聖・2

 同日の日中、船大工の製作所で。

 作業場の壁に大きな木槌がぶつかって、ゴトッと落ちた。

「キョウヤ! 大事な道具になんてことをするんだ!」

 工場に響く怒鳴り声はここの主人のもので、目の前で泣き顔になっている少年の父親のものだった。

「だって父ちゃんが無理矢理持たせようとしてくるから!」

 キョウヤの家は代々旅舟の職人である。

 この国には運河が多い。だから物資の運搬や人の移動には車より舟が使われる事が多く、ボートやゴンドラの修理・製作所が重宝されている。『旅舟』とは運搬用ボートの中でも人が長期的に移動するのに長けたものだ。雨風を凌げる屋根付きの舟であり、中は居住可能な空間になっている。ただ小さなこの国で運河の数が多い分、それぞれ岸から対岸までの幅が非常に狭い。そんな水路を往来できるよう、幅は二メートルに満たない。その分奥行きが長く、この製作所で作られるものは細い幅に対して十倍ほどの長さがある。

「キョウヤ。いい加減素直に言うことを聞け。俺がお前くらいの歳の頃には、もう一人で一艘作っていたんだぞ」

 父親は息子の肩を掴んで引き寄せ、抵抗するキョウヤに言い聞かせるように言う。十五になる息子に、自らも引き継いだ職人の家督を継がせる準備を始めているのだ。

 その間にも父親は、離れたところで作業をしていた弟子や従業員を気にして視線を向ける。

「やだ」

「キョウヤ。」

 父親は腕の力が強くて、キョウヤの反発はいつもこうして押さえつけられた。それでも、今日はどうしても、その絶対的な力にねじ伏せられたくなかった。

「お前はいつもいつも、人の話も聞かずに下ばかり向いてっ」

「絶対嫌だ! 旅舟なんか作らない、父ちゃんの跡は継がない!」

 キョウヤは力を振り絞って父親を押しのけ、手を逃れると、走って自分の部屋へ逃げ込んだ。

 扉を大慌てで閉めて、肩を上下させながら一時的なバリケードを築き始める。普段からあまり運動をしないせいで、離れの作業場から母屋三階の自分の部屋へ駆け上がっただけで息が切れてしまって、いつもよりうまく物が持ち上がらない。歯を食いしばり、唸り声をあげながらタンスを引き摺ってドアノブの真下に差し込むように置いて、これでレバーを下げても引っかかって開くまいと額の汗を拭う。

 と、聴き慣れない特徴の音が微かに耳に届いて。ぱっと振り返ると、部屋の奥、先程は気付かなかったのだが、ベッドの上に、何か不思議な形の精霊がいる。

 全体としては細長く、一見するとどこに目があるか分からない。色は真っ黒で、よく見ると戦争時代の軍艦のように緑色にくすんでいる。二又の平らな尾が縦に伸びており、身体のほとんどは長い嘴のようにぱかりと開閉する。ハクジラの骨組みが剥き出しになったような姿をしている。骨組みの重なった部分、両側に銀色をした固定するネジのような丸い装飾があり、おそらくそれが眼なのだろうと思われる。

 それが今、ベッドの上に放られたキョウヤの帽子の鍔にかじりついているのだ。あむあむ噛んでいるというよりは、洗濯バサミのように挟んでいるような感じ。

 その精霊を見た一瞬、キョウヤの身体の中で動悸が響いた。

 いつもは使わない筋肉を使ったせいで息が切れているのではなく、別のところから来る音だとキョウヤにはわかった。

「んな、なんだ、おまえ?」

 精霊はドキドキしながら声をかけたキョウヤに気付いているのかいないのか、カチカチと囁いている。しかし不意に、帽子を咥えたままベッドから浮かび上がって、するりとキョウヤの方へと宙を泳いできた。キョウヤが帽子を受け取っても鍔から離れようとしないので、精霊がくっついたまま帽子をかぶってみる。

 するとカチカチと心なしか満足そうな囁きが聞こえて来た。これでいいのだろうか、キョウヤはちょっと戸惑って、けれどつられて表情が綻んだ。

「おれ、ここを出ようと思うんだ」キョウヤは精霊に話しかけてみた。「のどかで平和だけど、こんな狭くて代わり映えのないところにはもう飽きちゃったんだ。もっと色んなところに行きたい。もちろん、舟なしで。……一緒に行く?」

