聖・5

 通された部屋で少し待つと、竜が三人分のカップを持ってやってきた。前脚で不器用そうな音を立てながら一人ずつに配っていく。精霊が、それもあの竜が使役される事例なんて初めて見た。こんなこともあるのかとターリアはげんなりしながら給仕の様子を眺める。

 お礼の代わりと言って出された紅茶は確かに良い香りがして、部屋に特有の香ばしさが広がる。年季の入った木の匂いもするから、これは家そのものの匂いだろうか。外観は煉瓦か石で作られていたように見えたが、内は戸の枠や柱が木材で支えられていた。カップを出されてすぐに口をつけたキョウヤが舌を火傷している間、ターリアは紅茶の湯気が揺れるのをただ睨んでいた。

「君は飲まないのかい」

 少女は少し離れた小さなテーブルに同じ白地に藍色の柄のカップを置いて、車椅子からターリアを見下ろしてくる。

「……ごめんよ、うちに来客なんて何年もきていないから、たまたま椅子が残っていた和室にしか通せなくて」

 座椅子がな、と心の中で訂正して、ターリアは返事の代わりに鼻を鳴らした。それに気付いてかどうかはわからないが、彼女は挑戦的に言葉を選んでくる。

「それとも、君の嫌いな精霊が淹れたキーモンは飲めないかな」

「飲めないね」

 ターリアは挑発に乗るつもりで即答して、主人の後ろに大人しく控えた竜を睨んだ。

「精霊は例外なくその身体に吹いた粒子をこぼしてる。そんなのが入った紅茶なんて飲めるわけがないだろう、気分が悪いよ」

 彼女は目つきを険しくして、苦そうに自分の竜が淹れた紅茶を唇に運ぶ。

「き、キー、モン……」

 キョウヤが困った顔で呟いているので、「キーモン。紅茶の種類だよ」と声を低くして教えてやる。

 少女はカップをくるりと揺らして、赤みがかった茶の波紋を見つめる。

「精霊が落とす鱗粉は人体に害はないよ。それどころか医学的にも利用効果が出ている。新聞を読まないのかい」

「民間療法でも万能薬だろ。知らないわけがない。じゃあ、お前、医学的根拠があったらその辺の羽虫も紅茶にぶち込むのか? 生理的に無理だと言ってるんだ。」

「君、ジャクに向かってそれ以上何か言ったらつまみ出すよ」

「話があるんじゃないのか?」

「運んでもらった上、車椅子まで届けてくれた借りがあったから、手を貸そうと思っただけだよ。話をした後はその後の君の行動に規制を設ける気はないし、元来君がのたれ死んだって、僕に関係なんてないんだし」

 どういうことだ、と言い返そうとしたときに、キョウヤが自分の頭の上で両手を大きく振った。

「ちょ、ちょっと! 喧嘩はだめ!」

 キョウヤの声が響き渡って、言い合いは一時休止した。淀んだ沈黙に耐えきれなくなったキョウヤが打って変わって、蚊の鳴くような小さな声で仲裁を試みる。

「あっ、あのさ、もしかして二人って知り合いだったりする? おれが知らない話してない?」

 ターリアはため息を吐いて、少女を睨んだまま、平静を保とうと低い声で言った。

「昨日会ったばかりだよ、困ってそうだったから手助けしただけだ」

「先程から言うように、それに関しては感謝しているよ。だけど車椅子をわざわざ届けてくれるなんて思わなかった。僕は預かってくれって言ったつもりだったんだけど」

「余計なことをしたって言いたいのか」

「言いたいんじゃなくて、そう言ってるんだ。おかげで厄介なことに……」

 少女が言い終わらないうちにその言葉は途切れて、キョウヤの肩がびくっと跳ね上がった。どちらも、苛立ちにまかせて机を叩く音がしたせいである。

「要領を得ないな」ターリアは両手を机に突いた状態のまま、とうとう彼女に向けて声を荒げた。「こっちは用件を聞いたらさっさとお暇したいんだよ。いつまでも精霊の家なんかに居たいものか!」

 当の竜はいつの間にやら姿が見えない。ターリアたちが家に入ってきて示されたこの椅子に座った時にはせっせと紅茶を淹れていて、翼をくっ付けた前脚で慎重に運んできたのに。この少女の言うことに従っていたようだから、今度は別の用事を言いつけられているのだろうか。

 ターリアの放った言葉に、少女は眉を寄せる。張り詰めた空気に空間が息を飲んで。彼女は不毛な睨み合いをやめると瞼を伏せて唇を開いた。

「そうかい、だったら結論を言おう。君たちはこれから夏至までここから……この森から出ることができない」

「…………えっ?」

「は?」

 少女はもう一度、とどめを刺すような顔をして繰り返した。

「君たちはこの森の結界に閉じ込められたんだよ」

「……結界?」

「そう。」

 少女は真顔でうなずく。

 冗談だよな、からかってるのか? 昨晩、月明かりで見た揺らぐ曇りガラスが鮮明に脳裏を巡って、ターリアの言いかけた揶揄は水蒸気のように喉の奥で消滅した。夢か現かの判別くらい出来るつもりだが、あれは白昼夢でもなんでもない。突いても、体当たりしてもびくともしなかったあの壁は本物だった。

