聖・6

 朝食だと言って出されたのはやはりあの竜が用意したものだった。ターリアは手をつけかねて、正座した膝に手を置いたまましばらく動かずにいた。

「リアちゃん。食べないの?」

「何の料理だよ、これ。見たことない」

「シャケ」

「あ?」

「しゃ、シャケ」

「は?」

「う……うーんと……」

 見かねたキリヒコが横から口を挟む。横と言っても二人は和室、彼女だけは襖を開け放した隣の部屋で机に車椅子をつけているので、多少の距離がある。

「鮭だよ。サーモンのことだ……このあとは干物にして保存しようかな」

「……ああ、鮭か。しゃ……何とか言うから混乱したぞ」

「そ、そうやって言う人もいるもん。おかしくないよ」

 キョウヤが小さい声で唇を尖らせる。いいからお前は食べろよと言いながら帽子を被っていない頭を軽く小突いた。キョウヤの帽子はクリップが咥えたままなのでターリアに近付けられず、キョウヤの荷物と同じ場所に置いてきているのだ。

「それで……ターリア。君はやっぱり食べないのかい」

 キョウヤの質問をはぐらかしたのが見抜かれたのだろう。けれど先に伝えるべきことを思い出して、ターリアは別の机で手を合わせている少女の方へ身体の向きを変え、頭を下げた。

「……なあ、本当は車椅子を返しに来た時、一番はじめに言うべきだったことだけど。……昨日は悪かった。怪我させて」

 キリヒコは顔を向けることなく、箸を持ち上げつつ言った。

「打ち身程度だよ。怪我のことなんて気にしなくていい。——謝罪してくれるなら、ジャクにも一言言ってくれたらいいんだけど……?」

 ジャクにも、と言ってキリヒコが指した先には小規模なカウンターキッチンがあり、天井が近いせいで首を縮めながらせっせと三人が使ったカップを洗剤で洗う竜が見えた。

「いや。精霊に言うことは何もないな」

 ターリアは取り付く島もなくばっさりと即答した。瞬間、空気が凍りつく。異国の慣用句で表現するならば、まさに……死神が通った、と言うところか。精霊はいても、死神なんていやしないが、とターリアは声に出さずに淡々と呟く。

 こちらを見ないキリヒコの表情は相変わらずよく見えないが、昨日から会話をしていると自ずと見えてくる。どうも、彼女は精霊のことになると感情のコントロールがぐらつくらしい。それだけで、ターリアとの相性は最悪だ。謝ってくれと言った彼女が何を求めているのかは大方察しがつく。今までターリア自身が竜に対して行った対応と態度を恥じて、取り消して欲しいのだろう。その感情に引っ張られないために、彼女の気持ちと自分との間に線を引くように、踏み込めなくするように、ターリアは続けた。

「悪いけど、僕は精霊に対して態度を改めるつもりはない。謝罪もしない。何を言ったってどうせ伝わらないし、無意味だからだ」

「やめてくれ」

 キリヒコはしばらく静かに聞いていた。しかし我慢の限界だったようだ。漆塗りの黒い箸を強く握って、それからゆっくり置いた。

「……ジャクは、あの竜のことだけは、悪く言うことは許さない。僕の家族なんだ」

 彼女と竜を見ていて、きっとそういうことだろうと予想はしていた。キリヒコはあの竜と自分を家族という関係なのだと思っていると。ターリアは嫌悪感に顔を歪めて。しかし冷静にひと呼吸おくと腰を上げ、退室しようと畳から一段下がった床に置いていた靴を取る。

「精霊と人間が家族になんて成り得ない。反論は聞かないぞ。これ以上の議論はしないって決めてるんだよ、不毛だからな」

 革靴を履いて床に降り立ったターリアが見下ろすと、一瞬だけ、今にも言い返しそうに見上げてくる彼女の眼と対峙した。けれどターリアは言葉通り聞く気がないことを示すようにそのまま爪先を逸らし、部屋の扉に手をかける。

