役立たずの精霊(仮)

端庫菜わか

精霊と生きるところ

聖・1

 その日、とんでもないものを見た。

 いつものように遠回りして歩く帰り道、旧暦上は春だと言うのに凍てつくような風と、風に舞い上げられる白い梅の花弁や砂埃、それに混じって飛ぶ翅のようなおかしなもの。視界を通り過ぎていくそれらに煩わしくなって、息を吐きながら空を仰いだときのこと。

 眼鏡越しに見た遥か上空。雲の影の下で何かが直線をなぞるように飛んでいる。暗いシルエットしかわからないが飛行機のようにも見える形をしている。体の横に広がる二枚の尖った翼は、旅客機というよりは戦争時代に活躍していた、今は記念博物館で壊れかかったまま保存されている戦闘機のようだ。

 柔い雲が風に散らされる。地上を吹く風は花弁を散らす程度のそよ風だが、雲が浮かんだそいつは太陽の下に現れて、光を受けて金属のような銀の身体を瞬かせた。その姿は飛行機なんかではない。

 竜だ。

 冬の終わりらしい晴天、白く染まった空に似つかわしくない、鉄の廃材みたいな刺々しい翼と細長い尾で風を切っているのが地上からでも見える。遠いから雲や地平線の山々と比較してちっぽけに思えるけど、おそらく旅客機より大きな個体だろう。列車くらいなら後ろ脚で握り潰せるほどの大型だ。どうしてこんな特別でもなんでもないような人間の土地の上空を、竜が飛んでいるのだろうか。竜は《ほかのやつら》とは違って、何にも惹かれない特別なものだと聞くのに。

 竜は太陽を身体に受けて時折こちらに反射の光を寄越しながら、少年が歩いてきた方向から進行方向とおおよそ同じ空路を飛んでゆく。ああいうものの研究をしていた父が見たら、きっと目を輝かせて喜んだのだろう。顔を上気させて、手を引いていた息子を追い抜いてこの道を走る背中が思い浮かぶ。足元も見ずに竜だけを見つめて追いかける、父の姿が。

 けれど僕は違う、とターリアは眩しさに眼を顰めながら、地上に立つ自分のことなど気付かずに風に乗って去っていく竜を見つめ続ける。

 僕は、あれを奇麗だとは思わない。


 『精霊』が嫌いな人というのは、この世界で暮らすには非常に難儀な性質であった。公園に群がる鳩やカラス、猫などの動物ならば避けて歩けば問題はないだろう。けれど精霊という存在はいまやそう簡単に遠ざけられるものではなかった。

 精霊。そうひとくちに言っても、その姿は一様ではない。宙を泳ぐ魚のようだったり、屋根裏を走る小人のようだったり、未開封の瓶の中にいる泡のようなものだったり、勝手にカレンダーをめくる鳥の脚だったり。気付けば近くに漂っていて、人々の生活に完全に溶け込んだモノなのだ。関わり合いなく一日を終えることの方が難しい。千差万別なその形や生態は動物とは呼べない異形のそれだが、人に害を与えるわけでも、益を生むわけでもない。無害で無意味な行動をとるだけの精霊は、伝承でしかその姿を捉えることの出来ない妖怪や妖精とは区別されている。このような謎に包まれたモノたちといつしか寄り添い、人々は古代から共生を図って来た。

 しかし、この少年にとってそんな歴史に価値はない。なぜならば、彼はこの精霊と呼ばれるものが嫌いだからである。

 こんな小さく微かなものを嫌悪する人生とは、なんと生きづらそうな事だろうか。

 始まりは異端で、しかしそれ以外は全く平凡なこの少年からにしよう。彼の名前はターリアという。



 人にはそれぞれ習慣がある。

 眠る前にハーブティーを飲んだら、母親の頬におやすみのキスをして。階段を下りたら突き当たって左の扉を開け、自室に入る。眼鏡をテーブルへ置く前にベッドの掛け布団を半分ほど持ち上げて中を確認する。

