なれあい
虚言挫折
第1話
オレはそのホテルの一室に向かって歩いていた。いつもより少し落ち着きがなかった。嫌な雲が空に満ちて、ぬるい風にずるずると引きずられて動いている。いつもより水溜まりがまぶしく、あまりうつむいてもいられなかった。時間には絶対に間に合うのだが、それでもなお急ぐのは気持ちの問題があったからだ。一つにこれというのは難しいが、焦り、苦しみ、怒りなどがふつふつと湧いてきた。それはやがて一つになって、人がいまだに名前を付けていない感情へとなり下がった。今のオレにあるのは、ぽっかり空いた穴に、液体のようにどす黒い空虚が注ぎ込まれてゆく感覚だけだ。街灯が連なる。裏道を通ることにした。近くへ行きたかったのに、近くへ行きたくなかった。曲がりくねって、ひしゃげたガードレールが途方に暮れている割れたアスファルトの道が一転へと進む足を導いた。太陽は落ちようとしている。そうして沈んだものが再び蘇るとは思っていない。きっとオレの未来の足跡の先に待ち受けるものだってそうなのだ。いつだってオレは救われようとしなかった。だから救われなかった。順当な流れではあったが、どうにも受け入れることができずに、今もなお歩いている。トンネルに入る。やたらと音が響くことを除けば、とても心地の良い場所だ。周囲よりも冷たく、暗い。まるで蛇の巣のようだった。それでも尚、心は張り裂けんばかりにミシミシと唸っている。息を深く吸って、大きく吐いた。やはりどうにもならなかった。ずっと与り知らない不安だけが膨れ上がっていく。もう標識は錆びて赤茶に焦げていた。どれだけの速度で走行すればいいのか分からない。蒸し暑かった。肌にこびりつきそうな植物のにおいが煩わしかった。白線を歩きながら、ふと、オレは戻れやしないんだという気持ちが首を持ち上げた。それがいいほうに転ぶか悪いほうに転ぶかは分からなかったが、今は考えるだけで気が重くなった。信号が増えだして、歩道が再び現れた。目的地へはますます近くなっていった。遠くで雷の音が響きだして、早足になり始めた。向かいから人殺しが歩いてきて、オレの動脈を一瞬で裂いて背後の闇へと消えてくれたなら、この後の、これまでの、有耶無耶にしてきた全部を帳消しにして忘れ去ってしまえるだろうとさえ考えた。今や救いとは、時間の経過ではなく、すべての終わりなのではないだろうかとも思えた。朝の天気予報では口を酸っぱくして熱中症に注意だの最高気温がどうのと触れまわっていたが、オレは肌寒さに震え始めた。これがまさに熱中症というやつなのだろうか。生憎、水分を持ち合わせていない。ただ単に消耗していくだけで終わってしまう。もう汗も流れなくなっていた。車通りが増えている。大きい道に飲食店が並んでいる。看板が歩く人々を見下ろしては、自分に大きなプライドを持つように煌々と光り輝いている。しかし、今のオレにとってはあまりにも眩しすぎる輝きだった。自分の影ですらも重さを持っているように感じた。ぼうっと眼前を眺めていると、目的のホテルの名前が書かれた看板がつきあたりの建物の壁に取り付けられていた。青の地にピンクの丸い文字というけばけばしい色味だったが、裏側に後ろめたさを隠しているようにも見えた。「右手に3.5km」とある。まだ時間に余裕があった。それが一層、気持ちを陰鬱にさせた。自分の呼吸すらも信じられなくなって、仕方なしにまたふらふらと歩き始める。そもそも、オレはどういう理由でホテルに行くのか知らなかった。なんだか行けと言われたから行くことにしたから、随分曖昧なことがきっかけだったような気がしている。記憶をたどっても、メールで連絡を受けたのか、公衆電話から聞いたのか、それすら定かではない。内容だけが、カレンダーとメモ帳に記されていた。こちら側が忘れているだけだろうか。ただ単に「九時から会談、ホテル」としか書いていない自分の事を心から恨んだ。