恐竜のぬいぐるみ
一野 蕾
【忘れ物を拾いに】
密室の中、むせ返るような血の匂いが充満している。
テーブルの柱にまで飛び散った
「う、うわああ!」
リビングの入り口の方には男がいた。最初入った時に刺したけど、まだ生きてたか。
「……妻の死体がそんなに怖いか?」
旦那は必死に逃げようとしている。さっき刺した腰を押さえながら。フローリングに血の軌跡が残っている。
怯える旦那の頭を鷲づかんだ。
「おいおい、逃げるなよ! 愛しい妻の最後の表情だぜ、一目でも見ていけよ。キレイだぜ」
「ば、ば、バカ言うな! 人殺し! 人殺しが!」
目に、表情に、ありありと恐怖が浮かんでるのが見える。背骨を這い上がる快感に思わず震えてしまう。
熱に浮かされるままナイフを頭上にかざす。旦那はそっちに目線を移して、青ざめてた顔を更に青白くさせた。
「やめてくれ、死ぬのは、死ぬのは……」
カーテンも閉め切ったこの部屋では、大ぶりの刃でも光を反射したりはしない。鈍い銀色に、いつか黒くなる赤い服を着るだけだ。
ナイフを、さあ、振り下ろ――。
「…………はっ」
まどろみを帯びた視界に入ったのは、木目だった。
軋む体を起こす。まるで授業中に居眠りをしたかのような体勢で寝てしまったからか、すっかり四肢がガチガチだ。夢の中で見たナイフは、今手元にはない。血の香りも、今はしない。
「あー、寝ちまった。こうなりたくなくてカフェイン摂ったのによ」
かたわらに置きっぱなしだった空のコーヒーの缶を手に立ち上がる。公園の休憩所に来て、一休みして、そのまま眠ってしまっていたようだ。朝方に来て、それから……どれくらい経ったのやら。カフェインが眠気に効くとか、嘘なんじゃないか。
自販機横のゴミ箱に缶を放る。ついでに、そこら辺に落ちてたゴミも拾って捨ててやる。
「ったく、自分たちで出したゴミくらい自分たちで処理しろよな……」
自販機周りだけ綺麗にしたあとは、またコーヒーを買う。眠気防止の効果についてはもはや期待はしてないが、美味いもんは美味い。
ペットボトルとかチラシとか、治安が悪いのが分かるってもんだ。公園やコンビニの治安が悪いと、周辺の家の人間についてだってだいたい推測ができる。ゴミを簡単に外に捨てる人間は、大抵、めんどくさがって家の鍵をかけない。就寝時にも窓は網戸だけ、とか。
俺なんて他人の家でも入ったらちゃんと鍵をかけるし、自分の持ち物は一切置いていかないのにな。
「世知辛いわー……、お?」
そろそろ寄り道はやめて家にくらい帰るかと思えば、いつもは見ない場所に視線がいった。滑り台の一番高い所に、何かある。またゴミか何かかと思うが、にしてはちょっとデカいような。好奇心旺盛な俺は気になったので取りに行ってみることにした。大人には少々のぼりづらい段差を一段飛ばしでのぼって、頂上に辿り着く。ぽつねんとそこに置き去りにされていたのは、
「ぬいぐるみ」
ずいぶん可愛らしくディフォルメされた恐竜のぬいぐるみだった。緑色の体に、背中に棘。色を置いておけば可愛いゴジラみたいなものだ。
「子供の忘れもんか? よくこんな大きいの忘れてくな、全く」
きっと持ち主は泣いているだろう。ぬいぐるみには大切に飾られていたそれではないシワが見受けられる。小さな子供が抱きしめるなり掴むなりすれば、つくであろうシワが。
「かといって、交番に届けてやるのもなー……」
色々と書類書くことになるのは面倒だ。でも滑り台の上に置きっぱなしじゃ、別の子供がこれ幸いと持っていきかねないし、雨風にさらされ続けることになる。この恐竜だって、もう野生じゃないんだから、雨に打たれるのは嫌だろう。
決めた、さっきの椅子のところに持ってってやろう。屋根もあるし、人の目にも触れる場所だ。巡回のお
滑り台をサーッと滑り降りた。滑り台なんて何年ぶりだろう。
「俺ってばホント優しいのなー」
「どこ~」
「おん?」