中にいたのは、丸太のような形をした、一見抱き枕にも見えるもの。生物とも判別しがたいそれは、紛れもない、精霊である。ターリアは怒りにひきつった表情で見下ろす。

「……僕の部屋に二度と来るなと言っただろうが!」

 朝から甲高い声を響かせて、そいつを追い出しにかかる。

 横に回して引き摺り下ろして、壁にかけてあった箒を取り出し、もそもそと再びベッドへ前進する『それ』を方向転換させる。そのまま箒で部屋の外へと掃き出した。

 不本意ながら、それを追い出すことも就寝前の彼の習慣であった。こうして眠りについて、朝を迎えて。ターリアの一日のサイクルは巡っていく。

 いつもの朝の登校風景にも、彼らは人々の間を浮遊するように往来する。

「ターリア」

「おはよ」

 駅を降りて合流してきた級友二人に声をかけられ、ターリアは足を止めながらぞんざいに手を振った。

「おう」

 しかし、近づいてくる友人たちの後ろをついてくる精霊に気付いて顔を険しくした。

「来るな!」

 突然の大声に二人は面食らって、すぐに呆れたように脱力した。

「……おまえさあ。それやめない?」

「そんなもの連れてきやがって、絶対こっちに持ってくるな」

「いや、別に連れてきてるんじゃねえし。ただくっついて来てるだけだって……毎回こっちがびっくりするんだけど。いい加減に慣れろよ、精霊くらい」

 威嚇された細長いリボンのような精霊は、戸惑ったように二人の肩の向こうでひらひらしていたが、やがてどこか別の方向へ消えて行った。

「……行ったか」

「おまえが怖くて、な」

「こっちに来る前から精霊くらいいたんじゃないの? なんでそんなに怖いの、あれが?」

 友人はひらひら舞うように遠ざかっていく薄べったい紐を指差して、首を傾げる。

「怖いんじゃない」ターリアは精霊が行った方を用心深く睨みながら反論する。「嫌いなんだ。鳥肌が立つ程」

 顔を顰めたまま、二の腕をさすっている。遠目から見かけただけなのに、実際に鳥肌が立っているかのようだ。

「ちょっと通り過ぎただけでこれだよ……」

「この前なんかさあ、廊下の角で女子にくっついてた奴と鉢合わせしてすげえ悲鳴あげてたぞ。鼓膜が破けるかと思った」

「もういよいよやばいな。ホントにやめた方がいいぜ。急に叫んだら頭おかしい奴みたいじゃん」

 そんなことを言われても、変えようとして変わるものでもない。仕方がないだろ、とターリアはうんざりと眼を閉じた。

「あんなのが肩に乗ってて平気でいられる女の方がよっぽど気が触れてると僕は思うね」

「あっ、言いやがった」

「重ねて言うけど、おまえ一言多いんだよ。こっちの言語は勉強中のくせに、やたら口答えしてくるし。」

「そうそう。ちょっと教えたらすぐネイティブみたいに喋るようになっちゃって。かわいくねーぞ」

「勉強してたら発音も上達するし語彙だって増える。当然だろ」

「ほら、この調子だよ」

 二人は同時に苦笑する。

 そう言う二人だって小言が多いと、ターリアは思う。二年前に帰化したばかりのターリアを気遣ってくれているのだろうけれど。遊びに誘われても精霊のいるところには近寄らず、必ず断って家に帰るような付き合いの悪い彼を見放すこともなく、むしろ面白がっているようにすら見える。底抜けにお人好しなのだ。おかげで、精霊嫌いでも人間関係に困ることはあまりなく、ターリアにとっては都合の良い環境だった。けれどこんな恵まれた状況を、思考の一部分ではどこか冷ややかに見ている。