 コツコツ、カチカチと硬いもの同士が弾くような音が、文字通り目と鼻の先で響く。聴いた事のない囁きだった。なんと言っているのだろう。ついて行くと言ってくれているのだろうか。自分の愛用の帽子にくっついて離れないのを前向きに解釈することにして、キョウヤは精霊に笑いかけた。

「いこう、《クリップ》。大人に捕まらないところまで。」

 

 それから二時間ほど経って、水路から遠ざかった場所にキョウヤは立っていた。

 キョウヤの背中より大きなバックパックに道具や食料を入るだけ詰め込んで、精霊が齧りついたままの帽子を目深に被って。誰にも見つからないようにこっそりと、けれど意気揚々と出かけたキョウヤは、早くも足の裏の限界を感じていた。

 帽子の下からまた滲んだ汗を袖で拭う。それから帽子の鍔を見上げ、視線の端に映るハクジラの骨格の精霊に話しかけた。

「どうしよ、クリップ。適当に歩いてきちゃった」

 家を出てから時々この精霊に話しかけているけれど、キョウヤは自分でも気付かないうちに空を見上げるようにして話すようになった。

 幼い頃から話し相手は精霊ばかりだった。小さな精霊はキョウヤの手のひらに留まって、キョウヤの顔を見上げてくる。相手はいつも違う精霊だったけれど、みんな話を聞いてくれた。精霊は人間の言葉が分からないので答えが返ってくるわけではないけれど、それでも昔からいつも話しかけ続けていた。精霊は何も否定しないから。

 だけどこの精霊は他の奴とは少し違った。ずっと帽子の鍔に留まったまま、カチカチいいながらついてくる。だから、話しかけるのに、空を見上げるしか無くなったのだ。

「どうしたらいいかな。おれ、水路が無いとここがどこかも分からないんだ。水から離れれば、みんなに見つかることもないと思って歩いてきちゃったけど」

 どのみち舟に乗って行くわけにもいかない。材料や道具、完成品は管理がしっかりされているから一艘でも無くなればすぐに気付かれるし、水路を行けば顔馴染みにも父親の弟子たちにも必ず行き合ってしまう。そうなればすぐに追いつかれて連れ帰られるだろう。

 それに、キョウヤは水路にも飽きていた。自分の足で歩いて何処かへ行ってみたかったのだ。

「もう少し歩いてみようか」

 そう言うと、クリップはまたカラカラ鳴いた。それを賛成と受け取って、キョウヤは疲れで硬くなった足をもう一度踏み出す。

「あれっ、」数歩も歩かないうちに、クリップが帽子から離れて行ってしまった。「ま、待って!」

 慌てて追いかけようとして、精霊が何かの前に近寄って浮かんでいることに気付く。

「どど、どうしたの。何それ」

 藪の中に隠されていたのは木製の人工物だった。背もたれにも見えるそれは、椅子か何かだろうか。キョウヤは慎重に近付いて草と低木を除ける。

 車椅子だ。座った人が自分で回せるように、大きな車輪がついている。しかも現代のパイプを一切使っていない、古風な木製のものだった。安楽椅子に車輪がついたような形をしており、脚を置く部位と座面が滑らかに屈曲して一体になっている。水路脇にあるアンティーク屋のおじさんに骨董品として見てもらったら、いい値段をつけて買ってくれるのではないだろうか。きっと誰かの持ち物だし、売る気は毛頭ないけれど。

 藪から引きずり出してみた椅子は葉や枝の水滴に濡れていて、まだらに色が濃くなっている。藍染めの布地が張られた座面に落ちた葉っぱを払い落とし、状態を確認する。駆動輪に異常はないようだが、前輪のキャスターが片方だけ外れて無くなっている。

「目立たないけど、傷跡がある。溝に落ちたりしたのかな。丈夫な車椅子だなあ」

 人が乗ったままバランスを崩せば衝撃で曲がったりしてもおかしくはないのに、この車椅子はどこも歪んでいない。古そうなのに、頑丈な作りだ。キョウヤは感心しつつ、引きずるように車輪を回した。とにかくこれを直さなければ。きっと誰かが大事にしていたものだ。前輪を探して嵌め直すだけなら、キョウヤにとって難しくはない。

