第51話 途切れた連絡

 カァ──カァ──カァ──。

 カラスの鳴き声が聞こえてくる。


──コン・コン・コン……。

──ピッ・ピッ・ピッ……。

(良かった、俺生きている)

 ゆっくりと目を覚ました朝、窓の外は明るくなっていた。


『おはよう』

『おはよう』

『今日はいい天気だよ』

『こっちは大雨だよぉ』

 栞とのメールはいつもと同じように送信できた。ただ、まだ呼吸は苦しい感じがして不安なままだった。



「一ケ瀬さん、気分はどう?」

 看護師の菊池さんが様子を見に来た。

「はぁ、まだちょっと、」

「血圧測るね、」

 そして食事の時間もまたあまり食べれなかった。悔しくて、何もかもぐちゃぐちゃにしてしまいたい衝動が俺を襲ってくるけれど。

 俺の体は重く、そんな事をする余力も残っていなかった。


──コン・コン・コン……。

──ピッ・ピッ・ピッ……。

 一定のリズムで聞こえてくるこの音は、俺が生きている証に聞こえていた。

 水平に横になる事も出来ずに、座ったまんまのような角度のベッドでうつらうつらとしながら過ごしている。それでも俺はちゃんと生きている。


 ビルの間に見える空はとても美しく、雲ひとつ見えない晴天が広がっている。中庭から眺められたならもっと気持ちがいいだろうに……。

 それでもこんなに綺麗な空は久しぶりに見たかもしれない。

 相変わらず賑やかであろう病院の外を大きなトラックが走って行く音が響いてくる。エンジンを吹かして走り去っていくバイク、ゴォーっと音を響かせて飛行機が飛んで行き、空を飛んで行く鳥の影が窓を一瞬だけ横切っていった。

 向かい側に見えるビルの窓が太陽の光を反射してキラキラと眩しい。


 俺は大きく肩で息をしていた。

 サイドテーブルは綺麗に整頓されている。昨日母ちゃんが片付けてくれたのだろう。

 栞のアルバムが並び、ほどけないままの知恵の輪が三つ横になっている。

 俺の腕から伸びた透明な細いチューブは上に伸びて、輸液と繋がっていた。残りわずかになっている為だろうか、新しい袋が一緒にぶら下げられている。

 何だか情けなくなって、俺はまた目を瞑った。



──カタンっ。

 小さな音がして俺は目を覚ました。

「あ、ごめん。起こしちゃった?」

母ちゃんだった。

「今何時?」

「二時過ぎだよ」

「いつもより早くない?」

「ちょっと心配でね」

 仕方ないんだろうけど、母ちゃんは少し疲れた表情をしている。きっとあまり眠れなかったのだろう。

……俺のせいで申し訳ない……。

「母ちゃんまで無理する事ないのに、」

「子供の心配くらいさせてよ」


 母ちゃんの笑顔が、栞の笑顔と少しだけ重なった気がした。


「俺、もう結構いい年だぞ」

「いくつになっても子供は子供よっ」

 って、そりゃそうなんだろうけど。

 母ちゃんが子供だと言っている俺は今年で27歳になるんだぞ。本当なら給料でたまには食事に連れて行ったりしてるだろう。

 なのに俺は入退院の繰り返しで迷惑ばかりかけている。


 栞だって本当なら幸せにしてあげたいけど、こんな俺では何の役にも立たなくて。年月ばかりが過ぎてしまっている。こんな自分が本当に情けなくて嫌になるけど諦めるわけにはいかないから何とか立っている。


「颯真、私はね、あなたが居てくれればそれでいいんだよ」

「へっ?」

「大変な病気と闘っている颯真は、母ちゃんの自慢の息子なんだから、」

「どんな自慢だよ、」

 素直には言えないけど、本当は嬉しかった。



「ね、颯真。負けないよ! 負けない、」

 って、俺の目を見て言ってくれた栞の顔が浮かんだ。あれから随分と時間が過ぎてしまったけど、俺はあの時の栞の顔を昨日の事のように思い出すのだ。


 携帯を確認してみる。

 珍しく栞からのメールは届いてなかった。実家に帰っている間はわりとマメにメールが届いていたんだけど、まぁ、忙しいんだろう。

 久しぶりに会う友達もいるだろうし、行きたい所もたくさんあるだろうし、写真を撮りに行ってるかもしれない。

 実家でのんびりと昼寝をしているかもしれない。少しだけ寂しいけど、栞がのんびりしているのならそれでいい。



「今日はそろそろ帰るね、大丈夫?」

「ぉん、大丈夫だよ、これあるし」

 俺は近くに置いてあるナースコールを母ちゃんに見せて笑った。

「そうだったね」

「ぉん、帰り気をつけてよ」

「お父さんが駅まで迎えに来てくれるから」

「そか、よろしく言っといて、」

 と、軽く右手を上げる。

 母ちゃんは少し重くなった俺の着替えを持って病室から出ていった。


 しばらくは音楽をかけて聴いていた。

 あの夜のシャボン玉の時に栞がダウンロードしてくれた音楽。これを聴いているとぱちっと弾けるシャボン玉を思い出す。とっても綺麗な夜だった。


 看護師さんの夜の巡回も終わって、静かな夜がやってくる。時々サイレンを鳴らした救急車がこの病院に来て止まった。


……少し賑やかなくらいがいいな。

 しん、と静まり返った病室は今の俺にとっては少し不安で怖くなるから。

──コン・コン・コン……。

──ピッ・ピッ・ピッ……。

 俺の生きている証拠の音が規則正しく聞こえてくる夜。俺は栞からのメールをじっと待っていた。

 何でもいいから……。

 ひと言でもいいから……。


──コン・コン・コン……。

──ピッ・ピッ・ピッ……。


 俺の充電はまだまだ満タンになりそうにないな、と体に付けられたコードを見つめながら考える。ゆっくりと体を動かして、引き出しから鏡を取り出してみる。

 鏡に映った俺の顔は最悪だった。

 鼻の下には『カニューレ』のチューブが付いてるし、髪の毛はボサボサで。耳にかけたチューブが俺の髪の毛を跳ねさせている。

 目の下にはクマが出来ていて、顔は窶れてしまっている。手入れが出来ない眉毛と無精髭が、ひどくだらしない。こんな顔は栞には見せれないな、と情けなくて笑えてきた。

 俺は鏡を元に戻して、ベッドに寄りかかった。

 ほんの少し動いただけで乱れてしまう呼吸に俺は大きく肩で息を吸った。


 栞、おやすみ……って心の中で呟いて、そっと目を閉じた。俺は負けない、生きるから!


 次の日の朝、携帯を見ても栞からのメールはなかった。

 次の日も、その次の日も、栞からのメールはなかった。

 一週間……栞からのメールはやっぱりなかった。

 実家から帰ってくるはずの日も、栞からの連絡は何もなかった。


──こんな俺ではダメなんだろうな。

 母ちゃんや凪がうるさかったけど、俺は連絡をしないで欲しいと頼み込んだ。

 もう、栞の事を自由にしてあげなくちゃ。


 俺は携帯電話を引き出しの中に入れた。


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