聖・7

 いつの間にか眠っていたらしい、薄目を開けた瞬間に鈍痛が背中と臀部を襲い、ターリアは顔を歪める。太陽は灰青色の雲がかぶさっているせいでどこにあるかも見えないが、到着した時刻より格段に空が明るくなっていた。腕時計を見下ろすとここに座ってから二時間近く経っていた。

「う……」

 表の入り口から出て少し回り込んだ窓の下、塔の根本に座り込んだところで眠気が押し寄せてきたのを思い出す。煉瓦に背中が当たっていたらしい。椎骨が痛いのも納得である。牽制まがいなことを言うにも、せめて使っていい部屋を案内してもらってからにすべきだったと二時間前の自分に釘を刺しに行きたい気分だが、どちらにしても屋内で長時間を過ごすのはもう少し精霊の気配に慣れてからだと思い直してのそりと立ち上がる。身体は痺れて痛いが外の空気を吸ったおかげで気分も幾分か回復しているし、そろそろ戻っても大丈夫だろう。


 先程通されたダイニングルームに戻ったが誰もおらず、侵入した家の中を物色する空き巣のような姿勢でキッチンを覗いてみると、丁度竜はいなかった。どこか掃除でもしているのだろうか。鬼の居ぬ間にとターリアは調理場に足を踏み入れる。食糧がどこに保管されているのか把握しておく必要があるだろう。

 冷蔵庫を開けてみると最低限の調味料が入っているだけ。市販のソース、マヨネーズ……どうして醤油や塩まで冷蔵庫にぶち込まれているのだろう。ターリアは頭痛を感じるような仕草で人差し指を眉間に突き刺した。そもそもここまで電気が送られていることすら謎だが、関係ないし結局考えるだけ無駄なことかもしれない。

 続いて隣の戸棚を開ける。食器と缶詰が同じ段に詰め込まれてい。缶詰の内容は魚の切り身、パン、フルーツなど見たことのあるものから野菜や既に調理されたものといった馴染みのないものまで大量にあった。最近はこういう奇抜なものが流行っているのか?

 しばらくここに世話になるならバリエーション豊富なのは喜ぶべきか、と思い直してそっと戸棚を閉める。

 ふと、立ち上がりかけたターリアは視界にとらえた違和感を拭い去れずに再度戸棚を振り返った。

 いま、何か、聞こえた?

 もぞもぞ、缶詰の間をなにかが蠢く音がする。

「ぎゃあっ!? 痛っ」

 弾かれたようにターリアは飛び上がり、引き出しの取手に肩をぶつける。

「何してるの」

 中にいたのは案の定精霊だった。いや、それは予想していたからいい。

 気配を感じて横を見た時、視界いっぱいに竜の顔があればそりゃ驚く。

「おい! なんでこいつ、僕に近寄ってくるんだよ」

 竜の後ろから車輪を回して現れたキリヒコが言う。

「ジャクは君のことを気にかけてるようだから」

「気にかけてるって……」

 こいつが、僕のことを? ターリアは険しい顔でジャクを見上げる。っていうか近い。また鳥肌が立ってきた。

「僕はジャクの行動を制限したりはしないよ」キリヒコはターリアの嫌疑の目をふいと逸らす。「彼が君の近くに来たがっているとしてもね。その代わり、君がジャクにまた何かしたらその時はジャクに言って森の深くに置いてきてもらう」

「だったら初めから近づかないよう言って聞かせてくれた方が助かるんだけど」

 皮肉を言っても返事が返ってこない。

「……悪い。分かってる。精霊が人間に引き寄せられるのは安易に止められるものじゃない」

「へえ、そうなんだ。そういうのは分かるんだね」

 皮肉を返されたのは分かったが、反射的に乾いた笑い声が出ただけだった。別に腹も立たない。精霊がそばに居ることが当たり前な人間はこのような生態に気付かないし、疑問も抱かないだろうから。

 だからその竜もお前が好きでそばにいるわけじゃないんだぞ、という頭に浮かんだ争いの火種は即座に消した。いらんことを言うな自分。

「そういえば君の部屋だけど、父の書斎がちょうどいいと思うからそこのベッドを使ったらいいよ。寝具は仕舞い込んでたやつで悪いけど軽く掃除してから使って」

「書斎?」

 そんなところを寝泊まりに借りていいのだろうか。

「いいよ。ジャクにもあの部屋には入らせないようにしてる。翼で本が散らかってしまうから。見てくるといい」


 そう促されたので口頭で案内された通りに家を進むと、三階の端に書斎は眠っていた。

 書斎と言ってもターリアが記憶する本や電子機器で埋め尽くされた研究室のようなものではなく、本棚が二つに書き物机がひとつ、その隙間を埋めるようにベッドがあって椅子代わりになっているという実に狭く見える家具の配置だった。こんなところにベッドなんて置かなければこんなに移動しにくくならなかったはずなんだが。キリヒコの父親はもしかしてズボラだったりしたんだろうか。

