第50話 乱れた心
『行ってきます!』
『行ってらっしゃい! 気をつけて』
『ありがとう!』
そんなメールのやり取りをして、栞は実家のある札幌へと飛行機で帰って行った。
特に何も変わらない日々、栞から時々メールや写真が届いていた。
『ご飯食べ過ぎて太っちゃいそうだよ』
と幸せそうな言葉がたくさん送られてきた。
『たっぷり甘えておいでよ』
と俺は目を細めながら返事をしておいた。
『あのね、もしかしたら
『あのガラスの靴みたいな花?』
『そうそう!』
って、栞はとても楽しそうな時間を過ごしているようだった。
「凪、連絡しないでくれ! 頼むから」
「お兄ちゃん……」
凪がベッドの側で不安そうな顔をして俺を見ている。
「栞が帰ってくるまでは、絶対に連絡しないでくれ、頼むよ、凪も母ちゃんも、」
絶対に邪魔をしたくないんだ。
薄暗くなり始めた窓の外、さっきまで降っていた雨は止んでいた。
曇天の空が俺を見下ろしている。
俺の心臓がまた少し悲鳴をあげていた。
もしかしたら、もう限界なのかもしれない。
俺の鼻には、またあの『カニューレ』が付けられた。
──ビビッビビッ、ビビッビビッ、……
俺の心臓が危険信号を出してしまった。
──く、苦しい……
俺は必死でナースコールを押した。
「一ケ瀬さん! 大丈夫ですからねー」
バタバタと足音が集まって来るのがわかる。
……はぁ、はぁ、はぁ
「ルート取れたー?」
「はい!」
「心電図ー!」
「はい! 一ケ瀬さーん、ちょっと服捲るねー、ごめんねー」
俺の体にどんどんコードが繋がれていく。
(あぁ、もうダメかもしれない、)
「エコー持ってきてー」
「採血できたー?」
「はい! 至急出してきます!」
「ニトロ!」
「はい!」
「戸部田先生はー? 連絡ついたー?」
「はい、今から来てくださるそうです!」
「オッケー、一ケ瀬さん、胸の音聞かせてねー」
……はぁ、はぁ、はぁ、
「少しベッド起こそうか」
「はい! 一ケ瀬さん、ベッド起こしますねー、待ってねー、」
朦朧としながら、俺は聞こえてくる声にただ頷く事しかなかできなかった。
「汗すごいなぁ、苦しいねぇ、頑張れ!」
──ピッ……ピピッ……ピッ……ピッ……
──ピピッ……ピピッ……ピッ……ピッ……
「不整脈出てるなぁ」
俺は朦朧とする意識の中で必死で息を吸い、必死でもがき苦しんでいた。
(ダメだ、諦めちゃダメだ!)
栞の新しいアルバムを見るまでは。
栞との約束した花の写真を見るまでは。
栞の笑顔を見るまでは。
栞の手にもう一度触れるまでは。
栞の……栞……。
「一ケ瀬さん、頑張れ!」
「ご家族に連絡!」
「はい!」
俺の耳にはバタバタと行き交う足音が、遠くから聞こえていた。
──ピッ……ピッ……ピッ……
「お兄ちゃん! おにぃちゃん!」
「凪、颯真は大丈夫だから!」
「お兄ちゃん! おにぃちゃん!」
俺を呼ぶ叫びにも似た声がして、ゆっくりと目を開けると心配そうな母親と凪の姿があった。
「颯真、良かったー! 頑張ったね!」
「お兄ちゃん! ふぇーん」
凪の泣き声はいくつになっても変わらない。
まるで小さな子供みたいに顔をぐしゃぐしゃにして泣いている。
「凪、な、泣くな」
「栞さんに連絡しようか?」
母ちゃんは少しほっとしたような顔で俺に話かけてくる。また迷惑をかけてしまった、その気持ちで苦しくなってくる。
「連絡しないで」
「どうして? ダメだよ、そんなの!」
凪は涙目のままで俺の腕を掴んで言ってくるけれど、俺は首を横に降った。
「凪、連絡しないでくれ! 頼むから、」
俺の必死な様子に、さすがの母ちゃんも凪も納得してくれたようだ。
せっかくの長期休暇、何年ぶりかの実家で栞は楽しんでいるのだから。
俺がまた発作を起こしたなんて知ったら、飛んで帰ってくるに決まってる!
そんなのは、絶対に嫌だった。
何も知らずに帰って来て、俺と顔を合わせて笑うんだ。
栞が帰って来る頃には、このカニューレも外れて俺は今までと同じ様に栞と話をするんだ。絶対に……。
『今日は法事で大変だったよー』
『お疲れ様』
『颯真、ご飯ちゃんと食べた?』
いつもと変わらない、栞とのメールのやり取り。今日は凪に手伝って貰った。
『しっかり噛んで食べたよ! 栞は?』
『もー食べ過ぎ! みんながいろんな物をくれるから大変なの!』
『みんな栞に会えて嬉しいんだよ、』
「お兄ちゃんの嘘つき!」
って凪は不満げな顔をして、でも俺の言う通りに文字を入力してくれている。
「絶対に内緒だからな!」
「わかってるよ、」
俺は食事なんて殆ど食べれなかった。
トレーに乗せられていた食事は、一口ずつ口を付けたけれど喉を通らなかった。
ベッドも横に倒すと息が苦しくなるので、少し起こした状態で俺は体を休めている。
「明日からメールどうすんの?」
「まぁ、明日になったらメールくらいできるようになるよ!」
と俺は笑って誤魔化しておいた。
「おぃ、颯真!」
広輝だった。よほど慌てて来たのだろうか、汗だくになっている。
「広輝、心配かけて悪いな、」
「落ち着いたのか?」
「ご覧のとおりだよ、」
と体に付けられた、たくさんのコードを見せてやった。
「早く充電満タンにしろよ、」
ってあいつが言うから、おうって返事をして一緒に笑った。
広輝が居てくれて良かった、凪や母ちゃんの事を任せられる頼もしい相方だ。
広輝が凪と母ちゃんを連れて一緒に帰って行った。しん、と静まり返った病室で俺は少しだけ泣いた。
……栞……。
俺はちゃんと『命のバトン』を受け取る事ができるのだろうか。
俺はちゃんと頑張れるのだろうか。
俺はちゃんと……明日の朝、目覚めるのだろうか。
──コン・コン・コン……。
補助人工心臓のポンプの音が聞こえる。
──ピッ・ピッ・ピッ……。
俺の心臓のリズムの音が聞こえる。
栞、俺はまだ生きているよ。
そして俺は、そっと目を閉じた。
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