しかし、今更相手のことを聞いておけばよかったなどと後悔しても後の祭りだった。オレはうっすら感じている破滅の警鐘を無視しながら進んでいる。今にも逃げ出したかったが、いざ逃げようとして逆を向くと、唐突にいかなくてはならないという義務感に襲われる。ふと、親の手を引かれてスーパーのお菓子売り場から遠ざかっていく昔の様子が思い返された。文句も言わず偉い子だと褒められたが、本当はただ単に言えなかっただけなのだ。称賛されたところで何も嬉しくないどころか、オレへの当てつけのようにさえ聞こえてしまった。ふっと前を見上げたら、もう目的地だった。代金は向こう持ちで、受付も済んでいるらしく、黙っていても通り過ぎることができた。床は思ったよりも綺麗に掃除されていたため、少々気が引けた。スーツの内ポケットから小さい黒いメモを取り出して見ていると、今回の件に関する記述を見つけた。汚い走り書きを何とか解読していくと、「5F 302」と書かれていた。エレベーターに乗って5の数字があるボタンを押した。まるで登山のように、上に上に上がる程息が苦しくなってくる。高い音とともにドアが開く。静かなホテルの中は赤を基調とした質素で重苦しいデザインで埋まっていた。壁が白い分、消火器の赤はより目に飛び込んできた。最も近い部屋番には106とあり、302は別のブロックのようだ。エレベーター乗り場から出て正面に部屋案内があった。右手へ2ブロック分進むと百の位が3になっている部屋の群れにたどり着けるらしい。近いはずが、妙に遠く見えた。カチャリ、と慎ましい音がした。できることなら、子どものように座り込んで泣き喚きたかった。目的の部屋から長い黒髪の女性が出てきて、こちらへ歩いてくる。オレの目つきは勝手に険しいものになってゆく。しかし、無駄だった。女性はスーツ姿だった。表情は近未来の玩具よりも無で満ちていた。その目は暗い内奥を見るものに感じさせはするが、ちっともその最奥部が分からなかった。毛糸を忘れてミノタウロスに挑むのはきっとこんなものだろうと思えた。
「彼女、待ってたわよ。私が入った時にはもう、涙目になって、許してください、許してくださいって何度も言うんだから。」
想像よりも艶めかしい声で、正面から話しかけられた。
「すみません、9時からと聞いたのですが、手違いがありましたか」
「そういうことではないわ。ただ単に私たちが早く来すぎただけよ。でも、私は今回の用件には関わりがあるというわけではないから、あとはあなたが行ってきなさい」
母親のような口調だった。案外喋るのにも驚いた。しかし向こうはオレなど眼中にないとでもいうようにすたすたと歩いて横を通り過ぎた。少しいい匂いがした。果物のようだったが、どこかなじみのない匂いだった。彼女は何の荷物も持っていなかった。自分の右手に持った鞄がばかばかしく思えてきたと同時に、ずっしり重くなった気がした。この肢体ががらんどうのようだ。どこにモーターがあって、どこに回線があって、どこに電源があるのか、皆目見当がつかない。それでも、引きずられるように足を前に進める。まったく、人は動こうと思えばいつでも動けるものだと心底呆れた。この凪にすらも流されるものである。見たくない「302」が徐々に近づいてきた。体内であらゆる色が混ざり合って、どうしようもないほど汚い色が作り出される様がありありと脳に映った。ネクタイを締めなおす。すうっと息を吐く。自分がなぜこんなにも恐れおののいているのか、この直前になっても分からなかった。ドアをノックする。応答はない。そういえば涙目だったとかさっきの女性は言っていた。泣いているのかもしれない。しかし、こちらも待つことはできない状況だった。もういちどノックする。今度は「はい」という暗く沈んだ声とともにどたどたと音が聞こえた。ガチャリとドアが開く。青い目の、真っ白い髪の女性が顔をうっすら赤くして立っていた。黒色の下着のままで平然と立っている。目のやり場に困って、正面を直視した。
