第3幕 とあるレストランのとあるお客の話


 昔々というほども遠くなく、昨日というほどにも近くないころ。

 あるところに、イーロローヵ亭という変わった名前のお店がありました。


 ランタンの灯に誘われるように、木と木の間の石畳を辿ったところにあるこじんまりとした小さなレストランです。

 まるで、傷だらけの現実と息苦しい時間からそこだけ切り離されたような、温かい静謐で満たされた場所でした。

 ドアを開ければカランカランッと軽やかにベルが鳴り、奥から燕尾服を着こなした店員さんがやってきました。


 「いらっしゃいませ。こちらの栗毛飾りの窓辺のお席へどうぞ」

 「ありがとうございます」

 「よろしければ、先にお飲み物をおうかがいします」

 「それでは、《森に降る夕暮れの涙》を」

 「かしこまりました」


 やがて、オレンジの中にベリー色が揺らめく甘いお酒が運ばれてきました。


 「本日のおすすめは、《シチューのごちそうコース》です」

 「ではそれをひとつ」

 「かしこまりました」


 透明な指にゆったりとはじかれる鍵盤のメロディーが、店の中をしんしんと沁みわたっていくのが肌で感じられるようです。


 「こちら前菜の《灰レンズときのこのマリネ》でございます」

 「ほお、灰レンズとは珍しいものを使っていますね」

 「いつもではありませんよ。今日はたまたま入荷できたんです」

 「それは運が良かった。実は私は黒や青より、灰色が一番好きなんですよ」

 「寒い土地で育つせいか歯ごたえもあり、実が詰まってる感じがありますよね」

 「ええ、ええ。そうなんですよ。それではいただきます」

 「どうぞ、ごゆっくりお召し上がりください」


 天井で回る紅孔雀の羽が、心地よい風を送ってくれています。


 「お待たせいたしました。メインのシチューでございます」

 「ありがとうございます」


 赤みの残るお肉は柔らかく、噛めばじんわりと旨味が滲んできて、思わず幸せで頬が緩んでしまいます。

 彩りを添える緑や黄色の野菜の盛り合わせも、こってりとした赤いソースによくあっています。

 そして、ガラからしっかり煮込んで作られたシチューはコクがあり、許されるならば何杯でもおかわりを求めてしまいたくなりました。


 「オーナーが、出来立ての熱々肝煮を持って参りましたので、よろしければどうぞ」

 「そうなんですか。ではせっかくなので、ひとつ」


 囁き合う他の客たちのおしゃべりも豊かさに溢れていて、煩わしさはありません。


 「こちら知恵の果実水と、赤葡萄で風味づけしたシャーベットでございます」

 「ありがとうございます」


 熱い豆の飲み物は苦手なので知恵の実のジュースを食後の一杯に頼んだのですが、まるで果実そのものを食べているように濃く、瑞々しい口当たりで驚きました。

 シャーベットも蕩けるように甘く、じっくりと心ゆくまで味わい尽くしました。


 「ごちそうさまでした」

 「またのお越しをお待ちしております」


 名残惜しそうな表情で、コートに腕と巨大な蝙蝠の羽を通したお客は、店員に見送られながらお店を出ていきました。






 さあ。

 皆さんは、このお客様が何を食べていたか分かりますか?


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