第4話
その日は朝から曇天で、少し目を離したものにはすぐカビが生えていそうなほどむかむかする湿り気が立ち込めていた。部屋の隅にぽつんと置いてある、この場所に不釣り合いな黄色い紙袋が嫌でも目に入ってくる。まだ中を確認する気にはなれず、そのまま置いてある。土曜日の休みにもかかわらず、オレが目を覚ましたのは午前五時だった。ところどころ擦り切れた安っぽいジーンズに、生乾きの半そでのシャツを着た。自分の靴下には穴が開いていたが、これしか持っていないのでおとなしくそれを身に着けることにした。虫の知らせによるものかはわからないが、外に出てゆく準備を始める。リュックに財布と携帯を投げ入れた途端に身支度は整う。再び眠ることなど全く考えてはいなかった。何か大事なものがぐらつく恐れが心を締め付けている。折り畳み傘が、散らかった部屋の中に埋もれていたので、発掘してリュックの中に放り込んだ。鏡で見た自分の顔は細かい傷の住居となって、ところどころ紫に腫れていた。色は薄かったが、じっくりと顔を見られたなら確実に不信感を抱かせるであろうことは確かで、内側の膨張した黒い風船がぎちぎちと耳障りな音を立てている。心に空虚な空間が居座ってはオレを殺してゆく。今やオレに必要なものは金でもこれからの人生でもなく、ただ救われることだった。そうと分かっていても、救いがやってこないことも、救いが決定的に訪れるものである以上は救いなどオレにやってこない。相変わらず生活は苦しい。それでいて止められないのはまだ期待したままのオレの足が震えて立ち止まってしまっているからだろう。姓名とは苦しみの歴史でしかなく、美しい記憶に替わることさえもないようだった。ひどく獣臭い、すえた匂いの部屋のドアを開くと、コンクリートに足が触れる。体重をかけると折れそうになる骨格でどこまで歩けるか予想できなかった。電車やバスなどの交通手段はこの時間にとれるはずもなかった。見慣れたようで拒絶している街並みを横目に、ふらついているような酔った足取りでしばらく進んだが、やはり荷物がいらなかったことを痛感して、来た道を戻り始める。玄関口に背負っていたものをなげうって、また家を出た。新聞の端には、今日は昼から雨だと記されていたが、傘を持ち出すほどではないだろうと気に留めなかった。全身が痛むことには未だに慣れない。人というのは何にでも慣れると思っていた。しかし、早く消えてくれと痛みに願うばかりのこの様子では、慣れるという能力がオレに備わっているかどうかさえ怪しいものだった。捨てられたたばこの吸い殻や空き缶が黙して、引っ張り上げられるようにこちらを見上げている。そういうものにさえ命が宿るということが、ますますオレの心をかじり切る虚空を強調させ、真っ赤に匂う風をざらざらと流し込む。心があれば生きていると論ずるものを一息に吹き飛ばすことが正しいとは思えないが、だからと言って心亡き者が死んでいるという論に賛成したいとも思わない。オレは自分がどこに向かっているのか分からなかったが、とにかくこの空っぽを満たす場所へ、それか器そのものを打ち壊す場所へ行くことをひたすら望んでいた。当然起きている人などいるはずがなかったが、動物は何匹かうろついていた。カラスはゴミ箱の中身を啄んでいて、それに対して猫がとびかかると、泥棒は大声で泣き喚きながら濁った空へと逃避する。それから、猫が倒されたゴミ箱を警戒しながらゆっくりと近づいていった。動物たちは明らかに敵対していた。カラスは生きるためにゴミを求め、猫はプライドのためにテリトリーを守ろうとした。原因が何であれ、自分のことや他人のことを拒否するために、関係性が生まれている。望む望まざるとにかかわらず、とにかく生まれたのだ。赤く輝く糸を互いの首にひっかけて先にどちらが息絶えるかを競い合うが、その糸で互いの傷や不足を縫合する営みには羨望を覚える。痛みが広がる程鼓動が焼けるように走り肩を一つ震わせてちぐはぐなつがいを見ないように歩く。