第2話
顔中が痛かった。きっと酷く膨れ上がっているはずだ。体を起こす気にはなかなかなれず、だらしない格好でその場に寝そべっていた。すでに日は昇りきっていて、それが大変に疎ましく思えた。今、昨日のことを思い出しても、まったく腑に落ちなかった。しかし同時に、オレにはあれこそが当然の報いであったのだ、と説明されたら納得してしまうだろう。心臓とはこんなにも心の痛みを知らないものかと呆れていた。平然と混乱する思考の中を駆け巡る赤い血液が、今にも顔中から吹き出しそうな予感が頭に接触した。そういえば、今日も仕事だ。ここから会社までの経路は分からないが、何とかなるだろう……定刻をとうに過ぎていることを除けば。服はすでに多く己に刻んでいた皺の一つ一つを、あの少女の苦しみのように見立ててしまい、つい顔をしかめた。空腹と乾きが、ずっと体内の欲を押し出して、内臓を支配している。こんな状態で会社に行くのは自殺行為ではないかとも思ったが、それすらも構わないくらいに自分をぞんざいに扱うことで、ありとあらゆる思考回路を停止するように働きかけて均衡を保ちたかった。そもそも考えている場合ですらないのだ。勢いよく起き上がってそのままの勢いで駆けだした。書類は持っている。打ち合わせや会合といったものが翌朝まで延長となることはざらだったから、今回の「会合」でも例にもれず持ってきたのだ。もっとも、今回は一度も書類が鞄から取り出されることはなかったが。部屋を出た。エレベーターの前に来た。パジャマ姿の男女がオレの後ろを通る時、訝しげにこちらに一瞥をくれて立ち去ったが、特別気にしていた様子はなかった。何かの洗剤の香りと、僅かな獣の臭いが混ざり合って鼻に届いた。随分いやな気持ちになった。例の牢獄のような色味の箱は到着する。そわそわしながら長く墜落の道を辿るエレベーターに乗っていると息苦しさを覚えてしまう。こんなに狭い場所だったろうか?正面を見続けていると、平衡感覚を喪失する一瞬が訪れてエレベーターは目的の高さで停止する。ドアが開いたが、降りても誰もいない。再び駆け出し、近くのタクシー乗り場まで向かう。財布にはたまたま十分な金額が入っていた。広いカーブが見え始めて、より一層急ぎだす。ガードレールの隙間で左手を挙げる。目の前に予定調和のごとくタクシーが停まり、勢いよくドアを開けて滑るように車内に入って座席に座り、運転手の問いを待たずに会社名を告げた。「分かりました」と返事が聞こえた。ふとバックミラーを見ると、自分の顔が映っていた。赤く、ところどころ青く腫れて、目だけはどうも鋭い。うっすらと髭が生え、ぼさぼさの髪で自分の偽物がこちらを見返している。一応、忘れ物はなく、取られて困るようなものもなかった。靴下の片方は見当たらなかった。きっとあの少女が持っているのだろうと思うことにした。脳みその中がぐつぐつと煮えているような気がしてちっとも志向が前に進まない。ありのままを話しても、内容の突飛さゆえに上司に信じてはもらえないだろう。会合ではありませんでした、殴られて終わりましたと言っても、胡散臭いと思われつつ一通り話を聞かれ、「それで、本当のところは?」と問い返されるのが関の山だ。そこから先、どうにか話を続けようとしても、自分が喋る様子が全く思い浮かばなかった。返事などできるはずがない。…返事で思い出してしまった。会社に自分の状態を伝えていなかった。鞄の中を探り、携帯を取り出す。タクシーの中からで申し訳ないという誠意を含んでもしもしと口を開く。少し驚いたような声が聞こえて、そのあとどうして今日は遅いんだと聞かれた。少々困惑した。どう説明すべきか迷ったが、それは黙秘権ととられたらしい。ため息が聞こえ、長い説教が始まる。…本来はもっと早くに伝えるべきだった…これは心構えの問題だ…そもそも…。オレは黙って、程よくはい、はいと相槌を打ちながらほつれた精神の糸をどうにかつなぎとめて話を精いっぱい聞いていた。最後に、あとどれくらいで会社に着くのか聞かれ、現在地と予測到着時刻を伝えると、わかった、それではとだけ言われて電話を切られた。