精霊に滅ぼされたところ

瘴・1

 その日、とんでもないものを見た。


「——『精霊とは我々、主に肺呼吸する哺乳類にとっての脅威である。』」

 レスピンゲラ博士は本を読む。周囲の状況など見えていないかのように、もうとっくにそらで読めるような古い基礎入門書の一頁目を。

「『精霊は瘴気を発すると言われる。その成分は空気中を漂い、吸い込んだ人間の肺に取り込まれると、まず喘息に似た症状が出はじめる。次に、皮膚に蕁麻疹のような発疹が現れる。また瘴気は粘膜に接触することでその部位から薄ら黒い腫脹を起こす。爪と皮膚の間からも侵食し、同様に黒く腫れ上がる。その発症速度には個人差があり、平均はおよそ二、三秒から一分程度。瘴気が濃ければ濃いほど早く、深く身体を巡ってゆき、最後には細胞組織を破壊・壊死させ、肺や気道は不全となり、呼吸困難を起こす。そして患者は死に至る。その毒は即効性があると言って間違いはない。』」

 その目の前を、五芒星のヒトデのようなものが縦に回転しながら通り過ぎ、それにパイプを向けた作業班の発砲で四散した。死骸は残らず、その代わりに細かい粉のような霞が散らばり、彼の防護服に少量が付着した。しかし博士は動じず、防塵マスクでくぐもった声で音読を続けた。

「『この瘴気を防ぐ方法はマスクやゴーグル等で顔や手足を重点的に、全身を完全な防塵用の服で覆う事。現在、対抗手段は精霊の駆除と瘴気の吸引作業の二つのみである。』——少し改善されていますね。瘴気の正体とは精霊の表面を覆う微細な鱗から落ちる鱗粉のようなものであると分かっています。粒子に含まれる毒の成分の研究は進んでいて、対精霊学の権威によってその名前も付けられました。有害な成分の中和の実験もとっくに始まっている——成果こそ出ていないけれど。やはり精霊の正体を解明するなんて、今の文明ではどだい無茶な注文なんでしょう。彼らを少し不憫にすら感じますね。調査は続いているにもかかわらず、肝心の結果は何十年も前にストップしてしまっているのですから」

 そこで博士はそっと本を閉じ、鱗粉の付いたゴーグル越しに瞳を正面に向けた。

「博士。」

 その先には、同じように防護服に身を包んだ人が一人だけ立っていた。手に持っているのは先ほど精霊を撃ち払った長い鉄パイプのような音響銃と、重そうなホースの先端。長いホースは博士の座っている大きな機械につながっている。

「終わりましたか」

「ここの洗浄が最後です。まだマスクは外さないでください」

 博士を見下ろしながらそう言って、作業班のその人はホースの噴射口を彼に向けてトリガーを引いた。すると水滴の細かいシャワーのような消毒液が噴射され、博士の身体をくまなく洗浄する。それから博士を退かせて防水の機械をもう一度噴射した。

 レスピンゲラ博士はゴーグルを額に上げ、後頭部の紐を外してマスクを顎の下まで下げる。顔の防塵装備を外してしまうと、フゥ、と息を吐いた。まるで先程まで水中にいたかのように。

「ご苦労様です。シスター」

「まだ外さないでください、安全区域まで待てないのですか」

 シスターと呼ばれたその人は、確かに防塵装備でくぐもった声をよく聞けば女性のそれであった。

「いいさ」博士は眼鏡を掛けながら微笑んだ。「洗浄は済んでいますし。過去の研究の副産物でね、多少の耐性はついています。君は外しては駄目ですけど」

 彼女は博士の言葉に返事をせずにため息だけ吐いて、片付けた荷物を彼の足元に落とした。博士は渡された大きなケースを肩にかけながら、もう歩き始めているシスターの背について行く。

「構成員として編成されてから初めての作業にしては落ち着いたものですね、シスター。」博士は前を足早に歩く新しい仕事仲間に話しかけ続ける。

「新人はたいてい、マスク越しでも気分が悪くなったりしたものですが。製造技術が向上している証拠かな」

「具合なら実際、悪くなってきています。吐きそうなのを堪えているんです。みだりに話しかけないで下さい」シスターはマスク姿のまま吐き気を抑えるように抑揚のない口調で答えた。「わたしはマスクがあってもこの有り様なのに、本当にあなたは大丈夫なのですか」