 隣で面食らった顔をしたキョウヤがこちらの様子を伺って見上げてくるが今は彼をなだめてやる余裕がない。帰れないなんて、あの身体の弱い母親がどれだけ心配することか。ターリアの頬に冷や汗が滲む。

「帰りたい? 帰らなきゃならない?」

 異国風の少年の乱れた息遣いを感じ取って、少女は注意深く彼に投げかけて。

「残念だけど、あれは壊せないよ。どうしようもない。待つしか手段はないよ」

 壁は本物——とか分析しておいて、実は全てこの女に見せられている夢か幻なのではなかろうか。この塔のような家も、外の水路橋も、少女も竜も、隣に座る少年でさえ、全部。

 息が止まりそうだ。母親のことを思ってか、恐怖か、精霊の家にいるという拒絶反応からか。

 とん、と肩に触れられた感触に驚いて反射的に振り払う。同時に「ひぇ」と甲高い声がしたと思ったらキョウヤが手を押さえていた。

「…………あ」

 自分を気遣ったのか不安だったのか、肩に触れてきたキョウヤの手を叩いてしまったのだ。ターリアは後悔する……近頃はこんなことばっかりだ。

「いてて。だ、大丈夫……?」

「大丈夫だ」

 強がって返事をした。動揺に支配されたらいけない。ぼんやり逃避している場合でもない。

「質問はまとまった?」

 皮肉ではなく、彼女は会話を待っていたようで、ターリアの視線が自分に戻ったと認識すると頃合いを見て口を開いた。ターリアは焦点を合わせて少女を見据えると、短く息を吸い込んで言った。

「…………あの壁は一体なんだ?」

「君は思ったより聡いらしくて助かるよ。最悪、殴られるかとも思ったけれど」

 努力の成果だな、と思ったがそれは伏せて口元を歪めて笑むだけに抑えた。本来、言い争いをしたい性格ではないのだ。おそらく、お互いに。

「君たちはすでに見たんだね、あの結界を。曇りガラスみたいだったろう」

 キョウヤがこくこくとうなずいている。ターリアはようやく座椅子に腰を落とす。

「超常現象みたいで戸惑うかもしれないが、あれは僕の先祖がつくり出したものだ。必要以上の外界との接触を避けるためにね」

 外界との接触。その言葉だけで浮世離れしていると感じる。この塔は一体なんなのだろうか。先程から肌に滲んだ汗が一定量までになって、頬を伝っていった。

「来たときに水路橋が建っていたのは見ただろう。その先には崖があって、橋はそこでおしまい。代わりに水閘が先の水路をつないでいる。僕の家族は代々、あの水路橋と水閘と、この塔を守っているんだ。……今はもう、僕とジャクしかいないけれど」

「待て。口を挟むぞ。お前の話は前提がおかしい」

 ターリアが彼女の説明を途中で止めて、皺のよった眉間に人差し指を打つ。

「水路橋があったのは確かに確認したけど、あれがどの運河とつながっているのか僕には見当がつかない。今まで見たここ周辺の地図には森へ続いている水路も、森の中にある水路橋や水閘の存在も全く記されていないからだ。もちろんこんな塔も書かれていない……認識されてないんだよ、お前の住んでいるこの建物全部が」

「あれっ、確かに!」

 黙っていたキョウヤが急に合点がいったという具合に声を上げる。ふたりの視線を浴びてしまい、キョウヤは帽子を深くかぶって縮こまる。大声を上げたり萎縮したり、忙しいやつだな。ターリアは軽くぱちくりと瞬きしてから、息をつく。気にしないふうに少女は返答する。

「三階から覗くとわかるけれど、あれは普段水が通っていないんだ。地図に載っていないのも当然だよ」

「使ってもいない水路橋と水閘をどうして世襲して管理する必要があるんだ?」

「使われているからこそ、守っているんだ。最後の一人に至るまで」

 ターリアは押し黙る。沈黙に喉元を撫でられる感覚がした。彼女の言葉を聞いていると煙に巻かれそうだ。

「…………兎に角、僕たちは夏至までこの森を出られない。その情報は本当に信用に足るのかが最も重要な問題であるわけだ。そういえば偶然にも昨日、つまり僕たちがこの森に入ったのは春分の日だったわけだが、至点が何か関係しているのか?」