オレは酷く荒々しく携帯をしまい、窓の外を見やる。胸中にはずっと薄汚れた心が鎮座しており、それはオレにとって永遠に不快で不可解だった。街路樹や、道や、立体駐車場や、行き交う人々が見える。それらは何の意味もなさなかった。せめて少しでも見た目を整えようと自分の様子をバックミラーで眺めていたが、右の靴下は見当たらなかった。きっとあの少女が持って行ったのだろう。脳みその中がぐつぐつと煮えているような気がして、ちっとも前に進めなかった。運転手には随分怪訝な顔をされたが、結局一言も言葉を交わすことはなかった。通学途中の学生がタイ焼き屋の前で並んでいたり、犬のようなサラリーマンがベンチで寝ていたりした。でも、オレには関わりようがないし、関わられたいとも思わなかった。風景から察するに、そろそろ会社が近いようだ。どうにもやるせない気持ちを抱えたまま、ただ終着を待っている。いっそ膝を抱えてうずくまって、運転手に「降りてください」と言われてもその場にしがみついていようか。随分くだらない考えだと思いながら、漠然と足元を眺めていた。ふっと影が車内に差し込む。
「お客さん、着きました」
はっとして顔を上げた。たしかに会社だった。結局タクシーの運転手と一言も言葉を交わさないままだ。慌てて財布から幾枚かの硬貨を取り出すと、乱雑に運転手に渡す。怒っているかもしれないと思ってちらりと見やったが、ずっと愛想を忘れたような顔をしているので、感情に変化があったかどうかなど分かるはずがなかった。オレは今だにちゃんと靴を履けていないことに気づいたが、直す余裕などなかった。オレは駆けだしたが、風にゆすられる街路樹のようにぐらついて不安定だった。ちょうどオフィスビルの前だった。薄い水色のビル。三階建てだが、周囲の建物に比べたらまるで公園の遊具だ。オレが出向くべき場所は二階にある。エレベーターもあるのだが、これからのことを思うとあまりに気が重く、足も積極性をもって動きたいわけではなさそうだった。暗い銀色の手すりを握って、体中の推進力を総動員させて前に進む。いや、上に進むというのが正しいだろうか。とにかく、問題の場所へ向かうのだ。何もかもが煩わしかった。自分の足が鉄と擦れ合って立てた音はいやでも耳に入ってきて、脳までも侵食し始めてしまうような感覚に襲われる。風が吹く音は引き裂かれそうな気持ちに対して素知らぬ顔で波となり遠くへ飛んでいく。音は全て、どんなものでも鼓膜を媒介して侵入してくるのだが、生憎視界は光を水中のごとく揺らすだけでちっとも情報を受け入れようとしない。今ここで血を吐いてうつ伏せに倒れたなら、一人二人の見知らぬ他人に心配されるだろうとは思った。そういう時に心配するような人は誰に対しても優しい人で、いろんな人に助けられて生きてきた人だ。誰でも違わずに、逆に言えば誰に対しても特別だと思えずに手を差し伸べるのだ。オレはそうはなれない。なれたらきっと今頃はこんなところまで落っこちてはいないはずだ。階段を登り切って右側に、とうとうドアが見えた。剥がれかけのオレンジを纏った縦に長い鉄は、同情も理由もなく漠然と立っていた。ひたすらに逃げたいが、どうにもならないことはどうにもならないほどわかり切っていた。ドアノブを回す。
「おはようございます」
いつもより少し気落ちしていたと思う。こんな中途半端な精神状態の時ですら、明るく挨拶せねばならないという実際との差を感じて、虚しさが胸元まで一気に昇ってきた。今現在誰もこちらを見ていないことを確認して、わずかに安心して歩き出す。上司は決まって大きいデスクの後ろの椅子に堂々と座っていた。もう二度と動きそうにないくらいだったが、定刻になると立ち上がって帰る。彼は理解のある人間だったが、オレの顔を見て目元に疑問の色を浮かべずにはいられないらしかった。ふみこんではならない何かを察したらしく、電話で話した通りだ、これを反省して仕事に励めとだけ言った。全く反省点がないのか、はたまたあまりにも反省点が多すぎるのかは分からなかったが、とにかく反省を言葉にしようがないことだけは確かだった。