 精霊は授業中の教室にも訪れる。この季節は寒いから窓も開けていないのに、ノートの隙間に挟まっていたり、黒板の隅に落書きをしていたり。

「ただいま」

 学校を終えるとやはりすぐに家へ帰って、上着の埃を払ってから玄関の扉を開ける。

「お帰りなさい、ターリア」

「ただいま母さん」

 この挨拶もとうに習慣となり、すんなりと言葉に出るようになった。「今日は大丈夫だった?」

「うん、少しずつだけど慣れてきているみたい。ここは長閑で、元々の空気も綺麗だから」

 ターリアの母親は気管支喘息で、外の空気の影響をすぐに受けて発作を起こしてしまう。一時期の弱りかたから比較すれば、きっと大分よくなっているのだろう。一番ひどく症状が続いたのはこの国へ来る前のことだった。ターリアもまだ幼かったある年の春に夫を亡くした時だ。夫——つまりターリアの父親だが、勤務先の研究所から突然電話があり、急死したことを告げられたのだ。調べることもできず、死因は不明のままであった。突然失ったせいか、余計にショックが大きかったのだろう。もともと持っていたアレルギーの性質が悪化してしまったのかもしれない。家は豆農家だったのだが、ちょうど都市化が地方に迫っている時だったために父親の死から数年経った後、役所に売却してこちらに帰化する形で引っ越してきたのだった。

 それから母は医者にかかりながら家の中で済む仕事をし、父親の残した財産や畑を売った時に得た金を切り崩して生活している。幸い、向こうの通貨よりこの国の方が温存できているから、比較するとこちらの方が暮らしやすくはある。

「そう、ならよし」

「よしっ」

 母親は両手で握りこぶしを作り、ぐっと肩を跳ねさせてそう繰り返した。二人でくすくすと笑い合う。今日は元気そうだ。

 

 通学路から家へ帰る道。彼はいつもと同じように遠回りをしながら道を進む。別に、歩くのが好きなわけではない。いつも通り、嫌いな精霊を避けながら道を選んでいるだけだ。今日は精霊が一際多かった。きっと春の訪れが近いからだろう。と言っても、毎年被害の多い杉の花粉ほどではないけれど。だけど精霊も、花粉と同じく風に吹かれて揺らぐものだ。同じようなものだ。だから嫌いだ。

 道で見かける精霊はだいたい小さく、地を這ったり漂ったりして横を通り過ぎるだけの不定型のものや綿毛のようなものたちだ。注意を向けていないと気付かないような鈴のような音は、彼らなりに音声を送り合っているのだろうか。しかし耳を傾ける気はない。どうせ意味のある会話をしているわけでもないから。

 そんなものでも多ければ多いほどターリアにとって不快指数は増していく。とにかく眩暈がしそうな道を逃れて歩くと、自然と人気の無い田んぼ道や畑のそばの、農家の通り道になる。まだ冷たい風が吹く時分。学校指定のコートの袖口や襟元から北風が入ってこないように、縮こまって歩いていた。

 その足の裾をつまむように、弱々しく引き留めた手があった。

「助けてくれませんか」

 少し風の強い森沿いの道。風音の中からかろうじて耳に届いた声は人間の声だった。足元を振り返ると、風変わりな女の子が座り込んでいて。

「は?」

 十代くらいの少女は暗い色の和服に分厚い羽織を着ていて、髪と目の色は昼の陽の光を受けていても真っ黒だ。全身が黒くて、一瞬、つままれた制服から冷たい気配が這い上がってくるような感覚に陥る。まるで幽霊に話しかけられたかのようだった。その目が真っ直ぐこちらに向けて、自分に助けを求めている。

「……誰」

「車椅子が壊れてしまって身動きが取れないの。すぐに帰らなきゃならないのに……大人を呼んできてもらえると」

「……大人を呼ぶにしてもこの辺、人なんかほとんど通らないぞ」

 呼びに行くにしたって、ここから一番近い商店街の大通りまで十分以上かかってしまう。協力してくれる大人が現れて案内しながら戻ってきたら三十分超はかかるだろう。その時間この寒い道端に、この少女を置き去りにすることになってしまう。