夏ならば踏みしめた暑さが陽炎と消えるように、冬ならば積もる雪が離別の証として引き裂かれてしまうほどに、オレはオレ自身が何者でもなくなってゆくことをひしひしと感じていた。空はもう雲で満ちて、暗いその色が泣きそうに崩れてゆく。どうやらその流れとは逆に進んでいるらしい。かといって、それを大して気にしていないことがオレを苛立たせた。あんな弱いものに、脆くて消えやすいものにさえ人間は敵ったことがない。胸裏では嫌な感覚がざらついて擦れていた。何かから逃れるように、あらゆる不幸な可能性を吹き飛ばすように歩く速度を速めた。日ごろから運動をしていないというわけでもないのに、息が上がるのはやけに早かった。青い標識が指し示していたのは、海への道だった。時間は分からないが、ここからそう遠くなさそうだったので、そこを目指すことにした。どうにも足が痛い。それでも歩くことに焦り、憤っては気分を乱高下させる顔にいい加減辟易しながら、確かな足取りとおぼろげな目で黒い歩道橋をすたすたと渡っていく。頼むからこの忌々しい体を道路に打ち付けてくれとさえ祈ったが、そんな兆しは見せないままだった。日光がぼやけてその淵は薄い雲と交じり合って戻りそうにない。目の前の坂道を下りたら砂漠だ。オレは道の隅に、軽トラックが停まっているのを見つけた。わずかだが魚の匂いがして、持ち主が魚釣りに来たであろうことを簡単に察することが出来るものだった。降りた先に広がる砂浜は静かで、一塊の砂を救い上げてみるとまだ冷たかった。塩とカルシウムと腐って流れ着いたものの匂いが鼻の奥まで立ち込める。この海は汚れていることが多いのか、普通よりもゴミの持ち帰りを喚起する注意書きの看板がたくさん立っていた。海底は表面よりもまだ美しいらしく、潜る技術があれば潜ってみたい。自分が、淡白で薄情なように思えてしまう。感じ取るべきものは多いはずなのだが、それまでのオレの生涯が認識を許さない。ただ自分一人の悪行と苦しみの堆積物が巨大な岩塊となってのしかかるばかりで、それ以外は何もない。こんなにも大きいのだから、海になど立ち向かえるはずもなければ知ることもできないと知っているはずなのに、肩から力が抜けてえもいわれぬ虚脱感が体のどこかに忍び入ったのだ。湿った砂の上に座ると、塩がオレの靴底とズボンを舐める。不思議とそれは気にならず、永遠に続いて対岸など存在しないとでも言いたげな水平線を眺めていた。向こうから小さな波が押し寄せてきた。それはとてもよく何かに似ているようだったが、何に似ているかはわからない。表情の変わらぬままで、オレは泣いていた。止まらない。ただでさえ空の心から、ますますいろんなものを逃してゆく。泣きたいから泣いたわけではない。そんなことを考える前に、勝手に流れ出たものだ。喉は震えて声が出ず、声をあげることでさえもできない。情けなく震え、怖い悪夢の真っ最中のようだった。口に入った涙は、そこまで塩が混ざっていないらしく、特に味もしない。自分の心臓の動きを感じた。灰が膨らんだり縮んだりして、胸が上下にわなないた。体の傷で痛みが生まれた。頭の内側と鼻の奥で、刺すような甲高い音が喘いでは唸り、すぐに消えてしまう。外気に耐えられなかった涙袋が裂けて千切れたと思うほどにどろどろと震えてゆく熱い水は、海水に溶けることもなさそうだ。手の感覚が戻らない。呻り声とも思えない切れ切れの音が口から洩れる。周囲はまだ曇天の暗さを帯びて景色を包んでいた。まだ手が震えて、泥のような砂をつかみ取ることもできない。自分の手足、胴体、脳、どれの所在も不確かだったが、そのどれもが騒々しく喧しく喚きたて続けている。少し時間が経って涙も枯れた頃、向こう側にブロックが積まれてできた突堤が見えるようになって、そこに誰かいるようだった。軽トラックの持ち主だと考えて差し支えなさそうだ。その方向のその人影を眺めていると、大声でオレに呼びかける声が聞こえた。
「そこの奴ー!ちょっとこっちに来てくれ!」