謝罪の言葉を述べると同時に深々と頭を下げて自分の机へと歩く。機械的なあいさつにぼうっと返事をして椅子に座る。どういうわけか分からないが、ふうっと深い息が口から吐き出された。書類は山のように右側に積まれていたが、内容はさほど大したものではなかった。面倒だからという理由だけでオレのもとに回されたことが、見ただけでよくわかる。自分の仕事どころか、周りの仕事にも興味は沸かない。一度も希望は抱けなかった。ただ単に会社の面接に通り、ただ金のため、最低限会社が求めている名誉のために働くだけだ。環境が何かを変えてくれるのではないかと期待していた節があることは否めない。甘えだと言われて仕舞えばそれまでだ。しかし、期待していた。そして、思った通りにはならなかった。期待しても、救われはしないようだった。キーボードの電源ボタンを押してパソコンを起動する。真っ青な画面から黒に変わり、サインインを求められた。幸い無くなっていなかったメモ帳を開き、パスワードを入力する。点々が円形に動く。一瞬だけ意識がぼうっとして、そのときに通勤快速ほどの速度で疑問が通り過ぎた。解決しようのない、答えのない疑問だ。一体こんなに虚無的な抜け殻になって、オレはどうして生きることを選んでいるのだろうか。死ぬ理由がないとか、死ぬのが怖いというだけではないようだった。多分、上司に首をくくれと言われたらくくるだろうし、海に飛び込んで溺れろと言われたら是も非も気にせず身を投じるだろう。その程度の理由でも死ねるのだ。こんな問いには、他人以上に答えようがなかった。オレは生きるために生きて、死ぬために死ぬのだろうとは薄々理解していた。いや、理解というよりは予期していた。人間の思考ではなく、動物の本能に近いような生き方をしている。人としての価値、ひいては社会の中の一個人としての価値はオレが持っていないものだった。自分で直立することもできずに目をつぶって人生を歩くのは、きっと期待しているからだ。環境に期待して何も変わらなかったことから逃げながらそう思っている。期待では何も変わらない。変えようと動かなくては変わらない。しかし、ダメだった。本能のほかに唯一持っている気持ちが、オレを破滅へと導く鍵にしかならないというのは愚かな皮肉だ。少なくともオレには自殺願望はない。言われたらやるだけ。破滅とは、虚無の連続に他ならない。ひたすら充満する虚無が膨れ上がり、とうとう堪えきれなくなって破裂すれば、それは破滅だ。不意に、誰かが誰かを呼ぶ声が聞こえて、はっと意識を戻す。画面はすでに立ち上がって、オレが動くのを待っている。仕事にはあまり身が入らず、いつも人並みだった。人が手柄を立てていようが、大して嫉妬もしない。オレはもう嫉妬できるような人間ではないからだ。全てにおいて犬のように仕事をした。気がつけば終わっていた。流石に定時で変えるのは気が咎めて、もう少し人の雑務を片付けようとキーボードを一心に打ち続けた。背中も胸も信じられないくらい重かった。一体何がのしかかっているのか分からない。遅刻したことへの罪悪感だけではないだろう。ひたすらに恐れている。自分の中の何かを。目を背けて逃げ出したくなるような、おぞましい何かを。残業に残る人が、いつしか追い出され始めていた。その流れに従って、オレも会社を出て行った。外から社屋を振り返って見上げると、街灯に照らされて相変わらず佇んでいる。しかし、もう随分と古くなってしまった。人間やその派生物は、待つ未来が破滅だけだろうか。仮にそうだとして、それは納得ができるような形なのだろうか。少なくとも目の前のぼろぼろの建物はちっとも動じず嫌悪も悦楽も見せない。建物なのだからそれは当然なのだが、だからといってここまで頑固だとは予想していなかった。もしくは、単にオレが自分というものに関心を抱いているにも関わらず、全く自分の情理や生活についての知識がないという二つの異常事態の狭間にかかる不安定な吊り橋にしがみついているからなのかもしれなかった。社会であれ個人であれ自分であれ、全てには矛盾が存在し、みんなが都合よく目を背けて過ごしている。