「よしおいで、クリップ。近くにテントを張ろう」

 藪は森の外れだったから、少し中の方へ行けばきっと低木もない。どこか高い木の下にならテントを置けるだろう。キョウヤはクリップが帽子の鍔に戻ってくるのを待って、車椅子を引っ張ってちょうど良い空間を探しに森へ入って行った。


 時間は過ぎて、パッケージに月が描かれたインク瓶のような単色の空。

 空はとっくに夜色になっているのにも気付かずに、キョウヤは拾いものの修理に夢中になっていた。精霊は脱いで床に置かれた帽子に齧りつくのをやめ、キョウヤが作業する手元を泳ぐように浮かび、その動きを観察しているようだった。

 キャスターは幸い近くの側溝の中に流されかけていたのを見つけたので、手入れをして取り付け直した。それだけなら一時間もかからなかったところだが、肘掛のガタつきを組み立て直して補強したり、溝に落ちた時についたのだろうと思われる傷を塗装したりしているうちに、すっかり時間は過ぎてしまっていたらしい。

 大きな荷物の中に最初に入れた道具箱が早速役に立つとは思わなかった。本当は要らなかったのではないかとも思ったのだけれど、やはり手になじんだものだからと無理矢理ねじ込んできてよかった。この先もきっと役に立てていこうと、キョウヤはこぶしをぐっと握る。

「……と。もう真っ暗だよね」

 外に出なくてもわかる。途中で太陽光充電式のランプを点けたけれど、テントのポリエステルの先から暗闇の気配が濃く迫っている。そう思った途端、静寂が身体を飲み込んでいくような怖さが肌を粟立たせた。テントにポタポタと当たる音と振動は夜露が木の葉から滴り落ちる音だろうか、それとも、灯りに寄ってきた羽虫がテントにぶつかる音だろうか。

 こんなに静かな夜は生まれてから経験したことがなかった。家で眠る夜は人の気配で満ちていた。舟作りの作業は夜中も続くことがよくあったし、仕事がなくても職人の弟子たちがよく練習している音がキョウヤの部屋まで聞こえていた。木材を切る音、かんなで削って形を作る音、やすりで整える音、木槌で組み立てる音。他にもたくさんの音が日常に満ちていた。それが当たり前だと思っていた。

「クリップ、寒くはない?」

 側にいる精霊に話しかけてみたが、クリップは一度瞬きをしただけだった。

「おれ、ちょっと寒いな。もう少し厚い上着も持ってくればよかったかも」

 暗いのが怖くて外には出たくなかったので、夕飯は缶詰を開けて済ませることにした。パンの缶詰だから、みかんとかよりはまともな食事だろう。食べたらすぐにランプを消し、寝袋を広げて、足から中へ入って眼を閉じる。

 缶詰は残り十個。あとはお米とお小遣いと、道具箱。これじゃ一人で生きていけるわけがない。どうしたら自分が思うように生きられるのだろうか。押さえつけられるのはもう嫌だ。

 疲れが出たのだろう、暗闇を怖がりつつも、徐々に身体の力が抜けて、意識に重みを感じ始めた頃。

「————!」

「えっ、な、なに!?」

 聞いた事のない声と聞いた事のない言葉が突然耳に響いて、キョウヤは飛び起きた。

 眼を開けた時、テントは半分開いており、それから入り口のファスナーが勢いよく全開した。

「だ、だだ、誰……うわっ」

 飛び起きたと言っても寝袋はしっかり閉じていたから、とっさに上半身も起こせない。テントを開けた誰かの顔はまだ全く見えないまま、強い明かりが視界を真っ白に焼いた。

「……ほんっとうにここじゃ伝わらないな、祖国の言語は……当然か」

 徐々に人影だけは見えるようになってきて、その人が長方形の板を持っていることは確認できる。どうやらモバイル端末のライト機能で照らされているらしい。寝た体勢のままで見上げるキョウヤの首を跨ぐように右足が顔の横に置かれており、動くなと脅されているようだった。

「おい、お前」

「は、はい……」

 すっかり竦み上がったキョウヤの眼はそれでも光にだけは順応し、勝手に上がり込んできた人の顔が見えるように調節された。

 その顔はキョウヤと同じ年頃のものであったが、眼は切れ長で鼻筋の通った顔立ちをしており、十五のキョウヤより幾つか年上に見える。癖毛なのかはねた髪はこの国ではあまり見ない淡い色をしている。瞳の色は眼鏡が反射して判別できない。