 少女は微かに眼を見開いた。正解だったらしい。

「ご明察だよ。頭がいいんだね。その通り、この森の道が開けるのは春分の日、夏至、秋分の日、冬至の計四日だけ。その理由は実は僕にもわからないのだけど」

 血の気が引いて、ターリアは少々身震いする。まさか彼岸、冥界の類に迷い込んだんではないだろうな。

「管理者はお前だろ。仕事の目的が分からないなんてこと、ありえるのか?」

 彼女は静かに首を振る。

「僕は家族が残したものを守っているだけだから。」

 分からない? 重要なことを聞き出せず眩暈がしそうだった。けれど仕方がないのかもしれない。警戒しすぎて忘れていたが、彼女もまだ子供だということだ。

「……もういい」

「り、リアちゃん」

 話をしていても埒が明かない。疑問は尽きない。

 それでも、これ以上は真偽を疑っても仕方がない気がした。

「お前は僕たちに手を貸すつもりだって、さっきは言ったな。僕の非礼の数々で、気は変わったか?」

 隣でキョウヤが身をかたくする。

「……ううん。元を辿れば僕が車椅子を壊してしまったのが原因だから、見捨てるわけにはいかないよ。ここに住んでもらおうと思ってる」

「え! 本当? よ、よかったあ!」ただでさえキョウヤの大きな地声が一際大きく響いたのは、放り出されないことに安心したせいだろうか。「おれ、もし追い出されたら餓死してるよ。ありがとう、ほんとにありがとう!」

 キョウヤは感極まったのか、裸足のまま畳からおりて少女の手を掴んでぶんぶんと上下する。少女は目の前でありがとうありがとうと連呼するキョウヤにたじろいでいる。その二人を眺めながら、ターリアは落胆を隠すために深く息を吸う。

 想定はしていたが、やはりそうするほかないのか。キョウヤは解決したように笑っているが、ターリアは内心頭を抱えていた。しかしその嫌悪は一旦仕舞って畳をおりると、人の家でぴょんぴょん飛んでいるキョウヤを制止して、「もうひとつ」と人差し指を立てた。

「……確かにそれしかないかもしれないが……お前は? 男をふたりも家にあげて、あまつさえ三ヶ月も住まわせていいのか?」

 か細い少女を見下ろしながら背負ったときの身体の軽さを思い出して、苦言を呈する気持ちでそう指摘してみる。すると少女は何も心配ないと確信したような眼でターリアを見つめ返す。

「平気さ、僕のそばにはジャクがいるから」

 ターリアは首筋を掻いた。母国語で、違いない、と呟く。

「否定できないな。お前に従うよ」

 言いながら、白旗代わりに手のひらを上へ向けた。

「朝ごはんがまだだよね。質素なものだけど、用意をするから座っていて。」

「あっ待って!」

 車椅子を漕ぎ始めた少女の手に、キョウヤが自分の両手を重ねるようにして引き留める。しかし、顔を上げた彼女と視線が合ってしまって。

「……なに?」

「あ、えっと、」

 慌てて手を引っ込めて目を落とす。言いかけた言葉を忘れたのだろうか、ターリアは苛々しながらも黙って眺めていた。

「…………」

「ああ、そういえば名乗っていなかったよね。……改めて、僕の名前は、キリヒコだ」

 キリヒコ。

「キリヒコ!?」

「……びっくりした。さっきから思っていたけど、君は声が大きいね」

 キリヒコもキョウヤも驚いた表情で顔を見合わせている。ターリアは冷静に首を傾げる。

「『キリヒコ』って、男性名じゃなかったか?」

「きっ、きみって男……」

 どよどよと戸惑う少年たちに片眉を上げ、呆れたように前屈みで肘掛けに寄りかかりながら彼女はため息を吐いた。

「全く、ひとってすぐ名前や見た目で判断するんだから……そんなこと、決まってるじゃないか」

「き、決まってるって……。結局どっちなのぉっ?」

 動揺したキョウヤの声が響き、塔の中を駆け巡る。隣に立っていたターリアは耳を塞ぎ、別の部屋でこまごまと掃除をしていた竜の首筋がビリリと反応し、外から侵入しようとしていた精霊たちは開け放しの窓からそっと出て行った。

 耐えかねたターリアから頭をはたかれて帽子がずれる。そのはずみでクリップがカランと床に落ちた。

「うるっさい。人の家で騒ぐんじゃない」

「ああっ、クリップ……何すんのさあ」

 落ちた衝撃で、ターリアが髪留めだと思っていたものが身じろぎしたのをはっきりと目撃してしまって。ターリアはクリップを拾うために膝をついたキョウヤに指をさす。

「あっ、お前それ、まさか精霊か!? 騙しやがって!」

「そんなつもりじゃ……」

 キョウヤは昨晩に記憶を遡って、そういえばターリアが精霊嫌いをカミングアウトしたから、角が立たないように心持ち遠巻きにしようと決めたことを思い出す。

「そ、その、正直に言うと隠してた……」

「素直なやつかと思ってたらこれだよ。よく見なきゃ完全にただの髪留めじゃないか。これだから擬態型は油断できない!」

「で、でもこいつ何もしないよ!」

「お前にそいつの何がわかる!」


「——……賑やかになりそうだな、この三ヶ月間は」

 少年二人が姦しく言い合うのに背を向けて、キリヒコは予言してみる。喋れる口が二つに増えただけなのに、なんと耳障りなことだろう。男の子という生き物はみんなこうも騒がしいものなのだろうか。ため息を吐く彼女の口元は、しかし、先程までの固い真一文字ではなかった。

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