オレにはそういう能力がないだけだ。なぜか今まで黙っていた顔中の痛みが一斉に喚き始めた。表情を歪めて手で痛む箇所を抑えようとしたが、やはり痛いものは痛いままで、触れることも憚られた。夏は風なんて吹かないと勝手に思い込んでいたが、いつしか風は強くなりつつあった。ひりひりした鈍る痛覚がぶるぶると震えているようだった。蒸し暑さのせいか、まるで溶鉱炉の内側のように息苦しく、突如停滞した周囲の大気は自分の悪行を一つも認めない。咳がでた。大げさなくらい大きな音で、体が前傾する。ホテルに向かう途中の昨日の道で感じた寒さが、肩と背中を通過した。風邪なのか熱中症なのかは分からなかったが、とにかく体調は優れない。早く帰ることを優先しなくてはと思い、歩くにしてはあまりにも重い足を動かし始めた。かなり意志の力が必要だった。歩いて周囲の様子を見るにしても、気力を振り絞らなくては光る看板の文字すらも見えない。足は引きずっているも同然の様相を呈している。オレはひたすらに歩いたし、またそれ以外の選択肢がなかった。那由他の彼方まで歩こうとも家など見えないのではないかという誇大妄想が浮かべばそのまま信じてしまうほどに、脳は混乱して冷静さを欠いていた。いや、そもそも欠けているとわかるくらいに満ち足りているものがあるのかと問われても困る程だが、とにかくいろいろなものを食いつぶした挙句消化できずに頭は熱せられている。今口を開いても、喃語のような音や脈絡のない意味不明な単語群くらいなものしか飛び出してこないのは明白だった。蝉がこんなにも喧しく騒ぎ立てるのに、耳に入ってこなかった。少し寒いが、この寒さはきっと体の内側から湧き出ては熱を体外へはじき出そうとする性質のものであるらしく、どれだけ厚着しようが一向に収まる気配はなかった。今日は一日中、いや、昨日からずっとくらいに水分を口にしていなかったので、きっと熱中症だろう。早く帰らなくてはならないという意思に反して、足は先ほどと変わらずひどくのろのろと動くだけに留まっている。何か飲むべきだろうか。だが口に物を含めば途端に吐き出してしまいそうだ。随分自分に頓着がなくなってしまっているのは年々感じていたが、最早このありさまとは想像もつかなかった。オレはベンチに座りこんで、回るだけ回って一向に収束しない己の頭を押さえ込んだ。目を瞑った。…耳の奥から、いや、中枢神経から、振動が発生して波が伝わる。信号源は親の声だ。もう縁を切ったが、当時の記憶は染みついて二度と離れそうにない。兄よりも出来が悪かったこと、感情で怒られて道理で叱られたことはないこと、妙に詰られたこと。どの記憶も、オレを構成すると主張するに足る十分な要素だった。オレは育ち方を間違えて、社会にそぐわないことを強く自覚していながら、それが原因だとして逃避し続けた。だから、自分にも他人にも何の情けも抱けなくなっていた。救われなければ救われないのが人の世の理ならば、オレは決して救われたりしないはずだ。呼吸は必然、荒くなっている。とにかく何かをしていなくては体が我慢できないらしい。オレの意志は薄弱すぎて、体が意志を己の構成員としてみなしているかどうかさえも確信が持てなかった。もう動かなくてはならない。ゆっくり、本当にゆっくりと体を起こすと、不思議なことに体の不調は感じられなくなっていた。ただし頭はまだくらくらする。往来に人が多くなっていたので非常に歩きにくかったが、電車に乗るまでの辛抱だと思って、震える足と喚く心をどうにか制御しながら歩いた。よく通る大声が聞こえ始めた。甲高くて、少し耳障りだ。
「新しくできた学習塾です!よろしくお願いします!」