 博士はふふふと喉の奥で笑い声をあげる。答えは先程言ったことと変えるつもりはないようで、あとは何も言わない。シスターはもうひとつため息を吐いて、そのあとは無言で施設へ足を動かした。


 太古から古代、中世、近代と人間は人間同士の戦いを断続的に行っていたが、数十年前から全く別の脅威と直面して以来、国同士の大規模な戦争は行われることがなくなった。別の脅威とはすなわち、先程彼女が駆除作業をしていた精霊というもの。現代では彼らは、死に至る毒粉を振りまく精霊の駆除に追われている。

 世界がこんなになってしまったのは中世に起きた第一回戦争時代にまで遡る。前触れもなく不思議な生物が大繁殖し、瘴気を散らし始めたのだ。当時の人々はそのまとまりのない揺らぎのような神秘性すらある彼らを、『精霊』と呼び始める。

 それ以前も精霊と呼称されるものが存在していた記述は数多あるが今の精霊と同じ種であるかどうかは明確でないし、今のような瘴気を発していたという記録はどの文献を探しても見つからない。本当に唐突に始まった災害だった。

 幸いといっていいのか、先の戦争で国は巨大な地下遺跡を利用したシェルターを完成させていたため、多くの人はそこに隠れ住んでいる。お蔭で人類全滅なんてことにならずに済んだが、今でもどこからか現れる精霊の駆除は続いている。

「その間に数えきれない人が死んでしまった。シェルターに収容しきれなかった下層の人々や、逃げる前に精霊の毒にやられた人たち。……それから僕の……」

「……何か言いましたか?」

「……いいや。それももうずいぶんと昔の話だ。そう、それよりシスター」

「はい」先程会話を拒んだ彼女はしかし、大人しく博士の声掛けに応じる。「どうしましたか、博士」

「早く帰りましょうか。……なんだか空気が冷たい気がする」

「……それはどういう、」

 レスピンゲラ博士が耳を澄ますような、何かを探すような仕草で空を見上げる。風向きが変わった。

 いつもならばこのまま施設へ辿り着くのだが、今日は外の様子が違った。……どう違うのか。それは彼にも説明の仕様がなかった。学者としては批判を受けそうな三流の見解ではあるが、勘というものであった。

 空は伝書鳩のような白の雲が覆いかぶさって、風が粉塵を運んでくる。それはチラチラと赤く光り、火の粉のようでもあった。

「博士、」

 シスターは風の吹く方を見上げる。

 振り返ると博士はすでにマスクを装着していて、先程と打って変わって硬質な空気を纏っている。

 その瞬間は待望されたかのように訪れた。

 刹那を襲ったのは辺りを巻き込む地響きと巻き上がる粉塵。直前に不時着した機体が、二人のいるすぐ近くに落ちたせいであった。

 機体――オスプレイか飛行機の類だとシスターは初めに認識した。

「…………違う、これは機械なんかじゃない」

 傍らでは博士がそう呟く。マスクのせいでその表情を見ることはできない。ゴーグルの奥の眼が恐怖に揺れているのか、シスターのように驚きで見開かれているのか。

 博士はそっと、慎重に足を踏み出し、落下したそれに近付いていく。シスターは逆に俯瞰して見るために二、三歩後ろへ下がってみた。

「なんてことだ……死んでない。呼吸をしている。ごらん、この辺り、膨らむのが分かるでしょう」

 博士の声は熱を帯びて、シスターに対して冷静に話しかけてはいるものの語尾が震えている。

 全体を目に映した時、シスター・ミノリの顔は一気に蒼褪めた。急激に血が冷えていく感覚に、思わず自分の腕を抱きしめていた。

 精霊。それも普段駆除に追われているような小さなサイズのものではない。

 巨体を支えるための後ろ脚に、スクラップを繋げて作られたような尖った翼につながった丸い鉤爪。鉛色の皮膚で覆われた硬い身体。三角の頭には二本の角が生えていたのだろう。片方は根元から、もう片方も半ばで折れてしまっている。