「つまり……この朝ごはんはいらないんだね? 折角ジャクが用意してくれたのに」

「言っただろ。精霊の作った物なんて口に入れられない」

 言い捨て、振り返りもせずに後ろ手に戸を閉める。寄りかかるようにして閉めた背を扉に預けた格好のまま、ターリアはしばらく息を殺して立っていた。

 この質問が関係を修復する最後の機会だったのだろう。精霊のことに関して、自分が譲歩すればこのあとの三ヶ月はより楽に過ごせることだろう。家主の機嫌がいい方が肩身も狭くない。けれどこれを譲る気は毛頭ない。誰がどう言おうと、僕は、精霊を嫌いでいる。


 そのせいで友人を失うことになるとしても。


「なんか疲れちゃうんだよな」

 生徒が下校したあと、取り残された伽藍堂のような校舎に響く声が耳の奥に蘇ってくる。

 森に閉じ込められる少し前の話……いや、ちょうど最後の日のことだ。忘れ物に気付いて教室に戻る直前、友人の声が聞こえて引き戸にかけた手を反射的に引っ込めた。直感だがすぐに分かった、彼らが自分の話をしている事を。

「嫌いなのはわかるけどさ、いつも精霊なんかに過剰反応して疲れねえのかな?」

 教室の中には彼ら二人しかいないようで、抑えた声はそれでも響いて聞こえる。部屋と廊下とを隔てた薄い壁など耳をそばだてるまでもなく、嫌でも聞こえてくる。

「というかこっちが疲れるんだよな、精霊が近づいてきたら気い使わなきゃなんねーし」

「精霊だって四六時中いるもんなんだから慣れるだろ、普通はさ」

「本当にな。ちっとは精霊を好きになる努力でもして、他人に歩み寄ってくれないかね……」

 これ以上は聞く気にならなかった。

 釘付けされたように重くて動かなかった靴底を床から引き剥がし、大袈裟に音を立てて戸を開ける。教室の窓際の席で、びっくりしてこちらを見る二人の顔。

「まだ残ってたのか」先程の会話を聞いていないというそぶりをして教室に入る。いつも通り、普通の顔をして。……している、よな?

「ターリア…………」

 盗みがばれたかのような目で、ふたりはたった今入室した友人の名前を呼んだ。

「忘れ物をしたんだ。取りに来ただけだよ」ターリアは机を避けながら自分の席にたどり着くと、椅子にくっついていた精霊を払って教科書を鞄に突っ込んだ。「よりによって明日当たる教科のノートを忘れてたんだよ。ていうかお前ら観たい番組があるとか言ってなかったか? なんでだらだら残ってるんだよ」

 二人の顔を視界に入れずに喋るターリアに友人が声をかける。

「ターリア。その、今の——」

「今のって?」教室を出ようとしていたターリアが立ち止まって、二人の友人を振り返る。二人は口籠って、答えられなかった。「早く帰れよ。学校閉まるぞ」

 ターリアは彼らの言葉を聞かなかったことにするつもりだった。引き戸を閉める音で事実を切り離す。追いかけてこないから、ターリアは今の会話を聞いていないと思ってくれたか、取り消すつもりがないかのどちらかなのだろう。

 人と違うと杭を打たれるのはどこへ行っても変わらないことだ。いつものことだし、別段傷付いてなどいない。

 そう、これは故郷でも同じで、母のほかに誰もこの精霊嫌いを理解してくれる人はいなかった。共感して欲しいわけでも、何かを望んでいるわけでもない。所詮、自分が一人で嫌っているというだけの話だ。こういう人間に対して取る行動として、あの二人は人格的な方だと思う。ターリアの振る舞いに呆れながらも嫌な顔一つせず、ここまで友人として付き合っていてくれたのだから。翌日には距離をとられていたとしても、おそらく二人との間でトラブルになることもないだろう。


 キリヒコたちにしても、ここまで言い捨てたのだから、これ以上精霊について何かを求めてくることはないはずだ。少なくともあの少女は、竜のことを対等に扱おうとしない相手に余計な火種を巻くことはしないだろう。ジャクと呼んでいた当の竜がいる前で、『家族』のことを愚弄されるのを避けるためだ。それにこれで、彼女はターリアに竜を近付けさせないように動くはず。ターリアが拒絶することであの竜が傷付くことを懸念する、と思われるからだ。ようやく戸から背を離して自分の足に体重を戻し、熱りが覚めるまではどこか彼女の通らなさそうなところで待っていないとな、とため息を吐いた。自分で招いた展開とはいえ頭が痛い。気まずくて仕方ない、まるで毒ガスを吸っているかのようだ。