頭がすでに空で、心が動揺している現在において、その声に抗う術など持っているはずがなかった。返事にならない返事をして、よろよろと立ち上がる。起きたばかりのような足取りで、ひたすら突堤を目指す。真っ白くなって砂と色の違わない流木、菓子パンを包んでいたらしいプラスチックの袋の残骸、打ち上げられたクラゲの死体。全ての目に入ったものは終わってしまっているようだ。オレへの予言だろうか。それとも既に過ぎたものの残像だろうか。何千キロメートルも泳いできたかのように病んで疲れ果てている体が崩れてしまいそうになる。オレを呼んだ影は老人で、分厚い長袖の服を着ていた。エサ入れらしきケースに入っているミミズが苦しそうにのたうち回っている。そのうちの一匹をひょいっと指でつまんで釣り竿の先にひっかける所作には慣れが見られた。目は鋭く、灰色の眉はその眼光を覆い隠すためにあるようだった。
「なんだお前、泣いてたのか?」
「はい」
オレには弱々しく短く答えるしかできなかったが、その老人には返事が聞こえたらしい。血管の浮いたごつごつした手で、老人は釣竿を握った。
「泣いていた理由は分からんが、そんなものはどうだっていい。とにかく海を見るんだ、それがきっとすべてを静かにしてくれる」
その教えに従って、オレは突堤のへりに座って漠然と遠くを見始めた。灰色の鳥が彼方で旋回して、どこかの山の向こうに消えて落ちる。あらゆる淀みの接合部であるこの汚れた海の色が揺れては止まり、止まっては蠢いてを繰り返しながら吠える。どこにも人間はいなくて、少し安心してしまった。老人は何も言わず、横で静かに釣り糸を垂らしている。足元で喚急かす海は、その底を見せないままでオレを吸い込もうと視線を捉えて離さない。肩が震える。寒さのためなのか、恐れのためなのかはわからない。指先でそっと自分の顔を確認すると、まだひどく腫れあがって領地を占拠している痣が触れた。今のオレの表情をなるべく想像しないようにと深呼吸するときも、吸い方を間違えてむせ返ってしまった。
「おお、大丈夫かお前」
「ええ、大丈夫です」
言ったそばから咳がとめどなく吐き出されて、その音が響き渡る。ひとしきり咳を終えると、溜息をついた。
「全く、オレの妻が死んだ時を思い出しちまうよ。あんたには釣りを手伝ってもらえたらと思っていたが、見といてもらえたらいい」
俺は何か返事をしようとしたが、詰まって言葉が出ないままで宙づりのセリフが救いを求めて喉元でぶら下がっている。老人はまっすぐに正面と、そして釣り竿を眺めている。
「オレの年になればな、友達がだんだんと減っていくし、嫌いな奴も減っていく。皆が死んでいくからな。しかし、しかしだよ、それは助けられているんだろうな、と思うことも結構多い。人が良すぎて散々騙されたが、友達が近くにいてくれて幸せだと言いながら死んでったのもいれば、金儲けし足りないって苦しみながら死んだ奴もいる。そいつらの歴然たる違いは、他人に対してどう接したかってことだけなんだ。人を誰でも助けたがってた奴は笑って死ぬ。自分のことしか考えないやつは苦しんで死ぬ。人間なんてせいぜいその程度の死に方しかないのさ。」
ひゅっと釣竿を持ち上げた。その先端にぶら下がってぎょろりと老人をにらむ銀の魚は、あまりにも小さかった。お前はまだだろうと言って、手慣れた様子で魚を針から外して海へと投げ入れる。
「どんなクズでも、掬われるのですか」
「社会学者みたいなことを言うね。オレはあいつらが大嫌いなんだが、別にお前の場合は単に気になっただけのように見えるな。まあ、話半分で聞いてもらえりゃいいよ」
一つ伸びをして、老人は話し始める。
「救われるさ、救いさえすればな。しかも、今はネットとやらで簡単に他人の裏側のことを見てられるらしいじゃないか。だから、救ってなくても救おうとすれば分かるもんだよ。逆もまたそうだろうとは思うが」
「弱かったり、馬鹿だったりしてもそうなんですか」