「入れてもらえますか」
「そうでした。迂闊でしたね。どうぞ」
すっと伸びた白い背中を見ながら、部屋に入っていった。全く何の変哲もない部屋だった。入って左手の衣服棚、右手のユニットバス。少し進んで、平たい棚の上の大型テレビの正面に大きなベッド。小さい部屋だな、と思った。面会にも向いていない。椅子も机もない。女性はまだ服がそのままで、ベッドの横にちょこんと座っていた。あどけない表情だったが、妙に色気を漂わせている。部屋の隅に、おそらく女性のものだと思われる荷物が乱雑に散らかって、鞄の中身はめいめい好き放題に外出したまま、誰かの命令なしでは戻って来そうにない。
「替えの衣服はお持ちですか?」
女性が聞く。
「いいえ、この一着しかありません」
一体どういう了見なのだろうか。美人局か、とも思ったが、それにしてはどうも様子がおかしい。確かに目の前の女性は美しく、見たことのない色彩を放っていた。だが、その雰囲気から、何か欠けているような、不安を煽られるような足りないものが数多くあるような気がした。それは少し見ればわからないが、長く知っているとなると必ず気づく類の違和感だ。そんな女性を使って相手から金銭をせびる行為などしようと思えるだろうか。
「あの、私は今日面会という用件でここへ来たのですが、一体何についての話でしょうか」
すると、女性はきょとんとしていた。その表情がすでに、そんなことは私の知ったことではないと思わせるようなものだった。口を開いて出てきたのは、正直な彼女の心情にほぼ違いないと思われる返答だ。
「私は…面会とは聞いていませんでしたが」
少しだけの言葉なのに、声量がどんどん小さくなってゆくのがとても痛々しかったが、分からないままではもはや済まされない。気の毒なことで、申し訳ないが、質問した。
「では…いったいどうして、僕に面会という用向きで仕事が入ったのか、少しでも知っていることといいますか、心当たりのようなものはあるでしょうか」
「え…っと、いいえ」
完全に困惑している。先ほどの女性に話を聞くべきだろうか?いや、それにしては時間が経ちすぎている。時間という言葉ではっと思い出した。我々はあまりに早く着きすぎていたのではなかったか。壁の時計を見ると、やはりまだ9時にはなっていない。そういうことかと納得した。相手はちょうどにやってくるか、少し遅れてやってくるのだろう。すると今度は、この女性の説明がつかない。確実にホテルの関係者ではない。面識もなく、いで立ちは異様。何かの手違いだろうか。そうすると、先ほどエレベーターの前で話した女性についての事柄が霞んでくる。あの女性は明らかにこの部屋で起こるありとあらゆる予定を知っていて、オレのことまでも知っていた。しかし、肝心の本人たちは、これから何が起こるかをまったくもって知らず、予測のしようもなかった。いつしか、部屋は静寂で満たされてしまった。自分の体は酷く困惑していることが分かった。必死に光を浴びた雑草が、無残に刈り取られていく様を呆然と見ているようだった。この目の前の女性は、何のためにここにいるのだろう、とふと思った。
「あなたは…どうしてここに来たのですか?」
「私はただ、あなたに会いたい人がいるから待つようにと言われただけですが…」
全く持って不可解な返事か聞こえて、思わず落胆した。この女性も、同様に何の前情報もなママやってきたということを察するには十分な答えだった。多くが陰鬱な謎に隠されたままだ。ドアが開いた瞬間からずっと、女性の着ているものや持ち物にも、山のように疑念が積もっている。携帯が鳴った。知らない着信音だ。女性がびくっと立ち上がってパタパタと鞄までかけ、散らかった荷物をまさぐっている。ようやくお目当ての物を取り出して耳に当てる。はい、はいと震えた声で答え始めた。相手が誰なのか分からず、声も聞き取れなかった。女性がこちらを向いた。一声「あなたは…お客さんですか?」とオレに聞いた。そこで大体の察しがついた。その手の店に努めている人間に違いない。だとすれば説明がつく。質問にはどちらでもない、私にはよくわからないんだと答えた。女性は電話に向けて分からないそうですと言った。しばらく相槌を打って、女性は電話をしまった。