 強烈な光でチカチカする視界の中、端末の画面の明かりに照らされた顔に見惚れてしまった。こういう人を綺麗だというのだろう。

「聞いてるか? 盗人って言ったんだ。覚えがないとは言わせないぜ」

 盗人。そう言われた。泥棒なんて言われたのは幼い頃、好奇心に負けて親の目覚まし時計を部屋に持ち帰って分解した時以来だ。けれど今回は本当に身に覚えがない。何もかも突然のこと過ぎて思考の処理が追いつかず、キョウヤは呆けた顔で相手を見上げるしかできなかった。

「……え、えと、」

 まだ寝転がってぼんやりしたままのキョウヤを見かねたのか、テントの奥に向けて顎を突き出して何かを指し示した。

「……あ」

 この人が言っているのは車椅子のことだとようやく気付いた。

「これ以上はしらばっくれるなよ。それには持ち主がいる。勿論、それはお前じゃない」

「ち、ちがっ……」

 違うんだ、盗もうとしたわけじゃない。そう弁明したいのに、とっさに言葉が出てこない。慌てて喋ろうとしたせいか、緊張からか、言葉が痞えてむせる。

「…………」

 何か言おうとしているのを察してか、意外にもその人はキョウヤが何か話すのを黙って待ってくれているようだった。

「……ぬ、盗んだんじゃ、ないんだ。お、おれ、道でそれ見つけて、直して……壊れ、てたから、直してから返そうと思っ……て、」

「落ち着けよ……」

 吃りながら喋るキョウヤの言葉をある程度聞いてから、ため息を吐いて遮った。右足をどかして、彼女はその場に腰を落とす。キョウヤは不意に自由になって、戸惑いながら寝袋から抜け出した。滑る手でランプを点けて、相手の正面に座り直した。

「し、信じて、くれたの」

「信じるっつーか」

 眼鏡の位置を直しつつ、胡座をかいた膝に落としていた視線を上げてキョウヤをジロリと睨む……いいや、睨んだのではない。先程と違って眉間に皺が寄っていないので、おそらく真顔なだけだ。彼女は言葉を続けた。

「別に、僕は人間不信なわけじゃない。確かに壊れていたはずの箇所は直っているし、返す気があるならあとはとやかく言わんよ。だいいちその車椅子、僕のものじゃないしな」

「……そ、そうなの?」

「当たり前だろ。さっきまでお前の首元に置いてた足が、何か問題がありそうに見えたのか?」

 キョウヤは勢いよく蹴られた地面の衝撃を思い出して、何度も首を振った。あれが自分の首に振り下ろされていたら、頚椎も危なかったかもしれない。今頃、冷えた肌から発汗する。

 気付けば彼女は正座に座り直しており、膝に手を置いてこちらを真っ直ぐ見つめていた。その眼は見下ろされていた時よりよく見えた。淡い青の混ざった灰色。虹彩の中に細かく濃い線の模様がくっきり見える。ランプの光は揺れないのに、その瞳は星の様に瞬いて見えた。キョウヤがドギマギしていると、その人が口を開く。

「悪かったな、疑って」

 そう言ってきっちりと頭を下げる。後から聞けば、「これがこの国の謝罪の仕方なんだろう、郷に入っては……なんたら」と言ったとか。何にせよ、誠意を示してくれたことに違いはない……。

 キョウヤはぶんぶんと首を振って、吃りながら視線を落とし、帽子を手に取る。

「か、勝手に持ってきたのはおれだし……」

 言いながら精霊が齧り付いたままの帽子を被った。

「それより……持ち主がいるなら返さなきゃ。きみ、知ってるんでしょ?」

「ああ……って、おい、今から行く気かよ」

 思い立ったように立ち上がって荷物をまとめ始める。

「何時だと思ってるんだよ……」

 そう言いながら、渋々寝袋を畳んでくれる。ついてきてくれるつもりらしい。どちらにせよこの人の案内がなければ車椅子は届けられないし、夜道を一人で歩くのは嫌だった。キョウヤはほっとする。

 けれど一つ思い出して、キョウヤは彼女に向き直った。

「おれ、キョウヤ! きみは……」

 言葉を繋げるように途切らせて、答えを待っていると、彼女は仕方ないというふうに片眉を上げて、吐息まじりに微笑んだ。

「ターリア」

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