第52話 ちぎれそうな願い

 一ヶ月を過ぎても栞からの連絡は途絶えたままだった。俺の中の栞の存在がどれほど大きかったのかを嫌というほど思い知らされている日々は、それはそれは重くて辛い毎日だ。

 俺の携帯電話の充電はとっくに切れてしまっている。主を失ってしまった携帯電話は、真っ暗な引き出しの中でただの鉄の板になってしまった。


 少し起こされたままの体勢は、俺からいろんなものを奪っていくように思えた。ぐっすりと眠る事も出来ず、腰には負担がかかって痛くなるし、横向きにもなれない。

 動く気にもなれずに、ただ外だけを見つめている。もう何もかもがどうでもよくなっていて、食事をする気にもならなかった。



──ガシャ───ン!!!

──カランコロン……


「一ケ瀬さん、どうしたの?」

 菊池さんが慌てて走って戻ってきて、ナースコールを押した。


 俺はありったけの力を振り絞って、運ばれて来た食事をトレーごとテーブルから払いのける。お箸やスプーン、コップがカランコロンと音を立てて床に散らばった。


「あ"────」

 菊池さんが伸ばす腕を振り払い、俺の腕に刺さっていた点滴が外れた。赤い血が滲んでくる。

「一ケ瀬さん! 落ち着こっか、」

 ナースコールで看護師さん達が集まってくる。バタバタと騒がしい。

「うるさーい!」

「一ケ瀬さん!」

「あ"───、うるさーいっ、は、はなせ、、」


……無駄な抵抗だった。

 俺の息は苦しくなって、暴れるどころではなくなった。最初の勢いはあっという間にどこかへ行ってしまい、息があがった弱々しい俺だけが残った。

 戸部田先生が走って来た頃には、ぐったりと意気消沈してしまった。


「盛大に暴れたなぁー」

 と戸部田先生は俺の顔を見ている。カッコ悪くて、俺は目を合わせられなかった。

「胸の音、聞かせてもらうよ、」

 って、胸に聴診器をあてられて肩で息をした。

「あとで体拭いて貰うといい、少しはスッキリするだろう」

「……はい、」

 おとなしく返事をするだけだ。


 俺の体には、元通りにいろんなものが付けられた。

 暴れて抜けた点滴の跡も消毒をされテープが付けられている。床に散らばった食器などもキレイに片付けられ、俺は自己嫌悪に陥っている。

「反対側の腕にしましょうね、」

 って、菊池さんがやり直してくれた。

 俺は命かげで暴れたつもりだったけど、看護師さん達からするとほんの些細な出来事に過ぎなかったようだ。


「ゆっくり眠れないしね、そりゃー暴れたくもなるよね!」

「……すみません、」

「いいんですよ! ま、良くはないけど。たまには気持ちを吐き出さなくちゃ」


……「まずはね、吐くのよ!」と栞が言っていたのを思い出した。

 大切な栞が俺の前から去って行ってしまった。責める事なんてできない、栞は一生懸命俺に尽くしてくれたのだから。

 栞はもしかしたら、ずーっと我慢してくれていたのかもしれない。俺と離れるきっかけを待っていたのかもしれない。

 だから、実家に帰って自由になれたのだろう。栞が望んでいるのだから、受け入れるしかないんだから。

 それが、俺が栞にしてあげられる最後のプレゼントのようなものかもしれない。

 諦める事を決意した俺の頬を、静かに涙が零れ落ちていく。

──栞、ありがとう。


 俺はこれ以上涙が零れ落ちないように目を瞑った。

 そしてそのまま少しだけ眠った。


 それからの俺はただ生きているだけになってしまった。

「颯真、カフェインレスのコーラ買って来たぞ! プリンもなっ」

 広輝と凪が顔を出してくれても、あまり笑う事ができなくなっていた。

「お兄ちゃん、はい!」

 って、凪がストローを入れて差し出してくれるから少しだけ口にする。

「あんまし、食べれ、ないから」

 と、プリンは断ったんだけど。

 凪は涙目になりながら俺の口元へプリンを差し出している。

……小さい頃によくお菓子の取り合いをして泣いていた頃と同じ顔をしてるから、仕方なく口に入れた。

 柔らかくて、甘くて、俺の心にまで染みてくるようだった。

「もう少し、食べれる?」

「ぉん、」

 本当に情けない兄貴で申し訳ない気持ちでいっぱいになったのだけれど。

「はいっ!」

 って涙を浮かべながら笑顔でプリンを差し出してくる凪が可愛いくて、少しずつ、少しずつ、プリンを食べる。

「ほれっ!」

 って今度は広輝がコーラを差し出してくるから、それも少しずつ飲んだ。

 しゅわしゅわとした炭酸が喉を通って胃の中に落ちていくのを感じた。


 こんなに弱々しくなってしまったけれど。

──俺はまだ生きている。

 栞、最後にもう一度会いたかったな。

 栞、俺は栞の手の温もりを忘れないから。

 この気持ちを持ったまま、最後の最後まで生きるから。


 そして俺はまた、少しずつ少しずつ弱っていった。

 窓から見えるビルの隙間の空を見つめながら、飛行機雲を見つめながら、最後の最後まで生きようとしている。

 そんな日々が数日続く中、父ちゃんと母ちゃんが病院から連絡を貰ってやってきた。

 何やら俺の周りがざわざわとしていた。

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