究室から精神科へ追い立てられたのはこの考えが原因だがね、消して気が狂ってしまったわけではないよ」

「本気で言っているわけではないでしょう?」

「いいや。勿論本気だ。故人はこの世に帰ってくる可能性がある。ただし確率は計算しきれていないけど」

 ミノリはふらふらと後退りして寝物語のように低く心地よく語りかけてくる声から逃れる。

「……死者は戻ってきません」

 震える声で拒絶する。こんな昏い望みに縋ってしまってはいけない。

「死者は戻ってはこないんです、レスピンゲラ博士」

 馬耳東風。博士は少し瞼を伏せただけで、微笑みを崩さない。

「そう言うんだ。何千と研究を重ねたこともない彼らは皆」

 思いは強かった。言葉でしか否定できないミノリよりもはるかに堅かった。博士は様子を窺うように、淡い青の混ざった灰色の瞳で目の前の作業員をじっと見つめ返す。

「…………君も、誰か大切な人を失ったのかな」

 心臓が鳴る。

「…………」

 そんなこと人に知られたくはなくて、けれど嘘を吐くのはヨウコを否定してしまうようで。なんて返せばいいのかわからない。しかし沈黙は肯定となる。

「だけど君を巻き込むつもりもない。ああ、それならどうして話してしまったんだろうか……。信じてくれとは言わないから、この話は忘れなさい」

 にこりと笑った後、対峙していた目をふいと逸らして、話の終わりを告げるように足を進め始めた。

「博士はその研究を続けているのですか。今も——」

 ミノリはまだ聞きたいことを譲るつもりもなくなおも話しかけようとする。しかし声は博士の手のひらで塞がれて、最後までは言えなくなる。

「…………内緒にしてください。この研究は取り上げられたことになっているんです。上は僕がバックアップを今も所持していることを知りません」

 口を解放され、いつの間にか目の前に接近していた博士の顔を真っ直ぐ睨み返す。

「だったらどうしてわたしに全部話してしまったのですか」

 正面に見据える虹彩の中に細かく濃い線の模様がくっきり見える。薄暗い廊下に、彼の見ている星空を見た気がした。

「さあね……でも全て話したつもりはありませんけど」

 バックアップの話は絶対してはいけなかったんじゃないか。「知り合ったばかりの相手にこんなことを言って、告げ口されたらどうするんですか」

「その言い方はするつもりがないということでしょう?」

 余裕のある顔でかわすついでに言い当ててくる。ミノリはやりずらそうに押し黙った。たしかに危険思想を持っていれば別だが、今聞いたことを誰かに言っても何が得られる訳でもない。

「ね、君は特に問題は無いと思いました」

「……まあ、仕事に支障が出なければ、わたしは何でもいいですよ」

 諦めた分でそう言うと、博士はフッと笑うような吐息とともにミノリから離れた。

「でも好奇心は猫をも殺しますから、こういったことにあまり踏み込まない方がよろしいですよ。」

「どういうことです?」

「シェルターの中にも危険な人や事柄はあるということです。自分のことは大事にして下さい、僕のバディ」

 帰りましょうか、と博士が言うのを最後に、二人は廊下を後にした。



 シェルター入口から帰ってきた研究員はカナリーといった。彼女はマスクとの摩擦でずり落ちそうになっている度の強い眼鏡をかけ直し、胸ポケットにひっかけていた登録カードでタッチ認証して職場へ戻る。

「どこへ行ってた? 頼んだ資料がまだ提出されてない」

「す、すみません。これから」

 カナリーは部屋に入るなり室長に低めにどやされ、彼女は急いで仕事に戻った。今年で二十六になるカナリーはここに配属されて五年と長いが、未だにこのひりついた研究室が苦手だった。壁の中の廊下に並列している十の研究室の五番目。シェルターを守護する手水局の技術研究部門の構成員として平均値の技術力を持った人間が集められたところである。

「早くしてくれ」

「はい」

 慌ててファイルに報告書を戻し、自分のコンピュータから作成したデータを送信する。

「室長、送信しました」

「開けないが」

「え、」

「ファイルの共有を確認してから送れ」室長は冷淡に注意して、送られたファイルを消去する。

「すみません」

「これは初心者のミスだぞ。くだらない時間を使わせないでくれ」

 室長であり博士でもある上司は常に不機嫌そうで、部下に対してもまるで機械に接するかのように冷たい人だった。カナリーにも例外なく、今も目も合わないその態度に不信感を隠そうともしない。

「……すみません」

 彼女は怯えていることに気付かれないよう表情を殺して頭を下げる。しかし室長はそれを見もせずにキーボードを操作している。

「無駄なことをしていないで仕事に戻れ。どこに行っていたかは知らないが、本日の精霊の観察工程が滞っている」

 カナリーは素直に席を立って部屋の奥の水槽の前まで歩いていく。

 水槽には水が張っている訳ではなく、しかし完全に密閉された中に精霊が一匹入っており、ふわふわと狭い長方形の空間を漂っている。その姿は花を模倣したパラソルのよう。

 カナリーはその精霊に、誰にも聞こえないように小さな声で囁きかける。

「…………お待たせ。今日はどう?」

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