第5幕 闇夜に囀る緋歌


 昔々というほども遠くなく、昨日というほどにも近くないころ。

 あるところに、たいそう歌の上手い少女がおりました。


 時には夜明けの空のような高く澄んだ声で世界の美しさを歌い。

 時には真夜中の深淵のように重い叫びで人間の絶望を歌い。

 彼女は絶大な人気を誇る『緋色の歌姫』として世の頂点に君臨していました。

 なぜそのように呼ばれたのか。

 それは、彼女が透き通って燈える美しい炎色の髪をしていたからです。


 彼女のもとには毎日、たくさんの贈り物と賛辞が届けられました。

 けれど、どれも彼女の空っぽの心を満たしてはくれませんでした。

 かつて、とある不幸で彼女は大好きな両親と可愛い妹を亡くしました。

 見知らぬ人にいくら褒め称えられても、『歌姫』の称号をもらっても、何も嬉しくはなかったのです。

 その日、彼女の愛の泉は全て枯れ果て、与えることも受け取ることもなくなってしまったから。

 その日、彼女の目に映る世界の全ては古い絡繰仕掛けの人形劇のように、不格好でぎこちないものになってしまったから。

 来る日も来る日も、顔のない人形相手に歌い続ける日々。

 どんな歓声も拍手も、彼女にとっては虚しく意味のないただの音。

 まるでゆっくりと自分も人から人形になっていくような。

 そんな不思議な悪夢を見ているような心地でした。

 彼女はそれを心から恐ろしいと思いました。

 けれど、彼女の恐怖も嘆きも痛みも聞いてくれる人はいません。


 そう、たったひとり。

 艶めき色めく世界を失った時、傍に居てくれた幼馴染みの青年以外には。

 あの日以来、彼とは会っていません。

 今、どこで何をしているのでしょうか。


 三日月のブランコが不安定に揺れて、不気味な鴉が鳴くある夜のことでした。

 彼女はついに、闇色の服に身を包むようになっていた彼と再会しました。

 彼は、裏社会の人間になっていたのです。

 暴力を振るい、彼女の髪よりも暗い赤で靴を汚し、煙たい匂いを漂わせて。

 けれども、翡翠の瞳を曇らすことなく立っていました。

 彼女はためらうことなく彼へ駆け寄りました。

 彼は驚いた顔で、それでもしっかりと、彼女を抱きとめてくれました。

 記憶にあるよりも遥かに逞しくなった彼の力強さ、当てた耳から轟いてくる心音。

 そして、抱きしめられて感じる温もり。

 ああ、と彼女の頬を涙が濡らしました。

 彼は生きている。

 人形などではなく、ちゃんと生きた人間なのです。


 「会いたかった……」


 その囁きにどれほどの想いを感じたのでしょうか。

 彼女を抱きしめる彼の手に、いっそう力がこもりました。

 彼もまた、彼女を望み、焦がれていたのです。

 彼女が死んだ家族を想い歌う優しく澄み渡った歌も。

 彼女が自身の運命を呪い歌う激しく泣き叫んだ歌も。

 そのどれもが、荒んだ裏社会で生きる彼の唯一の癒しであり、慰めでした。

 だからこそ彼は、嗚呼、この手を離さなければならないのです。

 陽のあたる世界で歌うからこそ、彼女の歌は彼にとって意味を持つのですから。

 闇夜の仲間が急かす中、彼は苦しみ嘆きました。


 お前をどこにもやりたくない。

 この腕の中だけで、ずっと歌っていてほしい。

 どうしてお前は鳥ではないのだろうか。

 お前が鳥だったならば、籠の中へ入れてしまえるのに。

 そしたら俺は、そのままお前を連れて行くだろう。


 二人は、花が開く時よりも長い口づけを交わして別れました。


 それからほどなくして、彼女は死んでしまいました。

 熱い恋に狂ったと喚く男のナイフが、彼女の小さくて柔らかい心の臓を裂いたのです。

 真っ赤な血が、歌のように流れ出ていくのを感じながら、彼女は願いました。



 神さま。

 どうか私を鳥に生まれ変わらせてください。

 彼の傍で、彼の為だけに、死ぬまで歌い続けるだけの鳥に。


 どうか。


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影絵童話集 霧ヶ原 悠 @haruka-k

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