「保護者は? 学校の電話番号は?」

 力なく首を振る。どういう意味かは知らないが、少女の身近には助けを求める相手がいないのだということは分かる。無理に聞き出すのは気が引ける。

 彼女の先に目を向けると、確かに車椅子が転がっていた。車輪が側溝にはまってしまっているようだ。確かに、車椅子を使う少女がこれを引き上げるのはいくらなんでも無理だろう。とりあえず万が一車や農業用の特殊車両が通ってもいいように、女の子を道路から移動させてやる。車椅子を溝から引き揚げると、前脚のキャスターが片方だけ外れていた。落ちた衝撃でもげてしまったのだろうか。

「それだったら、僕が家まで送った方が早いんじゃないか? 住所を教えてくれれば運ぶよ」

 車椅子は一緒に持っては行けないけれど、こういう時は人が優先だ。提案すると、彼女は首を振った。

「君が運ぶには遠いよ。時間がかかるし、やめたほうがいい」

「遠いならなおのこと、早く出発できた方がいいんじゃないのか。僕が人を呼びに行ってたらじきに暗くなる。女の子を置いては行けないな」

 説得すると、少女は黙って考え込む。ターリアはこのまま押し切れるか冷や冷やした。少女に言った理由も間違ってはいないはずだが、本音を言えば、人の多いところには必ず精霊がいるので、絶対に行きたくない。勝手だとは思うけれど、精霊に近寄らずに済む方法があるなら、無償で労働してでもそちらを選びたかった。

「それとも僕が知らないやつだから警戒してるのか? 気休めかもしれないけど、生徒手帳でも預けとくよ」

 ほら、と鞄のポケットから個人情報を差し出す。

 少し間があってから、彼女はターリアの手から手帳を受け取った。

「ごめんよ。……よろしくお願いします」

 なんとか納得してくれたようだ。ターリアは密かに胸を撫で下ろす。

「悪いけど車椅子を一緒に持っていくのは無理だ。盗まれる可能性は低いと思うし、予報によれば雨は降らない。置いて行っても大丈夫か?」

「……非常時だから仕方ないよ。可能なら君が帰りに拾っておいてほしい」

「分かった。後日必ず返すよ。約束する」

 そう言うと、少女は硬くしていた表情が一瞬だけ和らいだような気がした。車椅子を置いて行くことが気がかりだったようだ。

「……ありがとう」

 少女にはターリアの革のリュックを背負わせて自分は車椅子の中の荷物を取り出した。それから少女の手首を片方だけ握って、背中を向ける。背負われ慣れていない様子で回してきたもう片方の腕も肩越しに引き寄せて、身体を背に乗せながら彼女の脚を下から支えたら、試しにゆっくり立ち上がってみた。

 やはり、知らない男の子に身体を預けることには抵抗があるのだろうか。ターリアの背中で緊張しているのがわかる。

「つかまっていられる?」

「多分、大丈夫」

 ちゃんと腕を回してくれているので、このまま歩いても多分大丈夫だろう。

「人に背負われたのなんて、幼い頃以来だ」

「へえ」ターリアは生返事をする。脚を支える両手に少女の荷物を持っているので、ちょっと運びづらい。「じゃあ、このまま行くぞ」

「うん。ごめんよ」

「いいっての。で、どっちに進めばいいんだよ?」

「まずはこの道をちょっと進んで、左手に森の中へ続く階段があるから……」

 ターリアは少女の言葉の通りに慎重に一歩ずつ歩き始めた。彼女の道案内に違和感を抱かなかったわけではない。しかし言う通りに進むほかなかった。

 舗装された道を逸れて、森の中へ。


 森の中に入ると日の光が急に遮断されて、足元が暗くなってしまった。歩いて行くうちに空の色は濃くなっていく。樹上には鳥や落葉の精霊がこちらを見下ろしていて、電球のような形の精霊たちは二人の歩く、土に埋まりかけた石畳の道をそっと照らしている。しかしターリアは足元が滑らないように集中しており、精霊の助けには気付いていないようだ。

 どのくらい歩いたのか分からなくなる。腕時計を巻いた左手は彼女の太腿の下にあるから、支えを外して目の前に持ってくることは出来ない。体感ではもう一時間を超えているが、実際はどうなのだろう。

