聖・4

 夜が開けて、幹の間を縫っていた朝の太陽が枝葉の向こうへ顔を隠して。車椅子を運んで移動するターリアたちの足元には木陰の絨毯が出来上がる。

 結局、あの壁の正体も謎のまま、越えることも出来ずに、二人は引き返すことに決めたのだった。テントを広げて不本意ながら並んで眠って、朝を迎えてから再出発した。

「昨晩から歩き通しだ……」

 思わず祖国の言葉で向ける相手を決めずにののしって、季節が夏でなくて良かったと心底思った。この国の夏とかいう季節はあまりに暑すぎる。

 しかし実際は、大変なのはキョウヤの方だった。体力のない彼はここまで共同で車椅子を運んできたが、息も荒く疲弊が激しい。

「また休憩するか? さっきしたばっかりだけど?」

 キョウヤは力なく首を振る。

「あっそう」見るからに疲れているのに、まだ我慢するのか。そこまでして急ぐ理由なんかないのに。

「車椅子、ないと絶対困るでしょ……はやく届けてあげなきゃ……」

「…………。じゃあ頑張れ」

「うん」

 ターリアは車椅子に寄ってきた精霊を追い払い、その手で頭をがしがしと掻いた。予想した言葉が返ってこないと調子が狂う。

「リアちゃん、すごいよねぇ。まだ余裕で歩けそうだ」

「ふざけたこと言うな、僕だって当然疲れてる。ともすればお前より歩いてるんだから」

 と言うか、その呼び方を変える気はないのかよ。

「嘘ぉ、リアちゃん、全然息切れしてないじゃん。すごいなあ」

「疲れてんだったら黙って運べよ……」

「紛らわしてるんだよ」

 なんと非効率的な紛らわしかた——と思ったが、まあ、距離も時間もターリア自身把握していなかったせいで事前に伝えておかなかったし、いつまで歩けば良いのか分からない彼の状態を考えればそういった方法に走るのも無理はない。

 とは言っても、もうそれに付き合ってやることもないだろう。

「もう着くぞ」

「えっ、」

 森が開けて、彼女の住居と水道橋が昨日と変わらない姿を見せた。ターリアが前に見たときは日没の迫った時間帯だったから斜陽の色が情趣的な風景に見せていたが、今は古い建造物は純粋に昼の白い光に照らされていた。

「……わあ、あんな家見たことない。」

 息を切らしながらそう感想を漏らして、またぱちぱちと大きく瞬きする。茫然と目の前にある二つの建築物を眺めている。しかし、ふと何か疑問が芽生えたような表情に変わってターリアに目配せした。

「……と、言うか、こんなところまでついてきて今更言うことじゃないんだけど、本当にこんな森の奥に人が住んでる、の……?」

「本当に今更だなあ……」

 こんなところまでついてきた後で思いつく質問ではないだろう。ターリアは完全に呆れてしまった。彼は果たして将来的にちゃんと生きていけるのだろうか。少なくとも家出している身ならば尚更、もっと周囲への警戒心を培うべきではないか。

「ご、ごめん……」

「くだらないことで謝るな。さっさと返して帰るぞ……各々」

 玄関らしき、つまり、昨日は竜が出迎えて少女とともに入っていった扉の前まで運んできた車椅子を一度下ろして、ターリアは来客用のベルを探した。

「インターホンは?」

「ないな。ノッカーもない」

「の、ノッカーって?」

「お前のこぶしの代わりにノックするやつだよ。……仕方ないな」

 訪客の知らせをするものが何もない。それほどここには人が来ないから必要がないと言うことだろう。ターリアは自分でこぶしを握って、中指の付け根の骨を扉に当てて……。

「…………」

「あれ、」キョウヤが駆け寄ってきて隣に立ち、ターリアの手元を覗きこむ。「ノックしないの?」

 ターリアは重い気分でもう一度こぶしを扉に当てて、二回叩いた。

 家人の返答を待っていると、

「はい」

 と、声が聞こえてきた。確かに彼女の声だ。

「あれ!?」

 素っ頓狂な声を出したせいでターリアに足を踏まれ、キョウヤは一本足で飛び跳ねる羽目になった。

「車椅子を返しにきた。どうすれば良い」

 扉の閉じられた家の奥に聞こえるよう、ターリアは声を張り上げて用件を伝える。返事は聞こえなかった。向こうからの対応を待つほかないようだ。

「じっとしてろ」

「お、女の子だった……ばあさんかじいさんかと思った……」

「歳はお前とそんなに変わらんと思うぞ」

 玄関先でぼそぼそとそんな会話をしていると、予兆もなく扉が開いた。予想していた以上に乱暴に開けられた扉から飛び出てきたのは、そう、あの竜だった。

「ぎゃあああああっ!」

 勢い余った竜の胴体に体当たりされて、ターリアは石畳に頭をぶつける。

「うわあ、竜だ」

 キョウヤが呑気に歓声をあげている間に、竜はターリアを突き飛ばした先にある車椅子に駆け寄っていた。それを受け取りに来たようだ。

「このっ、一度ならず二度までも……」

「ジャク、戻ってきて」

 彼女の声が聞こえたが、後頭部に衝撃を受けたせいで平衡感覚が麻痺して、しばらく目の前もよく見えない状況だった。いや、そもそも眼鏡が吹っ飛んでしまったのだ。見えるはずもない。

「……。君は誰?」

 ターリアがなんとか眼鏡を拾う間に、キョウヤは少女と目が合ってしまった。少女は竜に支えられて玄関から数歩出ると、初対面の少年に声をかける。

「えっあ、えっと、」キョウヤは慌てて帽子を外して頭を下げる。「お、おれ、キョウヤといいますっ」クリップが帽子にくっついたままなことに気付いて、振り回した事を心の中で詫びた。