片手に缶コーヒー、片手にぬいぐるみを持った妙ちくりんな大人な俺は、どこからか聞こえてきた男児の声を聞き逃さなかった。
アスファルトが敷かれている公園の入り口から、ぽてぽて歩いてくる子供がいる。
「どこ~? 恐竜、どこ~?」
どうやら神に導かれたらしい。あの子供がまさに、この恐竜のぬいぐるみの持ち物のようだ。
たいして広くもない公園の中を右往左往している子供に、あえて近くには寄らず、恐竜を掲げて声をかける。
「おーい、そこのガキんちょ。お前の捜してる恐竜、こいつじゃないか?」
だんだん涙目になってきていた子供が、俺を見て、と言うより俺の持つぬいぐるみを見て、目を見開いた。怖がらせて泣かれても困るから、しゃがんで待つ。子供は満面の笑みで、こっちに駆けて来た。近くで見るとなかなか可愛い。ちっこい。頭丸い。
子供は俺の目の前でとまって、抱っこをねだるように両腕を差し出してきた。この場合、ねだっているのは抱っこする方か。
「それ、ぼくの!」
「おー良かった。こいつ、滑り台の上でお前のこと待ってたぜ」
「ありがとう、おじさん」
「ありがとうが言えてえら……おじさんちゃうわ!」
なんだか納得いかない感じになったが、お気に入りのぬいぐるみを抱きしめて嬉しそうにしている子供を、本気で怒る気にもなれない。
「ったく、よく見ろよ、おじさんって歳か? お前の親父と同じくらいの年齢だと思うぜ、たぶん」
「おやじ?」
「父親。お父さんだよ」
「んー?」
「……お前、そういや親は。誰かここまで一緒に来てないのか」
よく考えりゃ声を聞いた時から一人だった。母親や、幼稚園だか保育園だかの先生らしき人影もない。
「ひとりできたよ。お母さんは、おうち!」
「そうか。お母さん、なんで一緒じゃないんだ? まさか黙って出てきたのか?」
「んーん。恐竜いない! って言ったら、さがしてこい、って。こうえんにいる、って言ってた。お母さんテレビすき! テレビ見てる」
「あー……そうか」
手持ち無沙汰にコーヒーを喉に流し込む。
これは、もう答えが出てるだろう。
忘れ物が見つかって嬉しいのか、まだにこにこ笑ってるガキんちょをよく観察してみると、五歳前後の子供にしては細い気がする。服もだいぶ古いんじゃないだろうか。というか、ボロボロの靴を買い替えていないあたりがもはや怪しい。
缶をすっかり空にして、俺は改めて立ち上がった。
「じゃ、家まで送ってってやるよ。また恐竜なくしたらいけねぇからな」
「もうなくさないよ! おじさん!」
「だーからおじさんじゃねえって。ほら、早く家案内しろよ」
きゃらきゃら笑うガキんちょの手を引いて歩き出す。子供は、家はそんなに遠くないと話した。ふらふら歩く子供が怪我もなく辿り着く距離なんだから、まあ嘘ではないだろう。
隣を小さな子供が歩いているなんて新鮮だ。子供と触れ合う仕事でもないし、年下の弟や妹なんていなかったからな。
信号待ちの間、ちらと子供を盗み見る。自分とだいたい同じくらいのサイズのぬいぐるみを抱いている様は、子供好きでなくても微笑ましく感じる。
(俺の親も、そんな風に思ったことあったのかな)
地元の土の、更にコンクリの下に埋めてしまったので、もう確認することもままならないけどな。
青信号のぴよぴよ言う音響信号に
「なあ」
「なーにー?」
「その恐竜、俺にもちょっと見せてくれよ」
「取っちゃャメ!」
「取らねぇよ。俺も恐竜好きなんだよ」
じゃあいいよと、あっさりOKを頂いたので、拝借する。
緑色の体につぶらな瞳。やや汚れも見れる。だが
「お母さんが買ってくれた!」
「ほーん」
あちこち触っていたら、硬いものに指が触れた。どうりで。値札がついたまんまだ。バーコードの上に、更に赤と白で囲われたバーコードのシールが見える。
「お母さんは……、いや、この恐竜、お前が欲しがったからお母さんが買ってくれたのか?」
子供にうかがうと、なんだか目がキラキラしている。