 丁寧に掃除されているようだが、ジャクがいつも家の中を掃除しているのだとするならここだけはキリヒコ自身が掃除をしていると言うことになる。文句を言うつもりはないが細かいところに埃が溜まっている。むしろ脚が悪いのにここまでしっかり管理できていることに感心した。

「…………ん、あれ」

「どうかした?」書斎の外からキョウヤが覗く。

「なんでもうベッドメイキングが済んでるんだ?」

「あ、さっき案内してもらった時にさ、ついでにリアちゃんのベッドもやっておいたよ」

 そういうことか。

 意外と綺麗に整えられるんだな、と失礼なことを感心しつつついでにもう一つ聞いた。

「じゃあ真ん中にあるこのでっぱりは? クッションでも入ってるのか」

 掛け布団の下に明らかに何かが入ってるような盛り上がり。ちょっと避けて見てもらうと彼は怪訝そうに首を傾げた。

「え、何それ」

「————」

 怪談なんかより余程背筋が凍った。これは、まさか。

 布団を剥がそうと伸ばす手と逃げる身体でせめぎ合いながら、埃が立つのを無視して勢いよく剥がして。

 嫌な予感が的中した。ターリアは瞬間、頭が真っ白になる。後ろからキョウヤの「わお」という呑気な声が聞こえる。


 そこにいたのはいつも見る憎き精霊。ターリアのベッドに必ず訪れる、細長いクッションの形をした精霊。

「なんでお前がここにいるんだよ!」

 箒を引っ掴んだターリアに、いつの間について来たのかキリヒコが尋ねる。

「その子は見たことがないな、君の精霊?」

「そんなわけないだろ出てけ、あっちいけ、このっ」

 ベッドに寝そべっている丸太型の精霊のすぐ側で箒を横に振ってじりじりどかし、そのまま部屋を追い出す。ああ。こんなところに来てもこの作業が継続されるとは。

「今の、何?」

「ベッド・ウォーム・スピリット。人がいない間にベッドに潜り込んでくるやつだよ」

 キョウヤに袖をつままれたので答えてやる。キョウヤはそれを聞きながらもそもそと廊下を退散していく精霊を見送る。

「柔らかそう。次来たら教えてよ、触らせてくれるかな」

「ついでに放り出しておいてくれるんなら好きにしろよ」

 こいつは本当に精霊が好きなんだなと眉間の皺をこする。キリヒコといいこれのどこがいいのか、ターリアには一ミリも理解ができない。

「どうだい? ちょっと狭いけど」

「居候にはちょうどいいよ。」

 気に入らなかったら変えていいよ、というようなニュアンスで窺ってくるキリヒコだが、そんな心配はいらない。部屋を借りる身としてあまりわがままは言いたくない。精霊の件を最低限としたい。

「ならここを好きに使ってくれて構わない。必要なものがある場合は相談に来て」

「わかった」

 ターリアが頷くと、キリヒコは車輪を回して部屋を離れていった。

「さっきのさあ」

 さっきのって、食事中の言い合いについてか? つい身構えたがゆったりした口調で話すキョウヤは、特に心配事があるような様子ではなく。

「ベッド、なんだっけ」

「なんだよ精霊の話か。ベッド・ウォーム・スピリットだ」

「それってリアちゃんが付けたの?」

 そんなわけないだろうと思いつつ、しかし姿形や性質も個々で千差万別の精霊に種名などそうそうよくあるものでもないので大抵はみんな適当なあだ名で呼んでいたりするのだ。まるで野良猫だ。ターリアにとっては猫の方が何倍もマシなのだが。

「これは僕じゃなくて、父さんがそういう呼び方をするから母さんが真似て付けたんだ」

「お父さん?」

「母さんがな。いつもは僕のところに来やがるんだけど偶に奴が母さんのベッドに潜り込んだ時、彼女はベッドが温かいって喜んでたんだ。それでそういう呼び出したんだろうな。ちょうど冬だったから」

「へえ…………」

「センスないだろ? 名は体を表すとはいうがその言葉を忠実にいかなくても」

「あはは」

 キョウヤは笑顔で相槌を打つ。

「おれ、ログって呼ぼうかな。丸太っぽいし、なんかしゃべってたみたいだったから」

「この家の常連にさせる気なんてないんだから新しい名前を与えるのはやめてくれ」

 ターリアという個人を認識して居場所をかぎつけてきただけでも度を越して迷惑なのに、これ以上こいつと結びつきを深くしたくない。大体精霊が何を喋るっていうんだ。

「ねえねえ、じゃこいつはリアちゃん的になんて名前?」

 と、家の中でも被っていた帽子を指してワクワクしながら聞いてくる。正しくは、帽子の鍔を咥えている精霊を。

「うわ、そうだった」そういえばこいつも精霊だったじゃないか。「ワニクリップスピリットだろ」

「うわあそのまんま!」

「何か不満かよ」

 というかお前もクリップって呼んでたろ、大差ない。

 ターリアが流れで自分も精霊に名前を与えてしまったことに気付くのはもう少し後のことだった。手遅れである。

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