「……なあ、このまま歩けば家につくんだよな?」

「そう」

 少女は耳元でそれだけ返事をする。抑揚の無い声。背負われ疲れたのだろうか。ターリアだっておしゃべり好きなわけではないが、この薄暗い閉鎖的な道でこうも口数が少ないと不気味に思えてくる。怪談話の導入部分を聞いているかのような気分の悪さ。もしかしたら、ターリアが疲れ切ったところで本性を現して、生き血を吸い尽くされるのではなかろうかと、ターリアは余計な想像をしてしまった。首を振って古臭い故郷の怪奇譚を振り払う。僕の背中にいるのは女の子だ、落としたりしたら怪我をしてしまう。歩くのに集中するんだ。

 それからまたしばらく歩いて、脚の疲れも麻痺してきた頃。

「ここでいいよ」

 と、突然彼女は言った。足元ばかり見ていたターリアは息を整えながら、ゆっくり前へ顔を上げてみる。

 気付けば森がぽっかり開けたところに出ていて、目の前には橋が架かっていた。

「……うわ、」

 橋と言っても川の此岸から彼岸へ跨いだものではない。橋はターリアの右手から左手へ、木々の間をつらぬくように真っ直ぐ続いて見えなくなっている。

 水路橋だ。

 古代に流行ったアーチ型の門のような橋脚が等間隔に並んで支えている。灰色の煉瓦造りで、最低限の細やかな装飾が施されているだけの設計である。ターリアから向かって右側はすぐに森へ入ってしまい木の枝と葉が茂ってよく見えない。そういえばここの森は高木が多いようだ。目測五、六メートル程も高さのあるこの水道橋に届くくらい、下から見ればすっぽり隠れてしまう。それでも木の幹の間から橋脚を探せば、端は見えないくらいに続いている。

「どこを見てるの。そっちじゃなくて、もう少し北へ」

 橋に見惚れていると少女に肩を叩かれた。示された方に目を向ける。

 橋の傍に、寄り添うように灯台のような建物が立っている。橋と同じ色をしており、同じ時期に建築されたことがターリアにもわかる。四角柱の造りの建物は三階建てだろうか、一階ずつに窓があって、建物内の日当たりがよくなるようにされている。屋根は黒い木で反るような四角錐に組まれている。

 二階の橋側に飛び出た小規模なバルコニーを見ると、おそらく住居なのだろうということが読み取れる。

 この奇妙な塔が少女の家なのだ。

「少し行って、玄関先で下ろしてくれたらもういいよ」

「仰せの通りに、お嬢さん」

 低い声でそう呟きながら、彼女に従って口をこちらに向けた塔の方へと歩き出した時だった。彼女が誰かに呼びかけるように声を張り上げて言った。

「ジャク。帰ったよ」

 すると数秒かけずに中から影が飛び出してきて、ターリアたちに向かってまっしぐらにどすどすと走ってくる。その姿を視界に捉えた瞬間に、ターリアの身体中で血液が高速でめぐったような感覚に陥った。

「ひ……っ」

 本能的に身体が逃げようとして足がもつれてしまい、バランスを崩してしまった。ターリアは少女を背負ったまま肩から地面に倒れてしまった。同時に、背後から呻き声が漏れる。

 慌てて手と肘をついて上半身を起こして、女の子の足から下敷きにしていた腰を浮かせる。彼女はどこか打ったのか、痛みに顔を歪めている。見れば、古い石畳の上に落ちてしまったらしい。

「ごめんっ、大丈夫か……」

 倒してしまった少女を心配したその一瞬にも、精霊が駆け寄ってくる、近づいてくる。どうしてもその様子が気になって、走ってくるそいつを斜視する。あれは、いつも街中で見る両手に収まる小さな精霊たちとは違う。人間より質量のありそうな、大型の精霊。走ってくる割になかなかこちらに到達しないが、足音が大きい。