「問い合わせるから待ってほしいと言われました。」
まだ待つのか。いや、待つのにはもう慣れてしまいそうだ。ふと、このままずっとここにいて、救われずに干からびてしまうのでは、という変な想像に駆られた。9時を少し過ぎていた。オレ達は二人揃って黙り込んでしまった。もはや解決のすべも、正しくてわかりやすい答えもなくなって、崖への一本道しか残っていないとしか思えない空気が部屋中に満ちていた。仕方なく、自己紹介でもと思っても、他人に誇れるようなことも、特別人から褒められることもオレの内側にはちっともなかった。
「…いくうですか」
「今年で19になります」
にしては大人びている。そして、やはり何かしらの欠落をにおわせる佇まいでもある。その正体も掴めなければ、問題のある行動をしているわけでもないので、人に説明などきっとできないだろうと思うと歯痒いが、とにかく著しい不足を見て取ることができた。ひとまずのきっかけはできた。話を続けてゆけば、この重い空気はどうにかなるかもしれない。
「今は何か職に就いたりしてますか?」
「あの、一応二つバイトはしてますが…」
そう答えた後、気恥ずかしそうに黙り込んでしまった。何とか話をと思うが、口からは乾いた空気しか出てこない。心臓が唸り始める。
「あなたは…自分が、幸福だと思いますか」
いきなり、そんな言葉が聞こえた.オレへの質問だと気づくまで少し時間がかかった。
「自分が幸福化?」
「……はい」
「きっとそうだと思うけど、自分ではよくわからないね。まず、あまり自分のことを考えたことはなかったけど」
「そうなんですか」
「そうだね、ずっとそうだよ。思い返せばずっとそうだった。だから、いつどこで幸福だとか、何で不幸だとか、大抵のことは後回しにして、見ないようにしてしまったから…昔のことをあまり思い出せないと思うと、不幸なのかもしれない。」
「…うらやましいですね」
「私もうらやましい。周りのみんなは、何か一つ誇れるものがあって、そいつの奴隷になることも厭わない。……君はどうだい」
「…じつは…よくわかってなくて」
つうっと、彼女は自分の太ももに目を落とした。
「正しいと幸福かといわれると、それもどうかと思いますけど、正しくいたいとも思うんです。それに、私はこれといった将来への見通しがないんです。何の職なのか自分でもわかりませんし、親とは喧嘩別れする形で家から飛び出してきました。だから…私は、そう幸せではないのかもしれません」
次第に落ちていく声量で語られる話を、オレは黙って聞いていた。彼女は自分の服装を気にしていないようだった。それが分かる理由が、オレが自分の服のわずかな乱れを気にしているためだということが、勝手に意識の中に入り込んできて、大層煩わしく思った。彼女ははっとして話を中断した。
「すいません。迷惑な話ばかりして」
確かにそれは心からの謝罪だった。にもかかわらず、やはり微妙な不足は欠いていなかった。自分の表情がまだ柔らかく穏やかであることを理解して、少し安心した。窓の外はようやく本物の暗さを帯び始めた。街の明かりも、まるで宇宙のようにあちこちに浮遊している。不意に目が合った。眼球は、向こう側の視神経が見えてしまいそうなほど透明だった。あまりにまっすぐなのでこちらが恥ずかしくなってしまう。ついつい視線が逸れた。女性――いや、その少女は途端に表情を曇らせた。
「あの…もう少し目を見てくれませんか」
「すまない。それはできない。私が耐えられないよ」