「ご丁寧にどうも。頭を上げて。……君はそこの男に連れてこられたの?」

「語弊のある言い方をするな。有志に決まってるだろ」

 ターリアが眼鏡を掛け直しながら立ち上がって、制服の塵を払いながら口を挟んだ。

「リアちゃん」

「……君に質問した覚えはないけれど。順番は守るべきだよ」

「はあ…………?」

 キョウヤは慌てて答えた。

「おっおれが届けたいって言ったんだ。せっかくだからって。その、車椅子を勝手にいじったことも伝えておかなきゃって思って……」

 いじった? 少女は口の中で繰り返して、竜の足元に置かれた車椅子を点検し始める。車輪とキャスター、背もたれにあったはずの傷や、劣化が始まっていた箇所。ひとつずつ指でなぞって、は、と感嘆の息を漏らす。

「……直ってる。君がやったの?」

「うん……かんぺきに出来てはいないけど。素人だし、道具もちゃんと揃ってなかったから……」

 少女は車椅子に釘付けになったまま首をふった。

「……いいや、素晴らしいよ。古いものだから、壊れたらもう使えないかと思っていたんだ。ありがとう」

 振り向いた少女に笑顔を向けられて、キョウヤは緊張にふためいて両手を横に振る。

「そんな……あ、あの、座っても大丈夫だと思うんだけど」

 少女がそれを聞いて竜のほうを見上げると、許可を得ようとするような目配せに答えるように、竜はニコッと目を細くして少女に目を合わせた。……少なくとも、キョウヤには竜が微笑んだように感じられた。

 竜に支えられながら腰を下ろし、車輪を回してちゃんと動くことを確かめた少女が仕切り直すような真面目な顔をして顔を上げた。キョウヤを見て、次にターリアに視線を移す。

「さて……お礼をしないとね。それに君たちには話がある。どうぞ上がって」

 手のひらを上へ向けて招くような手振りをすると、竜がいそいそとした足取りで玄関へ歩いて行き、扉が閉まらないように前脚で押さえて立った。キョウヤは招かれるままに少女を通り抜けて、竜の待つ扉へ歩く。

「僕は遠慮する」

 ターリアのみがその場から動かなかった。川の流れに逆らう芦のように、背を伸ばして少女を見据えて立つ。悪い小人に唆されてでもいるかのような敵意を込めた表情で。

「僕は精霊に茶会へ招かれるためにきたんじゃない。お前の座っているその椅子を返却するために長々とこの歩きにくい道を引き返してきたんだよ。そっちのやつは好きにしたらいいけど、僕はもう帰らせてもらうから」

 鼻先を逸らし、踵を返して、木々の間に続く飛び石の道へ再び戻ろうとする。

「リアちゃん、ま、まって、帰っちゃうの?」

 キョウヤが驚いて追いすがって来て、手首を両手で掴まれた。売りに出された子供のような悲しそうな顔をされてはターリアもたまらない。

「山に捨てるんじゃないんだ、そんな形相で後ろ髪引かれても困る」

「でも……っ」

 ターリアは両手から逃れようと前傾姿勢で言い聞かせようと試みる。

「あのなあ。お前は僕の友達でも弟でもないんだから、いつまでもお前の世話なんてしてられないんだよ。帰りたくないと言ってたお前には好都合なんじゃないか、ついでにここに数日間泊めてもらったら良いじゃないか」

 どんなに引っ張っても引き抜けないし、もう片方の手で掴んだ彼の手を剥がそうとしても一向に外れない。明らかにターリアより力が強い。こんなに差があるのなら、車椅子を一人で運ばせればよかった。そうすればきっと、こんなややこしいことにならずに済んだのだ。

 と、その様子を眺めていた少女が、結んでいた唇を緩めて呟いた。

「……それは君もだよ」

「…………え?」

 彼女の声は鈴のようで、もう一度言葉を選び直すと、彼らを囲う木々にまで響いた。

「戻ったって無駄足だと言ったんだよ。」少女は竜に目配せして、自分は車椅子の車輪を漕いで家の中へ向かう。「説明は中でしよう。日本茶が嫌なら、紅茶もあるから……ジャク、客間までご案内して」

 先に中に戻っていく主人を追いかけたかったのか、ジャクは急いでキョウヤを前脚で器用に抱える。続いてターリアにも前脚を伸ばしてきたので、ターリアは慌てて避けた。

「うわっ、やめろ触るな。上がればいいんだろ! わかったよ」

 いくらなんでもこの翼のある竜から逃れられる気がしなかった。すでにこいつが玄関から飛び出してきた時から悪寒が止まらないというのに、これ以上は接触したくない。

 けれど、竜から触れられないようターリアが後退したのが裏目に出たのだろう。竜は彼が逃げてしまうと思ったのか、焦ったように瞳孔を揺らした。と、次の瞬間、ターリアは竜の前脚に腰を抱えられ、軽々と持ち上げられていた。

「ぎゃああ!? なにしやがる! 自分で行くって言っただろうが! 離せ、このっ」

「……多分、伝わってないよね……」

 苦笑気味のキョウヤの声が聞こえて来るが、わかっていてももがくのをやめる気になれない。精霊に近づかれるだけでもいつも悪寒がする程嫌なのに、どうしてこんなに密着しなければならないのか。

 足をばたつかせても空気を蹴るだけ、こぶしを竜に叩きつけても硬い皮膚にターリアの手が痛くなるだけ。竜の力は聞いていた通り人間よりもはるかに強いらしい。抵抗も虚しく、赤子を運ぶように二人を抱えて、竜は塔へと入っていった。

 ターリアは必死で吐き気を抑えるしかなかった。

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