「お母さん買ってくれた!」
「あ、うんそれは分かってる」
「おもちゃも犬もうちにいないの! お母さんむりっていうの! でもね、恐竜買ってくれた! たくさんいたけど、一匹だけ! おうちに連れていっていいって!」
「……なるほどなー。カッコイイ恐竜じゃねえか! よかったな!」
「うん!」
ちょうど会話に一区切りついた頃、ガキんちょが家に着いたと言って指さした。ちっこい指が示した場所は、ボロいアパート。敷地は手入れされてるんだかされてないんだか、妙に雑に足の短い雑草たちと、ボウボウに伸びきった鬱陶しい木の枝でほとんど埋まっていた。
「おじさん、恐竜みつけてくれてありがとう!」
「おーおーどういたしまして。あとおじさんはやめてお兄さんと呼ぶこと。次会う時までには直しとけよ?」
「つぎ? また恐竜見にくるの?」
「おう。だからまたな。恐竜なくすなよ」
精一杯手を振って、子供はアパートの一階の一室に去っていった。
徐々に閉じていく扉に手を振り続ける。
俺たちは、すぐに会うことになるだろうぜ。
血が好きだ。人体を流れる赤いそれが、外に出た途端に酸化を始めて黒く変色するのも好きだ。鉄の匂いも好きだ。だから俺は殺すときに刃物を使う。できるだけ濃く、血の、鉄の匂いを感じたいから。
「あああ、ああー……」
「叫ぶ元気もないってか。貧乏なんだな、お母さん」
まあ、見れば分かることか。
部屋の中は無法地帯のそれで、ゴミ袋は隅で山になってるし、布団も出しっぱ。キッチンにはカップラーメンとコンビニ弁当の容器が積まれてあって、扇風機とストーブなんかは隣同士で並んでる。カーテンにはカビ。畳は古くて底が少し見えてる。壁も汚い。
「加えて女としての魅力もない! 母親としても! 良いとこなしだなぁお母さんよ。少し前までは夜で活躍してたのかも知れないけどさあ」
「あえ、あぐ、う……」
「今がこれじゃあな」
うつ伏せで倒れてる母親の腰に座って、背中を何度か刺す。ナイフの切っ先が皮膚を裂いて、肉の繊維を
「殺しがいはあんまないけど、興奮するぜ、お母さん。これでもう少し元気があれば……いや」
きっとこの女の元気だとか無邪気さは、あの子供に全部持ってかれたんだろう。子供に搾り取られて、あとには何も残らなかったんだろう。だから子供に優しくできなかったし、叩いたんだろう。
ごぷ、と母親が口から血を吐いた。日焼けした畳に、口端を伝って水溜まりをつくる。
「勿体ねえな」
ナイフを肩甲骨の下あたりに突き刺して、その
力の入っていない頭を少し持ち上げて、乾燥した唇の端っこから頬にかけて流れる血を舌で舐める。血の味、としか言いようのない独特な風味が口の中に広がった。薄く開いた口の奥に赤い舌が見えたので、そこに溜まった血も飲ませてもらうことにした。舌を差し込んで、唾液を混ぜながらじゅっと唇で吸う。あとは頬と口を袖で拭ってやって、ナイフを抜いて、そこにべっとりついた血を頬につけてやる。
「あんた、子供にぬいぐるみ買ってあげたんだってな」
「ぬ、ぅ?」
「俺もさあ、昔買ってもらったんだよ、ぬいぐるみ。嬉しかったぜ~。今でも覚えてる。と言うか、思い出したな。親から貰う物って大概嬉しいのよ。例えそれが、黙らせるための
「ガっ」
刃を横たえて、首に一突き。一瞬持ち上がった腕が、空中で硬直して、また床に落ちた。抵抗感を感じつつナイフを抜くと、血溜まりが畳の網目を埋めて広がる。部屋の中に、無音がやってきた。遠くから車の通る音がする。外には日常の夜が広がっている。
「おかーさーん……おかあさ……」
「! 起きたか」
そうだ、恍惚としてる場合じゃなかった。伝えたいことがあったんだった。
母親の上から退いて、廊下に出る。ぴったりと閉め切られたもう一つの部屋は、たぶんあのガキんちょの寝室だ。そのふすまの前に立って、息を忍ばせる。ナイフの柄で、手をかけるところをノックする。