オレは内心どころか所作までも不安を表すように、せわしなく指が動き出した。向こうもだった。心臓に茨の巻き付いているような苦しい表情をしている。急に、時間がすさまじい速度で動き始めたような気がして時計を見た。正常だ。いや、この異常な環境で正常に思えるということは、ひょっとしたら異常なのかもしれない。次に聞こえた少女の声は震えていた。
「あなたは…誰ですか」
寝ていた虎を起こした、と脳が警鐘を鳴らしたが、既に手遅れだった。オレは何と答えるべきか分からない。名刺を渡すべきだろうか?名乗ったとて、果たして本当のことと信じられるだろうか?何も答えられない。こんなにも思考は速く逡巡するのに、口は乾ききっている。風景は見えているのか見えていないのかいまいちはっきりしないまま、濁った不安の波に呑まれるのが分かったが、どうにかできることではないということくらいは皮膚でさえも知っていることだった。情けないことに、ずっと沈黙が続いた。心臓が震え始めた。
「私は…ただの会社員だよ」
そうは言ったものの、その発言にすらも自信を持てなくなってしまう。実際に、絞り出した声はあまりにも小さく、僅かに掠れていた。存在すらも危ぶまれるほどに根拠が希薄だった。こんな返事しかできないのが心から許せなかった。当然、少女は疑いの目を向ける。
「本当ですか?本当に信じてもいいんですね」
一つ深く頷いたが、残念なことに、オレの役職が社会的な事実であったとしても、絶対的には全く意味のないことだった。いかに名刺に会社の名前が記されていようとも、それはすべて嘘ということになってしまった。
「でも、私は…私は何で不安なんでしょうか?」
その気持ちは同じだった。岩の突端に立つ城が、いつ落ちて谷底の川に沈むか分からないように、漠然とした将来への不安や理由のない自己嫌悪が心を刺している。少女が首筋に手をやるのを見て思わずはっとした。信じられないくらい美しかったからだ。この世のすべてを代表する権利を彼女が有していても、何の不思議もないであろう程に正しい人間の外形だった。後ずさりしてしまいそうだ。しかし相変わらず表情は不安に満ちたまま思考の一端を辿っていた。彼女は両手を組んで強く握っている。これが、誰かに見られていたらどうしようかとふと思った。役職上、人目を気にしなければならない立場は、予想以上に肩身も権限も制限される仕事だった。
「大丈夫ですか?」
声をかけられた。顔が近かった。とてもいい香りがして、一瞬思考が止まってしまった。彼女にとっては他人がすべてで、自分がいかに他人との関係を築くかにとにかく腐心しているように見える。強いようで弱く儚いその深層心理は、ひたすらに人に縛られることを望んでいた。多くが無駄に見えた。晩飯を食べていなかったので、胃がきりきりと痛み始める。そっけなく大丈夫だと答える。よかったと笑う顔を見て、空腹とは無関係に腹がずきっと疼いた。時間はぐずついて狼狽したまま進み、そのくせ二人の孤独に対して、何物をももたらしはしない。オレはちょこんとベッドのふちに座り、猫背のまま暗くうつむいていた。携帯を見れば何かわかるかもしれないと思ったが、ちっとも見たい気分ではないせいで、体中が重くなったような錯覚に陥った。仕方ないとようやく腰を上げ、自分の鞄から黒い筐体を取り出した。時刻は12時。連絡はなし。暗くすぼんだ目で画面を眺めていると、一度聞いたきりだった着信音が鳴りはじめた。少女が慌てて電話に出る。
「はい……はい、本当ですか」
声が小さくなって、少女の体中に深く生々しい影が落ち始める。何か嫌な気分だった。すぐにでもこの場から立ち去りたかった。ベッドに深く腰掛けたかったが、さっきからやたらと軋むので諦めなくてはいけない。
「……はい。では…ええ」
次第に、ベッドの上で正座をして遠くの相手と話している少女が遠のいて、ぼやけ始めた。一種の逃避だというのを少しだけ感じられた。一度、少女がちらっとこちらを見たとき、今ままでないほど胸がずきりと痛んだ。音が出ると思われるほどの苦痛だった。