 身体を支える後ろ脚に、尖った翼は広げたら四、五メートルは優に達するだろう。翼とつながった前脚には後ろ足と同じような太い爪。鎧のような皮膚で覆われた身体は隙間を作ることで動作を自由にしているようだ。三角の頭には、同じ長さの歪で真っ直ぐな角が二本生えている。機械のような、鈍く光る灰色の身体。

 あれは竜だ。

「う……」

 ターリアは動揺で瞳がぐらりと揺れる。少女のことなど考えていられなかった。今すぐ距離を取らなければ。

「……っ、ジャク、こっち……」

 少女から離れて、精霊竜が駆け寄る様子を遠巻きに見つめた。自分も石畳にぶつかった肩が痛む。

 精霊竜はターリアに置き去りにされた少女のもとに到着すると、彼女の頬に心配するように鼻を寄せた。

「……大丈夫。立たせて」

 少女がそう言うと、慎重に翼のついた前脚を、爪を自分側に丸めながら差し出す。少女が翼に掴まって、ゆっくりと身体を起こした。竜はその腰をもう片方の前脚で抱き上げる。

 そのまま家に戻って行くと思いきや、竜は息を詰めていたターリアに気付いてどすどすと歩み寄ってきた。

「うわ!」

 竜は鼻先に掌を突きつけられ、ビクリと歩みを止めた。ターリアは身体を横にじりじり後退しながら、用心深く竜を睨む。「く、来るなよ。これ以上近づくな」

 少女と竜は戸惑ったようにターリアを見る。

「君、どうしたの」

「僕は精霊が嫌いだ。つまりそいつも嫌いなんだよ、こっちに来るな!」

 強く叫ぶと、びっくりしたのか竜がよたよたと後ずさった。

「うわっ、」

《…………》それでも何か言いたげに囁きながらフラフラ近づいてこようとする。ターリアの拒絶をわかっていないのだろうか。

「来るなってば!」

「君、怒鳴るのはやめてくれ」

 少女は冷静にターリアを諫めて、竜に見えるように手を持ち上げて双方を制止した。ようやく精霊竜はおろおろ立ち止まる。

「ジャク、大丈夫。大丈夫だから。落ち着いて……帰ろう、ジャク」竜の腕で抱かれていた少女が手を伸ばして、うろたえる竜の鼻を撫でてやる。それからターリアに目を向けた。

 ターリアは少女に見据えられ、その眼や沈黙から軽蔑されたことを感じ取った。

「君がそう言うならもう近寄らない。これでいいだろう……この子は君にお礼を言いたかっただけだよ。そんなふうに怒鳴られる筋合いはない」

「……お、お礼? そんなのありえない。奴らは人間とは違うんだ。感謝するような心なんてないだろう」

 彼女は感情を抑えるように袖口で両手を覆い隠しながら聞いていたが、やがて淡々とした口調に戻り、「帰ってくれ」と促した。

 それ以上何も言わずに、彼らはターリアから背を向けて家へ戻って行った。精霊嫌いの少年は、一人取り残されて立ち尽くす。

「…………。な、んだよ。ここまで運んでやったのに、あんな……」

 ざわざわ、五月蝿いのは、風に揺れて擦れる木々たちか、自分の振る舞いへの後悔か。呆然と目を開いたまま、正面に立つ塔から石畳に視線を落とす。

 帰ってくれ。少女の言葉を反芻して。

「帰るか」

 ターリアは放り出された自分の鞄を拾い上げて肩にかけると、元来た狭い道を引き返した。

 そうだ。彼女の車椅子を預からなければならないのだ。こんな遠いところ、もう二度と訪れたくもないけれど。

 疲れた手足を引き摺ってようやく田んぼ道へ戻ってくると、日は沈みかけて、もう星が瞬く時間であった。今日は満月に近い日だったので、あたりは微かに照らされていて助かった。これで壊れた車椅子を運ぶのに余分な苦労は減るだろう。そう思って、自分がどかした道のはずれの藪をのぞいて、置いてあるはずの車椅子を拾おうとした。

 ぽっかり空いた草木の空洞。今まで散々歩いて来ても露にしか濡れなかったターリアの額に、汗が浮かんだ。

 その場所に車椅子はなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る