第3話
真っ暗い部屋の不健康な淀みに、オレはただ茫然として座っていた。いつからかはわからないが、こうやって一人である一点を眺めることが多くなってしまった。現在の時刻は午前四時。時間に余裕はたっぷりあるが、何をどうすればいいのか、埋もれた凡百の思考に特別な何かが埋まっていたりしないかと期待こそしたものの、脳裏では少数の劣勢が反旗を翻す様子はなく、どんな発見も息をひそめているらしかった。カーテンを閉めているだけでは説明のつかない黒さにまとわりつかれたまま、視界というテレビは停止した部屋の様子を永久に垂れ流してそれ以外の情報を送ってこない。願望がないのだ。こうしたい、という強い意志さえあればどうにかなるような状況でたびたび諦め、恥も外聞もなく這いつくばってきたオレには、希望的なものはおろか、もたらされる挫折や苦悩も許されていないらしかった。それは経済的な得失とは別種の視点である、人間性に関する見地においてオレという生き物に価値が無いことからくる当然の末路ではあった。思考を許されるだけましなのだろうか。表情は動かない。動けないといった方が正しいのだろうか。充電コードに繋がれている携帯電話に焦点が合う。手を伸ばすべきかどうかすら判断がつかない。それをまるで見ていたかのように、変哲のない、デフォルトのままの着信音が鳴る。知らない番号からだった。この時間に連絡は妙だとは思ったが、どうしても手に取らざるを得なかった。
「もしもし」
あまりにも低くくぐもった自分の声に驚いていると、間髪入れず返事が聞こえた。
「久しぶりというほど時間も経ってないわね」
艶めかしい声。ホテルで部屋に入る前にすれ違ったあの女性の声だった。黒い不安の煙が、体のひび割れの隙間から湧き出てくるようだった。
「……なんの用ですか」
オレはなるべく不信感を押さえつけるように口を開いたが、隠蔽できていたかは定かではない。不思議と気を使って話さなくてもいいような気がした。瞬きを忘れていたのか、目が焼けそうなほどに痛い。
「彼女のことで、話したいことがあるのだけど」
「……はあ」
相変わらず、こちらに届く情報量は少ないままだ。反省という言葉を向こうは知らないらしかったが、わざわざ怒る気にもならない。
「駅の東のレストランで待ってる」
ブツっと音がした。これを信ずるべきとは到底思えなかったが、仕事が終わっても別に楽しみがあったわけではない。苦みを多分に含んだ鈍痛はいまだに治らない。昨日の暗い路地裏で不良に殴られた痛み、少女に殴られた痣。すべては烙印のように、オレの弱さと、そこから生じる無価値さを象徴していた。肩に薄い布団がかかったままで天井を見上げる。誰にもオレなど必要とされていない。それはおそらく誰にでもあてはまることではあるが、ただオレの場合にのみその度合いは酷くなるようだった。敵も味方もいないが、同時に誰からも認知されていない。朝食を作るにも空腹でなく、眠るにしてはあまりに目が冴えわたりすぎている。ひたすら動かないことは、オレをひたすら殺し続けるのと同義だったが、それは社会からすれば大した価値もない。そういうことだけが終始渦巻いては消えていく。このまま眠るわけにはいかなかった。昨日今日と遅刻するわけにはいかないのだ。時計を確認して布団を畳み、焼けるほどむかむかする胃の文句を絞め殺しては朝食を口に放り込んでゆく。決まって上手に飲み込めずに吐き出しそうになるその儀式を終えたのちに、勢いよく椅子から立ち上がる。スーツを身に着けようと眺めたが、背中に泥の線が垂れているせいで着るのをためらうが、着なくては話が進まない。始発には間に合う時間帯だが、不安が肋骨の隙間から心臓に辿りついて脳まで血液をやたらと多く送る。湿って文字の描きにくい書類の束をめちゃくちゃに鞄に詰め込み、ドアへと駆けだした。早いかもしれないが部屋を出てしまおう。仕事が楽しいなんて思ったことはないが、家にいたいとも思わない。居場所がないのは、社会に家を与えられていないからだ。縛られていないがゆえに縛られている。自分の体を木に括り付けておけば、動けなくとも台風に飛ばされる確率は低くなるだろう。日差しはすでに眩しくて、自分の体の所在さえも見失うほどよろめく有様だった。様々な苦しみや試練に立ち向かうには、他人の承認が必要で、しかもそれが他人にとって好都合でなくてはならない。承認なき苦痛は何物でもなく、ほとんど虚無に等しい。