「はい。失礼します」
電話を終えた少女は、敵意を体中に宿してこちらを見た。
「嘘だったんですか」
「え?」
唐突だったせいで、信じられないような高い声を出してしまった。いったい何のことかさっぱり分からない。呆けたオレに、続けて怒鳴る。
「あなたが来るまでどれだけ辛かったと思ってるんですか?ずっと放っておいて、今更顔を出したと思ったら偽物ですか。何回嘘と分かってついていったか知ってるんですか?私が、私がどれだけ多くのものを失くしたのか、想像できないでしょう?あなたはまだ何も失くしていないのに。」
顔が真っ赤だということを、当の本人は気づいていないらしかった。オレは相手の表情にいちいち同情するような性質の人間ではなかったが、苦しみが強く突き付けられていることは分かった。唯一共有できることがその感情だという事実は、なんとも受け入れがたいことだ。オレにとって、唯一、それらすべてが理解できて、同時に理解を求めていないものだった。
「すまない。謝り方も分からないよ。君に対してできることは何もないよ」
少女の声は今は静かだったが、ずっしりと重たかった。白い髪が本来の色をみるみる取り戻してゆくのが、手に取るように分かる。
「何もできないんじゃないでしょう?何もしたくないだけなんじゃないですか?こんなにも先が見えないのに、どうして平然としていられるんですか?あなたが何一つとして私のことを知らないのに、私の全部を知ったみたいな口ぶりで話さないでください。あなたに私が救えるとでも思っているなら勘違いです。私はあなたにとっての何かにはなれません。信じていいと言われても、信じられるはずがないじゃないですか」
声は震えていて、しかし目に涙の様子は見られなかった。最早相手がオレでなくてもいいような気がしてきた。自便の存在の不信や将来への不安は、そっくりそのままオレのほうへ向けられている。どうにかできることではない。そうだ。さっき言われた通り、オレはこの少女の偽物にも偶像にもなることはできない。どういうことかは分からないが、怒りや嘆き、その他感情の爆発を沈めなくてはいけないような気がした。でなければ、薄暗い暖色を帯びた明かりや空虚に沈み込む膨張したベッドのシーツから逃れられなくなってしまうと勝手に感じたのだ。
「どうして…どうして」
感情を一通り吐き終えた彼女は力なく項垂れた。相変わらず何といえばいいのか分からなかったが、触れることすらも許されないほど、心模様の色味のバランスは安定を保っていることが伝わってきた。何を言ってもきっと伝わらないが、伝えるために必要な理解の道に続く扉を、当人に閉ざされている。気が付くと、喉が焼けそうなくらい乾いていた。正座をしていないはずなのに爪先が痺れ始めた。
「私は…どうすればいい?君を信じていいのか?私が大嘘つきでどうしようもない偽物だという君の発想を、私もまた信じるか決めあぐねているのだが…」
しばらく黙った後、少女は答える。
「信じるのも信じないのも勝手です。私はただ、あなたを信じていないだけです」
「では、私が君を信じても君に関わりがないのなら、君が私を信じても私にかかわりはないというわけだ」
まるで死刑宣告のような声だった。少女の肩が震えた。オレはもう何も言いたくなかった。言っても理解されないはずだ。しかし、ずっと言葉が口から出て連なり、小国を潰す無敵の軍隊のように襲いかかる。
「ならばもうそれで良いんじゃないか。私たちの間にはもはや何もないし、どんな会話も無益だ。全てにおいて私の目は不明瞭なままで、君の声は届かず空に溶けるまでだ。こうなってしまった以上、もうそれで妥協してお互いの貴重な時間を無駄にするのは止めにしないか」