「オレはそうだと思うね。案外、救いの女神さまってやつは誰が救おうとして誰が救われようとしてるかなんて興味がねえようだからな。運不運がどうっていうやつもいるが、経験さえあれば運なんて一要素にしかすぎないんだってことがなんとなく分かってくるもんさ。」
老人は釣竿を勢いよく上げた。それから、持ってきたクーラーボックスやらなにやらの荷物をひとまとめにして持ち上げた。
「お前さんはここに残るのか?」
「はい、しばらくは」
「そうか、雨に気をつけろよ」
オレと老人はこうして別れ、しばらくすると自動車のエンジンの音が聞こえてきて、再び周囲は静かになった。波の音が微かに響くばかりで、暗い景色に変わりはなかった。この塩辛い水の遥か底で、オレの先祖が暮らしていたなんて信じられない。オレはどこかで間引きされるべきなのだろうか。そう考えたとき、ふいに死や自分の運命への拒絶が沸き上がってきた。うつむき気味のオレの頭頂部に、冷たい水滴が落ちる。それに耐えられなくなりそうで、すっと立ち上がった。雲はいよいよその分厚さを増し、自分自身のでっぷり太った体に水分を蓄えることもできなくなりつつあるらしい。すぐに雨はしとしとと降りだした。オレは海へと飛び込んだ。外気温よりも高い水温のように感じられ、心地よさすらも揺蕩わせていた。そこではオレは溶け合うべき物質であり、それでいながらどこにも属さない、飽和した塩の一部でもあった。水面に顔を出して大きく息を吸う。ごぼごぼと咳をして立ち泳ぎをしながら、あたりを見まわした。見渡す限りの平坦さが連なって揺れていく。自分の小ささが焼き印となって背中に刻まれる。水を干上がらせるほどの熱い恥辱が朱肉となったその焼き印は痛みを強調する。オレはやけに落ち着いてゆっくりと砂浜まで泳ぎ、たどり着いた砂浜であおむけに寝転がった。砂には痛みがなかった。乾いて、なめらかで、飲み込まれてしまうほどに深く積もっていた。夏場の節減に散らかった五体の意識が、漠然と遊離して空気に溶けてゆく。容赦なく降る雨にもまれて起きるまでそうしていつしか眠りについていたが、冷え切ったはずなのに温い空気のしがらみにほだされて全身を震わせた。起き上がると、背中が汚く汚れているらしいことに気づいて顔をしかめる。雨に押し負けそうになりながらもなんとか立ち上がり、荷物を何も持っていないことに感謝した。とにかく帰るか、どこかで雨宿りをするべきだと判断してさっきとは違う道を通ることにした。遠回りではあったが、どういうわけかそちらでなくてはならないような気になって歩き始めた。オレが望むことなど雨に洗い流されてしまった。坂道は雨水が元気に滑り落ちるアトラクションに化けて、必死に俺の足を掬おうとごぼごぼ鳴っている。随分な苦労がいるその逆走、というよりも渡河を終えてしまうと、まばらに歩く人々がじろじろとオレを見ては通り過ぎてゆく光景に晒された。さんざん雨に降られてきたはずなのに口が渇いてくるのを不可解に思い、猫背が喉を圧迫するのを感じながら歩いてゆくと、目の前に見覚えのある姿を発見した。あの少女だった。目をそらしそうになったが、妙に引き付けられてただ黙って前に視線を送っていた。オレではどうにもならないことなのだ、と言い聞かせる。心臓は無駄だ無駄だと怒鳴り散らしている。白い髪はなぜか少し掠れてくすんでいるようだったが、目の青さは相変わらずだった。あの日と違ってワイシャツを着ていたものの、雨で濡れてしまっていたので下着が透けて見えた。何よりも、左肩から左手の中指にかけて、血が滴り落ちている。シャツの袖にもうっすら赤く血が滲んでいた。左手で弱々しく覆われた左手を想像することはできなかった。オレに気が付くと、ふっと目をそらしそうになった後、また再びオレを見た。傷ついているのに、非の打ち所がない美しさだった。
「君は」
口から不用意に零れたかたなりの会話のきっかけは、幸運にも雨のために遮られたようだ。
「痛い」