オレの一日は突拍子もなく、現実味も情緒もなく終わろうとしている。行きの電車に揺られる一瞬も、上司に書類のミスを指摘されたことも、定時を嫌そうに指し示す時計の長針と短針も、瞬く間に時間を偽装して夜を呼んだ。雨が降る。水滴の一粒ずつが、傘を忘れたオレの頭上に、全身の痛みを嘗め回すために墜落する。呆れたように雲の隙間からオレを眺める、瞬きもしない星のことを考えると長靴を釣ったような気になる。足元から響いてくる電車の産む地響きを疎ましく思いながら、駅の看板を探して歩き回っていた。脳は事態の呑み込みが酷く遅い。光る電光掲示板を見つけたが、やはり内容が入ってこない。何を示しているのか分からない記号は一つもなかったが、何一つとして意識は賛同の色を示さない。とりあえずレストランがあるとされる方向に歩き出した。目はひりつくし、足もフラフラする。自分の行動の目的を、オレは見失いつつある。何で生まれてどうして育ってどうやって生きたか。輪廻転生が修行のためにあるなら、この一回は無駄であったと言わざるを得ない。
「こっちよ」
朝に電話口で聞いた声は、足元で数ミリの深さを成して流れるほど降る、蝉の声のような雨の中でも耳に届くほど鋭かった。オレが待ちすぎていたのかもしれない。左側に件の女性が、あの日と同じ装いで立っていた。思わずそこに歩み寄る。心を侵食する不安と、早く終われという願いが混濁していた。
「遅かったわね」
「…そうですか」
オレはまるで道に迷った子供のように怯え切っていた。女性は傘をさしており、もう片方の手にもビニール傘を持っていた。オレが傘を持っていないことを知っていたかのように、その安っぽい棒きれを投げてよこした。少し歩いた先の目的地は、やけに閑散としていた。談笑する親子や、二人組の男女、一人で書き物をしている学生などがいたものの、オレのようなならず者は一人としていないようだった。店員の案内で二人席に座る。殴られた箇所が今になって痛いと悲鳴を上げ始め、固まった表情のままで若干身じろぎしてしまった。女性はメニューを開いて、感情がないままで眺めている。研究者が細菌を見ているようなその視線の冷たさに、オレの背筋が震える。晩飯を食べていないので、本当はここで食事をとりたかったが、相手の意思で設けられた場である以上そんなことはできそうになかった。オレ達はホットコーヒーを注文した。探りあった末の、いや、一方的に気にした末の妥協点だった。暫く黙っていると、向こうから話しかけてきた。
「あなたは随分変な人ね」
「そうですか」
「ええ。色んなことが矛盾してて、それをさも当然みたいに無視してるんですもの。変だとしかいいようがないわ」
「…それは、オレだけなんでしょうか」
「いいえ、皆そうよ。だから所詮私たちは、きっと全員そろって狂った生き物なんでしょうよ」
嘲笑的な調子を含んで吐き捨てるように話し、おしぼりで手を拭く彼女の後ろに、やたら深く測りようのないものを感じて、オレはまた黙ってしまった。その間は長いようで短かった。
「彼女から聞いたわよ。色々あったって」
「そうですか」
今までどうにか忘れようとしていた体の痛みがぶり返してきた。目も瞑りたくなくなって、耳も塞ぎたくなったが、相変わらずプライドが邪魔だった。いつもいつもこの情は不必要な場面で作用する。気まずい沈黙を破ろうと質問する。
「何の御用でしょうか」
「彼女、間違っていくつかあなたのものを持ち去ってしまったらしいのよ。本人からは謝れないから、私が代わりに届けに来たってだけよ。」
あまりいい気分ではなかった。どうせなら本人に来て、色々の事情を説明してもらいたいが、無理というなら諦めざるを得なかった。外はもう晴れて真っ暗であり、外からの一片ずつの光は店内の照明にかき消されていたが、そんなにも明るいのにオレはやけに暗いものを目の前の女性から感じ取った。この油断ならず奥が見えない深い穴に、オレは初めて会った時から飛び込んでいたらしいのだ。
「私にはあなたが見えて、あなたには私が見えない。これから分かるかもなんて期待はやめておくことね」
「何のことですか」
「分からないならいいわ」