 罪悪感だけでなく、実際に少し気分が悪い。ターリアは不快そうに眉を寄せて、握り締めたままの手で口元を抑える。この家は、窓がいくつか開いたままになっている。そこから外の精霊が出入りできるようになっているのだろう、濃い精霊の気配に酔いそうになっていた。大体の人は精霊の匂いに酔うことはないだろうけれど、ターリアは人より精霊に対して敏感に反応する性質があるらしく、あまり近寄りすぎるとよく当てられてしまう。兎も角ここにいたら駄目だ。竜の匂いが充満して気持ちが悪い。


 やっぱり人間の方が信用できる。いくら陰口を叩いたり、主観を押しつけ合ったりしていても、精霊より余程受け入れられる。何を考えているのか、予測しやすいから。


 シンクでは竜が食器を洗う音が気まずい沈黙を慰めるように聞こえてくる。ふたりは押し黙ったまま。キリヒコの方を何度目かちらりと横目で見る。表情は前髪で隠れて見えなくて、けれど丁寧に陶器を洗う竜のことを眺めているのだろうか。キッチンの方へただ顔を上げている。視線を送っていることを気付かれないようにすぐにまた膝に目を落とした。

「……ごめんね、居心地悪くさせて」

キョウヤは急に話しかけられて、反射的に顔を上げる。すると気付けばキリヒコはこちらを見ていて、心の準備もなく目が合ってしまった。

「う、ううん。」キョウヤは少し安心して首を大きく振った。「……あの、あのこ、ジャクって言ったっけ。あんな大きな精霊は初めて見るよ。きれいだね」

 竜の方を指してそう言ってみると、予想外だったのだろうか、ふたつ瞬きをする。それから不意に微笑んだ。

「『竜』だよ。彼も言っていたようにね。聞いたことはない?」

「そ、そりゃあるよ。竜といえば国のいちばん高貴な人のお側にいる精霊でしょ。国にとってすごく重要な……あれ、でも、想像してたのとちょっと違う、けど。きみの竜はなんかトカゲみたいだね」

「まあ、竜と言っても、そういう血統と関係のあるタイプじゃないからね」

 へええ、と抑揚たっぷりに相槌を打って。

「べつの種類もあるんだ。知らなかった」

 竜に目を向ける彼女につられて、キョウヤもキッチンの精霊に視線を移した。ジャクは相変わらずシンクの前に立っていて、洗ったばかりの食器をタオルで拭っている。あんなに大きな爪で、つまり、人間の手ほどの小さな前脚から不釣り合いに伸びる長い爪で器用に陶器を掴んでそっとタオルを撫でつけている。ティースプーンはどうやって持ち上げるんだろう。

 くす、と喉を鳴らすような笑い声。

「え?」

 何か言いかけたのかと思って聞き返すと、キリヒコは笑いを抑えながら、ああごめん、と口を顔の前で手を振る。「失礼。ちょっと気が抜けただけだよ。……君は精霊を嫌いなわけじゃないんだね。もしかしたら僕のほうがおかしいんじゃないかって、彼と話していたらそんな気になって」

「リアちゃん?」

「君は面白い呼び方をするよね。そう、ターリアのことだ。……精霊をあんなにも憎んでいる人がいるんだね。さっきは動揺していたんだ。ああいう人が歴史上にもいたことは知っていたけれど、今まで会ったことがなかったから」

 キリヒコはこぶしをぎゅっと握って、すぐに緩めて、息を吐きながら天井を仰ぐ。それから背を丸めてくくっとまた笑い声が聞こえてきた。

「君、ちょっと不思議だね。」

「おれが? おれ、た、ただの男子だよ……」

「ぷっはは、わかっているよ。ただ、話しただけで少しすっきりしたんだ。助かったよ」

 どもりながら主張すると、それも可笑しかったようでキリヒコはさらに吹き出した。

「……なんか、よくわからないけど。どういたしまして」

 で、いいのかな。と首を傾げる。するとキリヒコも鏡のように首を傾げて、首肯する代わりに微笑んだ。

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