少女はぽっと、シャボン玉のように言葉を解き放った。目の中には何もなかったが、目の奥に何かが見える。オレは黙って続きを待った。
「自動車に…」
その一言で、全てを察するには十分だった。できないことをやろうとして、オレは歩み寄った。少女はそれを拒まないようだったが、体が硬直して緊張しているのが手に取るように伝わってくる。
「私、私は」
口をぱくぱくと開閉させて、感情のこもらぬ眼差しでオレの表情を探っている。前に会った時よりもはるかに姿が小さく見えた。何の持ち物もないようで、足はふらふらして震えている。それは今のオレと変わりない。恍惚としているようで、処刑の寸前のような激しい、それでいて静かな絶望の爆弾を抱えていた。誰に言われるでもなく、望まれてもいないのに、絞首台にゆっくりと歩み寄っていくような清澄な気品と厳格を漂わせながら、それでいてひどく餓えて自分の腹に手を当てて空腹を確認するような足掻きも見て取れる。周囲からは何の声も彼女にかけられなかったが、それは些細なことでしかない。オレの中では、今まで全く見向きもしていなかったものがめきめきと膨れ上がってゆくのを強く感じ取っていた。それはそのまま動きに変わろうと血の中を流れ、骨も筋肉もすべてが一つの願いを導くためにあった。オレは彼女を抱きしめた。あまり力は強くなかったが、彼女は振りほどこうとせずに淡々と受け入れた。少しして、彼女の鼓動が速くなり始めた。体の緊張がゆるんで、石化したような鉄面皮が熱い水分と溶けて目から流れ落ちる。彼女は力が入らなくなって膝を水溜まりについた。オレもその高さに合わせて右ひざを立てた。そして彼女は思いきり泣いた。大声を上げて、何も気にしないで、本能と慈悲の許すままに、雨に混ざらない涙をぼたぼたと落としては俺の肩を濡らす。誰も何も言わないで、時々オレ達を気まずそうに見て歩き去っていく。それでよかった。全てがどうでもよかった。ただこのために生まれたと言われても満足していただろう。しゃくりあげて赤子のように泣くその震える肩に手を乗せ、オレも静かに涙を流した。喘鳴を吐きだしてなおもむせび泣く彼女に、穏やかに聞いた。
「痛いか?」
「痛い、よ」
しばらくは震えが収まりそうになかった。気恥ずかしさのためか、彼女はオレの腕に額を当てた。髪からは雨水の匂いがして、生々しく鼻を衝いた。彼女のなにものでさえも、捨てることが出来ない。この手からあらぬ方向、彼女の望まぬ方向へ飛び出すことだけが怖かった。オレのことなどどうでもよかった。ひたすらにこれ以上傷ついてほしくなかったのだ。オレは胸を塞いでいたものが優しく溶けて流れ落ちていくのが分かった。肩が一度ぶるっと震えた。寒さによるものだったかどうかは分からない。彼女はすっかり疲れ切って、物を見ることにさえも酷いだるさを覚えていた。まだ立てないようだったので、オレは彼女を背負って自分の家まで連れていき、そこで休んだら病院で診てもらうことに決めた。そう告げると、彼女は何も言わずに頷いた。背負った体は壊れそうで冷たく、生きているような感じもしなかったが、心音が重なっていることに気付いて少し恥ずかしくなった。痩せていて軽い、雨で与えられた重さがそのまま体重となっているような体。走りたいとも思ったが、少女の左手が痛ましいものに化けている以上、その責務を全うできるとは思えない。彼女を落とさないためにも歩いている必要があった。オレは彼女のこともオレのことも何一つ知らなかった。知らなくていいことだった。知る必要のないことだった。雨はますます強くなって、彼女はますます重くなって、オレはますますぐしゃぐしゃになる、オレ達を雨から守るものは何もなかったが、それ以上に彼女のことがとても気になってしまい、しばしば声をかけると、彼女は黙って喋る気力もない様子で首を縦か横に振った。街は青く灰色の光をその道に流し、哀れな色をところどころで点滅させている。三日前まで開いていた、シャッターの降りた和菓子屋、もう動かない煙草の自動販売機、スピーカーから安っぽい音楽を垂れ流す八百屋、雨に打ち捨てられて形がなくなっていく公園の砂場の城。オレまで随分と疲れているらしかった。