多分その言葉を聞いた時のオレは、誰が見ても崩れかけた顔をしていたに違いない。正体の分からぬ何かが、心の防波堤をするりとすり抜けては心臓の中枢に突き刺さったのだ。次何かがやってきたら、きっと喉を噛み千切られて血痰を吐くだろうほどにオレの意識という生物は言語を振りかざすことを拒否する。悔やまなくてはいけない気がしたから悔やんでいた。深く一つため息をついたが、自分でも驚くほど芝居のように見えた。女性から見たオレはどんな奴に映るか、聞いてしまうべきかとも迷った。やけにむず痒かった。店員がコーヒーを運んできた。ブラックコーヒーは冷たかったが、店内の冷房はより冷たく、迷惑だった。まだ白い服は嫌に肌へと張り付いて、湿り気を帯びた冷たさを伝達して表皮を震わせた。ずきずきした頭痛は止まらない。自然と目も細くなり、険しい表情になる。だが、コーヒーの液面に映る自分の顔は存外平気な様子でふてぶてしくこちらを眺めていた。悪く言えば、何も考えず、感じていない顔だ。
「思っていたよりもおいしいのね」
「そうですか」
女性はふっと息を吐き出した。相手が何を頼んでいたか見ていなかった。相変わらず少しも状況を把握できていないことだけは間違いない。体は何かに飢えているようだったが、既に心が限界にまで膨れ上がっていた。ひたすらにコーヒーが苦かったが、だんだんその味も感じなくなり、こめかみから汗がつるりと滴り落ちた。生命とは一つの苦行で、時間とは忍耐の度合いだ。オレは再び黒い液面に視線を移した。次の瞬間など来ないでくれ、できるならもういっそ死なせてくれとさえ願うほどに理由のない圧迫感に押し殺されかけている。心臓がゆっくりと潰され、落ちたトマトのように赤を吐き出してくれたらもうこんな恐怖を味わうことはないだろう。
「相変わらずよ。私は決してあなたに関与しないし、関与できない。けれど、彼女を待たせてはいけないわ。未だに傷口から涙を流しているはずだから」
その口ぶりは、愛のない母親そのものだった。その時のオレは、さながら差し出された指を握ることのない赤ん坊のように本能がマヒしていた。意味的に理解できないのではなく、そもそも理解しようともがいていない。目の前の女性は遥か高い崖の上にいて、オレはただ寝転がって、女性から時々肉が投げ入れられるのを待っている。ダメな生き物に代表があるとしたら、間違いなくオレが選ばれるだろう。人の価値が平等でないのには、それなりのわけがあるのだ。
「あなたのものだけど、まだ全部返せるわけなじゃないわ。もう少し待ってて」
「いえ、いりません。差し上げます」
女性はきょとんとした表情でオレを見た。その顔は動かなかったが、初めて表情が見えた気がした。あまりにも突然、目の前の石像から生きた人間が出てきたのでいよいよ落ち着かなくなって、相手に聞こえそうなくらい荒く呼吸をした。今まで感じたことのない気持ちを抱えて、オレは確実に人としての品位や社会的な価値を喪失しつつある。これだけのことでこんなに戸惑ってしまうとも思わなかった。女性は再び、真っ黒い塊へと変貌しつつあった。
「そう。でもね、あの子はあなたに会えないまでも、ちゃんと返してほしいと言っていたわ。さっきも言った通り、私はあなたたちに何も関わることはできない、ただの伝書鳩よ」
「そうですか」
なんだか信用できないと思ってしまう。オレの人間性の中から何かが欠落しているせいかもしれなかったが、目の前の女性が全ての黒幕に見えて仕方なかった。不誠実な試みに巻き込まれたかのような不幸な失速具合を演じるくらいに、選択の自由は与えられない。まるで何も書かれていない立札のような虚無の水に浸されては浮いて揺れるだけの流木に等しい。苦しむ力が残っているなら、早くその力が起き上がってほしいのだが、物事はそううまくいくわけでもなかった。眩しすぎる光のせいか、頭は内側から裂けそうな程痛かった。自分の苦しみなど、何の足しにもならない。やけに腹がすいては脳の欲求をつついてオレを満たせと必死にせがんでいる。冬の川に捨てられたような痛みが、内側からも外側からも噛みついて離れない。女性はそんなオレを何とも思っていないらしく、足元から紙袋を取りだす。表通りで一番目を引く服屋の高級ブランドの銘柄が、オレの目に不服そうに飛び込んできた。レモンの果汁ほど薄い黄色のせいで、店内の光がより輝きを増してしまい、オレの影を一層濃くしたように思った。女生に似合わないのに似合っているコントラストがどうも奇妙で飲み込めないでいると、紙袋をオレの方へ押し出した。
「あなたのものよ。残りはまた別の機会に」
「はあ…」