 鎧のような殻の隙間からは、明らかに異常事態を告げる煙が漏れている。

 人が忌避する精霊たちの、最も大きな種のひとつ。

 太古の伝承上の生物の特徴に酷似した、ドラゴン型の精霊。

「竜…………」

 シスターは走り出して、博士の腕を掴んで強引に引っ張る。

「危険です、博士! 離れましょう! これは竜です!」

「わっ……とと、……ですがシスター、こんなに立派な、生きた竜ですよ。連れ帰れば研究の大きな資料に」

「回収班への報告で十分なはずです。早く遠くへ! このサイズの精霊はこんな装備で洗浄できません。わたしたちが汚染されてしまいます」

 博士は竜から目を逸らそうとしない。半ば心を奪われたような目をした彼に気付いて、シスターの血の気が引く。それでも無理矢理立たせようと引っ張り続けていると、やがて観念したように博士は自分で立ち上がってついてきた。

 シスターは博士の腕を引いたままフィルターまで一直線に走っていく。一刻も早く竜の再来を報告しなければ。


「助かりましたよ、シスター。動揺してしまってすみません」

 帰還時の防護服の洗浄を終え、装備を外しながら博士は声をかけてきた。マスクを取った彼の顔は出発時より少し青白く見える。やはり竜に近付きすぎたのだ。竜の瘴気は強力すぎる。防塵マスクでも防ぎきれなかった前例があるのだ。あれ以上あの竜の傍に留まっていたら、この人も自分も命を落としていた可能性は低くない。

「竜の研究をしていたのでしたか。研究者としてはご自分で調査してみたいのかもしれませんが、あんなに近付いたら危険すぎます。……それにあの大型の精霊からの瘴気がどれだけ強力か、わたしよりご存じのはずでしょう。被害が貴方だけに留まるとも限らないのですよ」

「う……うん、その通りですね。本当に申し訳ない」

 返す言葉もなく肩を縮ませて謝罪する博士は朝に初めて対面した印象よりも小さく見えて、こういう人を憎めないというのだろう。シスターは小さく溜め息を吐いた。

 シェルターの門から狭い通路を歩いていると、そのうちにすり鉢状に造られた階段の多い地下都市空間が階下に広がる。生き残った人間が全て住むにはあまりに規模が小さいが、ここはいくつもある市のひとつである。そして博士やシスターの暮らす区画でもある。

「報告登録は僕がしておきますから、君はもう帰宅していいですよ。よい判断と即時行動でしたね、シスター。初めてなのに総合して素晴らしい動きでした」

「……それはどうも」

 シスターは賛辞の言葉を冷めた態度でいなす。

「ですが正当に訓練を受ければこのくらいは動けて当然です。そうでしょう」

「それはどうでしょうか……」

 苦笑いで受け流した博士の前を通り過ぎて階段の細道へと向かう。

「それと、わたしのことをシスターと呼ぶのはやめてください。わたしはもう修道女でもなんでもありませんので」

「……それではなんと呼びましょうか」

「ミノリと。実のところファミリーネームもあまりわたし自身とは縁がないので、下の名前を使って下さい。――お疲れ様でした」

「では、ミノリ。初めてのお勤め終わりにひとつお節介を」

 言うべきことだけ伝えて話を切り上げようと階段の手すりに手をかけたところで、博士がその背を静かに引き留める。ミノリは仕方なく振り返った。

「たとえ精霊を殲滅しても、きっと君の心は癒えないでしょう」

 先程までと同じふわふわ低い声と、忠告めいた言葉。階段の下から刺すような風がミノリの背中を通り過ぎる。

「…………な、」

「それでは今日はお疲れさまでした。明日も健康にいられますよう」

 博士はそう言うとリズムを刻むように踵を返して道なりを歩いて帰っていった。

「…………」

 言い返そうとした唇が反撃する前に相手を見失い、一人取り残される。記録室へ向かう背中へどなる代わりに無言で手すりの脚を固定しているネジを踏みつけた。

 なんだっていうの。

 あなたが何を知ってるの。

 翻弄されたまま解散されて、消化しきれない反論を反芻しながら足早に帰る。

 