「ねえ」
「何」
「…なんでもない。何か言わなきゃならないことがあったはずだけど、忘れた」
「そう」
彼女は笑おうとして、上手に笑えていなかった。笑いたいことはよくわかったが、表情は伴わなかった。それが少し悲しくて、「あまり無理しちゃだめだよ」というと、彼女は「うん」と言ってオレから顔が見えないように表情を伏せた。泣いているみたいだった。そして、どこか嬉しそうだった。こんなことは烏滸がましい行いなのかもしれないが、ふとした瞬間に彼女が差し出した手を、オレは引き寄せたのだ。今のオレは何者でもなかったが、何か輝くもので胸の内を満たされている。こんなオレに対してでも、救いというものは誰にでも関係なく、無慈悲に無差別に訪れる。あまりにもあっけなく、あまりにも簡単に拾い上げられて与えられるのが救いなのかもしれなかった。救うことは救われることだった。理不尽で不条理な救いで無に帰ってゆくのだ。悲しい、失望すべき出来事などというものはこの世に計り知れないほど多いが、救いはただそれに対してのみ作動するようだ。家までの道のりはまだ長い。オレは少し歩くのを早めようとしたが、彼女はそれを拒んでこのままの速度で雨に打たれることを選んだ。思えば彼女には救われた。後ろ暗い荒涼としたこの夏の腐った雨の中、オレがオレを失わずして済むのは彼女の温もりによってだった。隅でうずくまる過去も、擦り切れそうな現在も、彼女にとってのそれらをオレはいいと思って受け入れた。とても暖かい。
「あのさ」
「何」
「思い出したよ、言おうとしたこと」
「結局何だったの」
「ありがとう」
それでお互い恥ずかしくなった。割り切れなさと不甲斐なさに苛まれてしばらくの間沈黙が流れた。漂うそれは雨に叩き落されることなく漂い続けていたが、何となく喋らなくてはならないような気がして口を開く。それも、自分でも何を言っているのかが分からなかった。小さくて呂律の回らない音を彼女が聞いていなかったらしいのをありがたく思った。他人の背中にいるということを意識してか、彼女は咳を我慢していた。左肩からの出血はすでに止まっていると思われ、それが一つマシだと思えることだった。オレたちはすっかり冷え切った体に宿って引っ張られる道筋に沿って歩いている。重くないかと聞かれたが、本心からそんなことはない、むしろ軽いと言った。陽だまりのように暖かい髪が首筋に触れたと錯覚していたが、彼女は全身、もちろん髪の毛もぐしゃぐしゃになって水が滴って潰れていた。目でちらっと見ると、真っ白い肌が柔和な光を放っており、どこかの神様のようにも見えた。街路樹は項垂れてその葉や枝の先端から天の涙をこぼし、よたよたと水の重量に煽られて揺れ動いている。車は水しぶきを派手に歩道まで浴びせかけ、図々しく去ってしまった。この後は湿った熱帯低気圧のせいでますます雨が酷くなると家電量販店の店頭のガラスの奥に飾られたテレビが告げていた。オレの背で、彼女は眠りこけてしまっていた。本人とて眠りたかったわけではなかっただろうが、これはこれでいい。家についたときに起こせばいい。規則的に胸や背中が動き、耳元で呼吸の音がする。そのためか、心に迷いが生じることもなく、今まであり得ないほどの安らぎの上に根を張っていた。少女はオレに背負いなおされても起きることが出来ないほど疲れて、意識を深く静かな眠りの井戸に落としてしまっていた。くしゃみをしてはあっと息を吐くと、骨まで冷たさが染み入っていることを嫌が応にでも痛感させられた。まだ先の長い帰路で、靴に染み入る熱い冷気がオレの足を震わせていた。
なれあい 虚言挫折 @kyogenzasetuover
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