何もわからず期待していないことが簡単に推察されてしまいそうな返事に驚きながらも、オレは紙袋を眺めていた。病気の時に肉を食えと言われた時のような虚脱感と喉の奥の逆流しそうな胃液の流れをなんとか無視しようと気持ちを殺す。ひどく不健康に見えているだろう己の容姿を想像してはすぐに脳の中から追い出す。羨ましくはない。羨ましいと思えるほどに人らしい人生は送っていない。はぐれ物の中でもさらに残りかすのような自分の体が恥辱で火照ることもできないほど青白い顔をしているはずだ。女性は不思議そうにこちらを見ているようでありながら、全てわかったうえでこちらを眺めているようでもあった。何も知らず、知ろうともしないオレが無知に呪縛されてびしょぬれで座っているその向こうに、完璧でグロテスクで真っ黒な女性が座っているこの二極的な対比は珍妙で滑稽だとも思えたが、当事者からすれば甚だ惨めだ。オレは結局、黙ってその紙袋を受け取った。黄色く映えるそれをゆっくりと気だるげに隣に置いた次の瞬間、女性はすっくと立ちあがった。そして、オレの目の前に千円札を置いて店を出ていった。財布から金を抜き取られた現場を見ていたと思われるほどの素早い動きだ。オレは脳みそにやたらとせっつかれはしたものの、動く気にならなくて暫く椅子、というよりもソファに座っていたが、もうすることがないのと明日がせっかくの休みだから早く寝て明日の諸々の雑事を終わらせるために早く起きてなくてはならないことを思い出してのろのろと立ち上がった。オレが今まで働いていたことが、自分でも不安だった。代金を支払い、雨のますますひどくなった往来を酔ったように歩き、濡れた地面にちかちか反射する青や赤の信号機に目がくらみながら、再び駅にたどり着いた。駅のベンチで財布のありかを探り、誰にも見られないように願いながら中身を確認する。勿論現金はないが、カードを使えるくらいの蓄えは口座にまだ残っているはずだ。定期券は泥で汚れていたが、使えないことはなさそうだった。改札でかざすと音がして、定期券の使用期限が白い電光の中に表示されて少し安心した。階下から騒ぎが聞こえてきた。いやむしろ一方的に怒鳴りつける怒号に近かった。降りたくないような気がしたが、義務感に責め苛まれて降りてゆく。すると、すぐ目の前で女性が男性に大声で怒鳴っている。男性はくたびれたワイシャツを着て項垂れているが、時々必死でこくこくと頷いていた。
「お前のせいだからな!お前がクズじゃなきゃわたしはこんなことしてないんだ!」
男性は黙って動かない。
「金も全部使って!ギャンブルに酒にタバコか!捨てちまえよ!」
まだ黙っている。
「わたしが…わたしが」
女性は死んだように沈黙して動かない男性を見て、膝から崩れ落ちて肩を震わせ、しゃくりあげながらさめざめと泣き始めた。呟くような小声で、何と言っているのか分からないほど小さかった。ちょうどたどり着いた電車に、喋っていることさえもかき消されそうな程だった。騒音とともに電車の扉が開き始め、オレはそこに乗り込んだ。自分の長すぎるローブを身に纏って裾を踏んづけた死神のようによろめいた。汗が消えてゆく。吊り輪は首をくくるための麻縄だと虚勢を張る割には、惰性の揺らぎに振り回されている。オレが立って入り口近くの鉄の棒を握っていると、すぐ隣で女子高校生と思われる制服の二人組が大声で、甲高い笑い声とさして整っていない顔立ちで会話をしていた。きっちりと聞く気にもならなかったが、どうやら先ほどの喧嘩をしていた男女への愚痴のようだった。ヒステリックなまでに敵視して拒絶するそのさまをオレになぞらえてしまって嫌気がさしたが、同時に野卑た心がひりひりとしびれて、口の中が苦い唾液で満たされていくのが分かる。この程度のことに気を取られたくはないが、どうしても声が耳に刺さる。声を聴いただけで吐き気がしそうだが、そんなことを口にすればたちまち差別だ何だと暴言を突き刺されるにきまっている。オレに対しての非難が声となってあたりを震わす。会話の前で、白杖を持った女性がおろおろして立っていた。目が見えないはずなのに周囲を見渡し、手に持った視力代わりに触覚を伝えるそれをせわしなく小刻みに揺らしている。そこからはオレと同じような匂いを微かに嗅ぎ取ることが出来たが、オレほどに腐ってはいないようだった。吊り革を握れないらしかったので、仕方なくオレの近くで地面と垂直に立っている棒をしっかりと、手が震えるほどに握りしめていた。ある駅に着いたところで、二人の女性はその目の見えない女性に無自覚に荷物をぶつけながら電車を降りてゆく。オレにぶつけてくれる方がはるかに良かった。オレにぶつけられたとて別段に何の痛みもないが、どす黒くなった体内の組織液がふつふつと煮えていくのがわかる。