ティッシュ配りだ。オレには関係なかったし、関わりたいとも思わない。大通りの曲がり角でうろうろしている。酔ってもいないのに猫背になってよろめくオレの目の前に、ティッシュと広告の入った透明な袋が差し出される。全く何も考えていなかった。本能は自然な反射としてそれを拒絶するはずだったが、オレの手にはその袋がやけにしっかりと握られていた。握る力が強すぎて震えているが、自分でもどうしてこんなに強く握っているのか分からない。力を緩めたくてもコントロールできない。脳波など発生していないのではないかというくらいには意志を伝達できなかった。ぽとりと落としてしまう。そしてそのまま足で踏みつけて再び歩き出してしまった。どうしたのかと問われても、オレにもこたえることはできない。心の限界にしてはどうにも説明がつかない。幸か不幸か、親から何か生まれつきの障害があったとも聞いていない。だが、駅の明るさと人込みで、そんなことは些細なこととして処理され、すぐに忘れてしまった。賑やかだった。人数はたくさんいるが、オレはなおも駅の中では一人だった。蛍光の看板が垂らされて、次発の電車の情報を垂れ流していた。オレは周りと同じように駆け出し、階段を勢いよく降りた。毎月4万を払って住んでいるアパートが、ふっと浮かんだ。それすらも電車になんとか乗り込んだとたんに海馬を通り抜けてしまう程度の刹那的な残像でしかなかった。夜は町から火を噴かせては、時間が経つと太陽を連れてくる。その時間帯はオレにとって生き地獄であり、最も耐え難いものだったが、それを求めている自分も少なからず存在した。悪人になりたがっている自分。倫理から外れている自分。そういったすべての幻は黒い光輝を帯びて心を刺し貫いている。理由は全くないのに、次々にくだらないことを思い出しすぎた。電車とともに、オレの体が大きく揺れた。その拍子に、窓に自分の顔が映る。わかってはいたことだが、どうにも特徴がない。そして、ひどく疲れたような表情をして迷惑そうにこちらを凝視している。首をゆっくりと前へ回して、何も見ていないかのように再び姿勢を保った。アナウンスが駅名を告げる。次で降りなくては。揺れが激しくなる。冷房は少し肌寒さすらも帯びた。顔が痛む。彼女は…今どうしているだろうか。オレのことを忘れていてくれたら、それはとても喜ばしいことだ。慣性力が働く。シュウウと音がすると同時に扉が開く。人をかき分けてどうにか降りる。空気がまずかった。息苦しい。心は体とは無関係に荒々しく震えている。オレは目の前のベンチに座った。今のオレを動かしているのは、後ろ向きな気持ちだった。許されたいから、救われたいから向かうだけ。救わなくては救われない。立ち上がって、少しよろめいたが、ぐっと体制を立て直した。もう喉は枯れていたが、飲み物も買えないくらいに財布の中身はほとんどなかった。人のますます増えた駅のプラットフォームから脱出するために階段を登る。自分の身はきっとあまりにも無残で情けないはずだ。いくらスーツを着ていて小綺麗で髪が整っていようとも、それは何の関係もなかった。いかに計算高く合理で動こうとも、それではどうにもならなかった。この状況に適当な形容詞は存在せず、オレはただ暗いじめじめした洞穴を進んでいるようなものだ。ふらふらと歩き始めてしばらくすると、服屋のショーウィンドウが見え始めた。この道には服屋なんてなかったはずだが、と思って、広い歩道で端の進行方向と平行に立っている地図を眺める。駅の出口を間違えたらしく、なぜだか少しドキッとした。地図をよく見ると、細い道が何本かあって、そこを通れば短時間で駅まで戻れそうだった。オレは寒さに耐えられなくなって上着を羽織り、少し戻って交差点の信号で止まり、脇へそれて細い通りへ向かう。足を一歩踏み出してすぐに、生ごみの甘ったるいにおいが鼻と口周りに漂ってきた。カラスは追剥にあった死体みたいなゴミ袋を好きなだけついばんで飛び去ってゆく。だがどうであれ近道であることに変わりはない。眉をひそめて歩く。希望的な観測などできるはずがなかった。こんなところでも人はいるらしく、前方に三人の黒い人影が立っているのが見えた。少し近づくとわずかにではあるが表情が見え始めた。全員、にやにやと笑いながらオレの歩いて来るのを見ている。彼らの服装にはまとまりがなかったが、それでも何かしらの共通項があって、そのために発生した絆で結ばれているように見えた。オレは彼らがオレに何をしたいのかは推察できたが、彼らの短期的な欲を解消する方法を知らなかった。オレは考えたくなかった。彼らの横を通り過ぎようとすると肩を掴まれた。