自分で話しながら、違うと直感が叫んだ。言葉尻だけとらえればそう大きな間違いでもないはずだが、持っている正しさがこの場においては何よりも間違っているように思えた。理屈や順序だった説明など、一切が不必要だったにも関わらず、攻撃でもなく防御でもなく、ただ単純に話し続ける。先の見えない不安という化け物にどんどん餌を与えているにすぎず、そいつがいざ育ち切ったとなると、彼女に止められるとは思わなかった。
「私はもうそろそろここを出ていくことにするよ。面会だと言われてやってきたはいいが、特に何かがあったわけではない。申し訳ないけれど、私には明日があるから早く帰らなくちゃならないんだ。暇で空虚でどうしようもないこれからのスケジュールが待っているんだ。でもこのまま帰るのは申し訳ないから、何か言いたいことや頼みがあれば言ってくれ。できるだけ請け負う」
心の底から自分のことを殺してやりたいと思った。冷え切った言葉をただ積んでは置き去りにするような情けないことをこんなにもやすやすと受け入れてしまう。この期に及んでなおも自分の体面を守ろうと必死になったままで、横柄な言葉遣いはちっとも治らなかった。どうにかなってしまえという気持ちと、どうにもなるなという気持ちは、オレの心という狭すぎる部屋の中で場所を譲れと醜く言い争っていた。少女は押し黙っている。それもまた、オレに干渉できる要素を持っていない。今となっては自分の権限を主張できない場のほうが多いということくらい分かっていた。少女が、こちらを見ている。完全に表情を失っていた。瞳の奥は宇宙のように暗く蠢いていた。そこから何かを見て取ろうと必死になって、オレは少女をじっと見ていた。ずっと正座をしていたはずが、ゆらりと頼りなく立ち上がる。白い体。影の落ちた双眸。背筋がうすら寒さを感じ取って震えあがった。しかし、立ち上がることは体のあらゆる細胞が拒否している。不条理。一瞬だけそんな言葉が頭を通り過ぎた。彼女からしてもそれは同じだ。平手が飛ぶ。頬に痛みが走る。木製の建物が風に煽られるように、顔の血液が軋む。倒れる。別に逆らおうとも思っていなかった。そして、こんなにも冷静に頭が回ることが不思議で仕方なかった。
「黙れよ」
少女は怒りを込めて呟く。心の底で、自分の行動を、発言を、一切を、ずっと重んじてきたはずの多くは彼女の中で今、消滅した。
それなのに彼女は他人に対して所有物を投げ出すことを厭わなかった。存在の不確かな自分に対して高い関心を持っているせいで、逆に自分を失くしてしまった。オレの表情は硬く、大山に変わりない。
「どうしてなんだよ!お前はどうしてそうやって黙ってんだよ!なんで何も起こってないみたいな表情でこっちを見てんだよ!見るな!見られてたまるもんか!私が、どれだけ、不幸だと思ってんだ!知らないくせに、どうして、な、なんで…よそ見してんじゃねえよ!ふざけんな!ふざけんな!…」
決して一撃の威力が高いわけではなかった。それ以上に、彼女のすべての懊悩やエゴが流れ込んでくるのが怖かった。本当に、理解してもいいのだろうか?それは許しとなるのだろうか?ずっと殴られ続けているオレは、徐々に考えることを止めていった。
「……許してくれ。オレを」
ぴたり、と少女の手が止まった。ぶるぶると震えるのが、足から伝わってくる。涙を浮かべて、肩を激しく上下させる。
「う…あ」
よろよろと、後ろに下がる。オレは倒れたままだったが、そんな情けない様の人間一匹にも恐怖を抱いていた。彼女はテレビの前まで駆けだして、散らかった荷物を纏める。よほど慌てていたらしく、誤ってオレのものがいくつかポーチに投げ捨てられたが、気づいた様子はなかった。彼女は知らないうちに服を着ていた。消え入りそうな意識を携えて僅かに見ていたが、ドアを閉める音がして、少女が部屋を出ていったと思うと、意識の糸が切れて、オレはその場で痛みに飲み込まれて目を閉じた。
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