「空きました。座れますよ」
オレが言うと、女性は恐る恐る手探りで座席についた。喉と膝ががたがた震えているのは、慣性力に逆らいたいがためではない。己への怒りか、自分の情けなさを恥じているか。赤い血の中を流れてはその速度に抗えずに次々に死んでいく。
「ありがとう」
その言葉が、あらゆる視界に映る事象を一息に打ち壊してしまいそうなほどにオレを揺さぶった。肉のない骨格標本が突っ走っているに過ぎなかった。声は柔和で、あまり聞き馴染みのないものだった。その背後に苦しみを帯びているのが自然に伝わってきた。ふらついて酩酊した人混みを分けて、眩しすぎる光線が飛び込んできたようなものだ。本当に自分に血が通っているのかさえも分からなくなってゆく。オレはその少し先の駅でふらりと降りた。女性はオレが離れてゆくのに気づいたようで、ぺこりと頭を下げた。はにかんでいるようで、ますます頭の内側の摩擦は鋭くなってゆく。こんな対価はオレには十分すぎる。火花が散って野火になる前に消し飛ばさなくてはと他の情報を探す。その時、目に入った駅の案内図で、ここが最寄り駅の一つ前打ということに気づいた。虫の声か耳鳴りかの区別もつけられないような甲高く不快な音が、ひたすら体内でぐるぐると回っている。電車に乗る気分になれず、歩いて帰ることにした。途中でぶっ倒れてしまわないだろうか。倒れたとして、その背中を誰かが踏みつけてくれたのなら、それほどいいことはないだろうが、オレにとって苦しいことであることに変わりはなかった。眩しくもなく、ただ単に儚い。人生が苦しみの連続で成り立っていないというのはその通りだったが、それを容認せよと言われたところで簡単にできるものではない。ガードレールが茶色く酸化して、かつての白い色を失ってぼうっと立っていた。締め切られた踏切に佇む自殺志願者が、ちょうどあれに似ている。救いに値せぬことを悟った最後の足掻きでもあるかのように、表情を消すことがそういう存在にとって普通のことになる。オレもそんな一派に成り下がって、そしてそれよりもはるかに下位の存在になって、自分の意思や体のありかについても理解できない始末だ。左足の力がするりと抜けて、体制が傾いた。オレは電柱に左手をついて倒れるのを防いだが、同時に途方もない倦怠感が背中にのしかかってきた。一生このままでも仕方ないと思えてしまうのは、オレができそこなったということと同義だ。貧血の割には意識がはっきりしている。熱中症にしては条件がそろわない。とするとただの過労だろうか。いや、そもそもそう多く仕事が回ってくるわけでもない。理由など求めることが愚かなのかもしれないが、どうしても追い求めてしまう。追ったところでどうにかなるわけでもなく、足が焼けそうな程に早く走っても、辿りつくどころかその入り口にも足を踏み入れられないだろうに、それでも追ってしまうのだ。全く無為に生きてきてしまったのに、なぜいまさらそんなものを探してしまうのだろう。幻覚を見た人間のようにとりとめもない、滅茶苦茶な思考回路の末端に眠る飢えが目を覚まして、所構わず喚き散らす。別に空腹というわけではなかった。ここ最近は突発的に空腹感が失われることが多い。空気の暑さというよりも、あの少女のことが原因だろうと推察された。いったいどこで何をしているのだろう。オレは一体、何を望んでいたのだろう。たった一度会ったきりのその面影に、何かが浮かんでいるような気がした。もう一度会わないのが、お互いにとっていいことになるのかどうかは分からない。向こうが嫌なようなら会わなくともいい。その結果オレがどうなろうが別に構わない。体がばらばらに無残な末路になろうとも、甘んじて受け入れなくてはならなかった。それが救いでなくても、誰の意思にもよらず物言わず死ぬべきだ。理由のなさそうなクラクションが建物の隙間でなる。祝砲とも暗示ともとれる道の先に待つ暗闇に導かれ、オレはそこへ歩き始めた。
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