 苛立ちなのか、思い出してしまった感情なのか。もぞもぞと身体の中を這う異物のような不快感を抱き、住宅街を抜けて教会へと続く真っ直ぐな道を歩いていく。

「ヨウコ?」

 古い木戸に手を伸ばした時、敷地内の前庭から修道女の服を着た女性が声をかけてきた。その声は驚きに高まっていて、嬉しいのかうさぎが跳ねるような色を含んでいた。彼女は確かにミノリを見ていて、けれど焦点が合うと正直にも落胆したような、それから申し訳ないような顔色に変わった。

「ただいま」

「おかえりなさい、ミノリ」

「そんなに似てる?」

 ヨウコというのは数年前までここに勤めていたシスターの一人である。

「……似てるわ」

 ナナの抱えていたシーツを受け取り、開けてもらった裏口の扉をくぐって中へ入る。教会の裏へ回った建物の中は少し広めの平凡な民家で、小規模の養護施設になっている。ミノリは部屋中に響く声で言った。

「みんな、シーツ干したから取りに来てー」

 すると廊下の奥から数人の子供が顔を出し、テーブルに集まってくる。

「おかえりミノリ」

「おかえりー」

「ただいま」

 口々に挨拶しながらシーツを取りに来る子供たちは十代前半の年頃が多い。特に文句もなく、慣れた様子で部屋に運んでいく。

「外行ったんでしょ。どうだった?」

 外というのは言うまでもなく居住区シェルターの外のことだ。広い世界への期待と好奇心に満ちた顔で問いかけてくる少女に、ミノリは髪の跳ねたところを直してやりながら答えた。

「……危険なところだよ。マスクなしでは死んでしまうような場所。とてもじゃないけどあなたたちを連れてはいけない」

「えー」

 なんだか残念そうな声を上げるが、あんなところは夢を持つものではない。

「ほら、シーツを受け取って」

「……分かった」

 不満げに自分のベッドのシーツを選び取り、無邪気な少女は部屋に戻っていく。

「どうだったの?」

 元々シスターから洗浄官に職を変えた自分を心配していたナナに再度聞かれて、ミノリは言葉に詰まった。

 二十一歳になった今では別の道へ進んだが、ミノリもここの教会で育ち、成人すればシスターになってこの教会を手伝うつもりで暮らしてきた。だから、ナナにとっては彼女もまだ、子供たちの一人なのだろう。それに精霊の危険さは、ここのシスターならよく知っている。

「…………大丈夫、ナナ。ちゃんと防護服もあるし、瘴気を取り除く機械だってある。安全管理だってちゃんとされてるから作業員のうちで死者なんて滅多に出ない」

「だけど今日は精霊に会ったんでしょう? やっぱり危ないわ」

 それはこの仕事を選んだ時に散々シスターたちに説明した事で、これで納得してもらったと思っていた。けれど自由にさせることと心配することは全く別の場所で動く感情であるらしい。

 それは無理もないだろう。ミノリだって、精霊のことが怖いのに直に接敵する仕事を志してしまった。けれどこれはヨウコが精霊の毒に触れて命を落としたあの日に決めた事だったから、もう後戻りは出来ない。今はこの狭い故郷を守ることが、自分の役目なのだ。

「……心配させてごめんなさい。でもわたしはこの仕事でシスター・ヨウコに報いると決めたの。約束したの。試験を受けるのにあなたにお金まで払ってもらって。ここでやめることは許されない」

「…………」

 ナナもあまりうるさく言いたかった訳ではないのだろう、その後は仕事について行ってくることは無かった。

「……ごはんがそろそろできるから、ゆっくりしてなさい」

「ううん、手伝う」

 ここの時間の流れはゆったりしている。いや、ミノリが入った手水局が殺伐としているだけなのか。それでも、背筋が伸びるからミノリにとってはそのくらいが丁度いい。気をつけていないと、いつ命を落とすかわからないのだから。

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