「なあ、恐竜はまだいるか?」
「……? だれ? いるよぉ」
どうやら俺とは気付いていないらしい。寝ぼけてるみたいだな。
「お前、もしかしたらこれから、お母さんと一緒にいられなくなるかも知れない。そうすると大人が沢山来て、お前は別のお家に行くことになるかも知れない」
「べつの、おうち……」
「ああ」
再び口を開こうとして、次の瞬間少し驚いた。
「おじ、おにーさん?」
凄いな。子供は少し経っただけで成長するもんだ。
「……おじさんって言わなかったことは褒めてやるよ」
もっとも、お前の知るお兄さんはこんなに血の匂いをさせてなかっただろうが。
「きょうりゅ、見にきたの?」
「ああ。だけどまだ出てくるな。まだ夜だからな」
「うん……」
「もしお前が別のお家に行って、もしそこが嫌な場所だったら、家の前にその恐竜を置いておいてほしい」
「なんで?」
「俺が遊びに行くからさ! また恐竜、見せてくれよ。かっこいーいぬいぐるみ、俺も持っていくからさ」
「分かったか?」と聞くと、「うん」と返事が返ってくる。よし、子供は聞き分けがいいのが一番だ。
「今の約束、秘密にできるか?」
「できるよ! ぼく、あたまいーから」
「っふは、どこでそんな言葉……」
ここで夜を明かすつもりはない。痕跡を残すわけにもいかない。ナイフをトートバッグにしまって、ふすま越しに最後の挨拶をした。
「またな、ガキんちょ」
返事はなかった。
静かに部屋を出て、今回は鍵をかけずに、その場をあとにする。例によって例のごとく、この家は鍵をかけない家だった。
とある郊外のアパートで、母親(30)が殺された。隣の部屋の住人が妙な臭いがすると言い、大家とともに苦情を言いに行ったところ、遺体が発見される。検死の結果、死因は背中から何度も刃物で刺されたことによる失血死と断定。首にも一箇所刺された傷が見られる。県警は殺人事件として捜査を進めているが、犯人逮捕には至っていない。
なお、母親の息子(5)は事件当時別室で寝ており、怪我などはしておらず、犯人の顔は見ていない模様。今は県警の精神的なケアを終え、親戚の家に保護されている。
子供は、あの夜の約束を覚えていた。
お母さんが死んだ。それは涙が出るくらい悲しかったが、もう叩かれることはないのだと、安心した出来事でもあった。
子供は事件後親戚夫婦のもとに預けられた。が、保護の名目で突然預けられた面識のない子供。度重なる取材陣の押しかけなどによるストレスで、親戚夫婦は子供の面倒など見たがらなかった。子供は邪険に扱われ、家の中で歩ける範囲は限りなく狭かった。扱いは犬のそれに近かった。劣悪な環境から抜け出したはずなのに、外に待っていたのは満足に息もできない場所。死んだ母を求めながら夜は泣いた。
子供は、いまだに恐竜のぬいぐるみを持っていた。
約束は覚えていた。だから、昔とは打って変わって大きい一軒家の家の前に、そのぬいぐるみを置いたのだった。
来るだろうか。
子供は不安だった。子供ながらに分かるほど、今の家は母親と暮らしていたアパートからずいぶん離れた場所だったのだ。数日の間、子供は大切なぬいぐるみと離れて生活した。
ある日、家のインターホンが鳴らされた。妻が応じて、玄関に出た。
「え、警察……? そんな、どうしてうちに」
妻の動揺した声を聞き、子供は玄関に向かった。
子供は事件後に散々警察の大人と関わっていたし、幼かったので、警察に驚くことはなかった。
開け放たれた玄関、困惑する妻の背中の向こうに、恐竜のぬいぐるみが見えた。
「あ!」
警察手帳をしまった男が、ぬいぐるみを抱えなおし、子供を見てにぃっと笑った。
「遊びに来たぜ、ガキんちょ」
『恐竜のぬいぐるみ』/終
恐竜のぬいぐるみ 一野 蕾 @ichino__
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