「お兄さんお兄さん、どこ行くのよ」
「駅」
自分の痛ましい、というより情けなくあせた色味に覆われた顔のことが思い浮かんで少し嫌な気分になった。殴られたら痛いだろうな、とぼんやりそんなことが頭に浮かんだ。
「へえ。……俺たちさ、お金ないんだ~。だからさ、ちょっと分けてよ。あるでしょ」
「いいや」
「……どうやって電車なんか乗るの?」
中心の男は髪を金髪に染めていた。意地の悪い笑みを浮かべて俺にそう聞く。
「どうにかなる。」
オレは自分の未来についてもそうだと言い聞かせるように呟いた。聞こえるか聞こえないかくらいのその言葉が口から離れていった瞬間に、腹部を重い一撃が貫いた。普段の食事がいかに自分にとって不足であるかを思い知らせるかのようなその攻撃に、よろりと後ろによろめいたが、次々と拳は飛んでくるし、蹴りも加えられる。転んでしりもちをつくと、顔に蹴りが飛んでくる。それに何の抵抗も示さずおとなしく当たる。オレは辛うじて意識を保っていたが、体のほうはだらりと力なく地面にくっついていた。上着から財布を取り出しているのが見える。彼らは律義にも現金だけを取り出して、オレが来たほうへと駆けてゆく。財布そのものは近くの地面に落ちていたが、しばらくは拾う気になれなかった。俺の心に、わずかに喜びが忍び寄ってくるのが分かってぞくっとした。それは決して暴力によって快楽を得るという意味合いのものではなく、むしろもっと根源的な部分に侵略し始める類のものだった。喜びというより、安心感かもしれない。自分の正当な立ち位置はここなのだと知らしめているような気がした。自分という汚泥にまみれた存在が落ち着ける場所がここにあるのだと思えてならなかった。そして、あわよくば永久にここにとどまっていたいという、人の心を極限まで救われないほうへ引きずり降ろされる欲が表出し始めてもいたのだった。ぽつ、ぽつと弱い雨が降り始めた。水が染みて、顔や指が痛かった。服についた靴跡が湿りだして、より汚く滲んでいく。オレはようやく起き上がって財布を拾った。カード類は無事だった。もう真っ暗で、どこからも光など射さない。右足がずきりと痛み、意識もまだはっきりとしない。自分の眼球を頼りにして前進するほかない。雨が少し強くなってくる。髪が、服が重い。顔を上げて歩く気にはなれず、微笑を浮かべながらうつむき気味に歩く。人のいないこの細い道に感謝して、よたよたと頼りない自分の足を恨みながら惰性で動き始めると、かなり駅に近いところまで出た。帰る途中に、コンビニに寄った。人はまばらだった。この世の果てみたいな空気の店内を迷わずに進み、酒の並ぶ透明な棚の扉を開けた。オレは酒など飲めなかったが、冷蔵庫ではもう二十本くらい缶ビールが冷やされている。たぶん、もう期限切れのものもいくつかあるはずだ。それでもよかった。どうせ飲まないなら、そうやって何もなく終わってゆくのが当然の帰結だ。買ってこそいるが、この黄金色の液体の何がいいのかはよくわかっていない。飲みすぎて肝硬変だとかにかかることもあるらしかったが、それはやはり関係のない話だ。店内のありとあらゆるものはオレに敵意を向けていた。聞きすぎた冷房で肌が乾燥して、傷口はいっそうひりひりと痛み始めた。濡れた衣服は雪のようにオレを包む。レジの店員はオレの顔などよりももっぱら自分の業務内容に不手際がないかどうかを心配しているようだった。きれいに下がった頭とお辞儀を見守って店を出る。看板はやかましいくらいに光り輝き、オレのありさまをオレに確認させたがっているようだった。やけに高い位置にあるのも腹立たしかった。でもそれも答えだった。一生涯高みに上ることもなければ、このさきずっと運勢が回復する見込みもない。信じず、救わず、守らず、動かず。また頭が痛み始めて、オレはなるべく何も考えないようにして家路を再び歩き始めた。
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