05電卓のかわりに持ってきたもの

 これは自分が昔大学生だった頃のお話。

 どれくらい昔かというと、大学の生協で新入生用に展示されてたAppleのPCがメモリ8MのデスクトップPCがで18万円もしていた時代と書いておこう。WindowsもOSが3.1から95へ変わるという時代である。そういえば昔LC575って機種を買ったな。


 雪が深々と降り積もる1月のことだった。

 とある必修科目で試験があった。

 その試験は関数電卓で計算しながら受けるもので、何日も前から教科書やら講義のノートを見ながら関数電卓を使って試験の準備をした。準備は万全だと自分では思っていた。


 試験前夜。バイトが終わって家に帰ってきたのが夜の11時。

 そこから遅い夕食を食べてお風呂に入った後、電卓と講義ノートをコタツの上に広げて明日の試験の勉強をしていたが、何度も復習したのですぐに飽きてしまい、TVを付けてボーっとしていたらいつの間にか寝てしまった。そして翌朝目を覚ましたのだが、体を起こして腕時計を見たら試験開始の10分前だったのである。


「やばい。寝坊した!」


 こたつで寝ていたので喉はカラカラに乾いていたが、そんなことはどうでもいい。

幸い自分のアパートは大学まで徒歩3分の好立地。試験を受けるいつもの教室へは、雪の中でもダッシュで行けば7〜8分で行ける。試験開始の9時にはなんとか間に合うだろう。

 まるで出動指令が下った消防士のごとく、シュバババっと着替えを済ませ、部屋着を床に投げ捨て、洗顔と寝癖の修正は諦め、付けっぱなしのテレビを消して、試験に必要な関数電卓をリュックに放り込んで自宅のアパートを飛び出した。


 雪の中ダッシュした甲斐があって、試験場にはぎりぎり到着することができた。

幸運なことに、雪のおかげで時間に厳しい教授が時間になってもまだ教室に来ていない。あぶないあぶない。あの教授めちゃくちゃ遅刻に厳しいからなあ。遅れたら試験受けれなかったなあ。「ふぅ」とため息をついた自分は、教室の後ろの方にある自分の学籍番号が書かれた紙が貼られている席に座り、汗を拭う。すぐに大きい茶封筒を抱えた教授が「ごめん遅れちゃった」と言って教室に駆け込んできた。


「講義で言ったように教科書や講義ノートは見てもいいからな。計算間違いだけはしないように。」


 教授がそう言いながら解答用紙と問題用紙を順に配る。


「それじゃ試験始め。」


 教授がそう言うと教室にいた学生はみな問題冊子を開いて問題を解き始めた。

 早くも電卓のキーをタタタッと叩く音がアチコチから聞こえてくる。


「やば。カバンから電卓出さないとな。」


 電卓をまだ机に出していない事に気づいた自分は、机の下にしまい込んだリュックに左手を突っ込んで関数電卓を掴んで取り出した…はずだった。


「うう……。まじか…。」


 言葉にならない言葉が自分の心と頭の中を支配する。

 取り出したものに数字を表示する液晶パネルがない。

 「✕」や「➗」や「%」の記号もない。


 左手に握られていたのはテレビのリモコンだった。


 どうやら家を出るときに、関数電卓とテレビのリモコンを取り違えたらしい。ちくしょう、リモコンも電卓もどっちも真っ黒だったから特に確認しないままカバンに入れて来てしまった。


 これは、大変なことになった。


 電卓がなければ、この試験ははっきり言って「勝負」にならない。

 「追試」の二文字が脳裏に浮かぶ。

 自分の顔に引いたはずの汗が再び流れ始める。

 今度は汗は汗でも「脂汗」だ。


「あせるな、あせるな。落ち着いてもう一度鞄の中を探せ」

 自分にそう言い聞かせながら、もう一度左手を机の下のリュックの中に忍ばせ、カバンの中のあらゆる部分を「触診」したが、電卓っぽい硬化プラスチック製の四角い物体はどうやらない。


「終わった…」


 哀しみのあまり、ゆっくりと両目を閉じる。こんな時に限って自分の頭の中に、オフコースのあの名曲が再生される。


 しかし同時に、人間ていうのはある種境地に達すると達観するものらしい。

 自分の中で何かこのテレビのリモコンで試験に「爪痕」を残してやろうと考えた。


 最初に教室の天井に設置してある何台ものテレビに自分のリモコンを向けて、赤い電源ボタンを押してみたが反応しない。あたりまえだ。メーカーが違う。


 今度は右隣の席で電卓を叩いて計算している友人に向けて、「お前の存在を消してやる」と心のなかで叫びながら、赤い電源ボタンを押した。がやはり消えてくれない。しかもそのタイミングで何かしら「気配」を察知した友人が横目で自分をチラ見し、リモコンの存在が友人にバレてしまった。途端に両手で口を抑えて顔を真赤にして悶絶する友人K。


「おめえ、やっちまったな!」


 試験の間中肩を震わせていた友人K。

 試験後に「大事な試験中に笑わせんじゃねえ」と真剣に怒られた。


 かくして見事に追試が決まったわけであるが、試験の日の夜、友人達に大学近くの安くて汚い居酒屋に「慰労会をやる」と連れて行かれた。居酒屋の壁には『泣くな緋城!まだ追試がある(笑)』という模造紙で急造した汚い手書きの横断幕っぽものがあった。心優しい友人たちは、自分が電卓を忘れないようにと、一人ひとり100円ショップで買った電卓を「追試でこれ使え」と言ってプレゼントしてくれた。自分のリュックが電卓だらけになった。自分は苦笑いしながら友人たちに悪態をついた。


「馬鹿野郎!ダイソーの電卓なんかにサインやコサイン、ルートのコマンドがあるわけねえじゃねえか。おれが欲しいのは関数電卓だ!」


 テレビのリモコンと電卓は気をつけないと取り違えるかもなので要注意というお話。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る