第46話 希望のアルバム

 柔らかい日差しが雲の隙間から真っ直ぐに降りてくる。ビルの窓に反射した光が少し眩しい。

 俺のベッドの横に置かれているテーブルには入院生活に必要な物たちが慣れた顔をして並んでいる。いつだったか広輝が持ってきてくれた『知恵の輪』は見事に俺の手によってスルリと外れ、今は三つ目が転がっている。

 暇潰しに持ってきてくれたのだが、なかなか外れなくて飽きてしまった。たまに着替えを持ってきてくれる母ちゃんがカチャカチャといじって遊んでいるが、外れないままだ。


 窓越しに都会の騒音が外から聞こえてくる。山積みの宅配物を積んだトラックが走る音、バイクが爆音でたまに走り抜ける音。

 時には騒がしいサイレンの音が通りすぎ、明け方にはカラスの鳴き声が聞こえてくる。


 波の音や潮風の香り、木々を通り抜ける優しい風が恋しくて仕方がない。そんな時には、栞の作ってくれたアルバムのページを捲る。

 波が運んできた可愛いい貝殻。栞が下を向いて撮った素足に波がいたずらをしている。遠くをゆっくりと進んで行く船。水平線に沈んでいく夕陽は濃いオレンジ色に染まり、空は淡いピンク色へ変わっていく。


 目を瞑ると寄せては返す波の音がうっすらと聞こえ、栞がファインダーを覗く姿が見えてくる。

──また、一緒に行きたいな。


 栞が景色を切り取って作ってくれるアルバムは相変わらず美しくて気に入っている。栞は俺のお見舞いと仕事が忙しくて、最近ゆっくりと写真を撮りにも行けていないようだ。何だか栞の時間を奪ってしまっているようで、申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。



「なぁ、栞?」

 母ちゃんから預かってきてくれた俺のタオルや着替えを入れ換えてくれている。いつの間にか母ちゃんと栞は仲良くなっていて、栞が来てくれる日の母ちゃんはゆっくり出来るそうだ。

「ん? なぁに?」

「あのさー、お願いがあるんだけどぉ、」

「何のおねだりですかぁ?」


 あぁ、栞だ。俺の彼女の栞の笑顔。看護師ではない栞の笑顔はあどけなくて俺は大好きなんだ。めったに言葉には出来ないんだけど。


「ぅん、おねだりです」

「ぇ──?」

「俺が元気になったらさ、栞はどこに行きたい?」

──元気になる時は来るのだろうか。


「えー、いっぱいありすぎて決めれないよ」

「じゃあ、今一番行ってみたいところは?」

「あっ! ホタル! ホタル見たいなぁ!」

「ホタルかぁ……」

「辺りが薄暗くなるとさ、ぽわぁんって光るでしょ?一万匹くらいいると綺麗だろうなぁ───」


 俺はすぐにネットで検索をしてみると、栞は瞳をキラキラと輝かせて覗きこんでくる。

 何かをふたりで考えたりするのは、久しぶりかもしれない。俺のボサボサの髪の毛と栞のさらさらの髪の毛がそっと触れる距離で、一緒に画面を覗いていた。

「あ、ここは?」

「意外と近いかもねー、ホタルもたくさんいそうだし! あ、ホタル祭って書いてあるよ!」

「あ、来週からじゃん!」

「あー、ホントだぁ」


 栞の声がワントーン上がった。嬉しそうな笑顔を見てると俺もつられて笑顔になってしまう。

「ね、栞。俺、ここの写真見たい」

「えっ? ホタル?」

「ダメ?」

「ダメじゃないけど、初めてだから上手く撮れるかなぁ」

 ちょっと不安そうに栞が携帯をチェックしている。

「お願いっ! 俺もホタル見たいっ!」

 顔の前で両手を合わせて栞を拝むようにお願いをしてみるのだ。この方法なら、だいたい成功するはずだ。

「じゃあ、次の休みに行ってみるね!」

「ありがとう! 楽しみだなぁ」



──俺の事だけじゃなくて、好きな事をする時間を過ごして欲しかった。



 栞がホタル祭に行った日の夕方、俺は食事を急いで食べた。もちろん、しっかり噛んで食べる事を忘れてはいない。でもいつもよりも早く食べ終えて、食器を自分でカートに直した。

 携帯を持ち車椅子に乗って、自分の力でハンドリムを回して病室と反対方向を向いて進んで行く。

(バレたら、菊池さん怒るだろうな……)


 少しドキドキしながらエレベーターに乗り、中庭へと向かった。

 辺りが薄暗くなり、風が空から吹いてきて中庭を通りすぎて行った。とても気持ちがいい夕暮れだった。

 俺は屋根があるスペースまで移動する。ベンチもあるし、柱があって隠れられる。そこで暫くボンヤリと空を眺めていた。すると、携帯が震えた。

  栞からのテレビ電話だった。


「やっほー」

「やっほー」

 ご機嫌な栞の声に俺の表情も緩む。

「何か緊張するね、テレビ電話」

「まぁな、」

「ね、菊池さんは?」

「多分、まだ気づいてないと思う」

「バレたら知らないから! 患者さんがいないって、すっごく大変なんだよ?」

「はい、わかってます。後でちゃんと謝るよ!」

「ふふっ、颯真寝癖ついてるよ」

 と、栞が笑って。俺は慌てて髪の毛を直す。

 こんな何気ない会話がとてつもなく愛おしいくてたまらないのだ。


「あっ!!」

「ん?」

「ホタル! ホタル! 光った!」

「見せて!」

「カメラ切り替えるねー」

「うん!」


 栞が携帯のカメラをホタルがいる方へ向けて、ボリュームをあげてくれた。

 川が流れる音が微かに聞こえてくる。小さな子ども達が喜んでいる声が、風の音が、携帯の画面越しに俺の耳へと届くのだ。


 小さくて、黄色くて、淡い光がぽわぁんっと光っては消えていく。その光はとても優しくて、少し切なくて、なんとも言えない光景だった。

「ねぇ、颯真、見て」

 画面に栞の手を映した。その手にはホタルが一匹乗っていて、お尻の部分がゆっくりと黄色く光っては消える。何度も何度もぽわぁんっと光って消えた。

「あっ!」

 ホタルは淡い光を放ったまま、栞の手から飛んで行ってしまった。


「行っちゃったね」

 俺は小さな声で呟くと、

「飛んでっちゃった、」

 と栞が残念そうに呟いた。


 そのまま暫くは栞が携帯で映してくれているホタル祭の景色を見ながら、ゆっくりと会話をした。

「栞、ありがとう!」

「なぁに、急に?」

「栞が居てくれるから、俺もホタルが見れた」

「こちらこそだよ、」

 栞がぽつりと言って、暫くふたりで同じ景色を眺めていた。ちょっと鼻を啜るような音が聞こえたけれど、俺は聞こえないふりをしてホタル祭を楽しんだ。



「あっ! もう一ケ瀬さん! 探したよ──」

 少し息を切らした菊池さんの声が、俺の後ろから聞こえてきたのだ。

「あっ! 栞、見つかった!」

「あらら」


 菊池さんには、しっかりと注意をされた。

 栞も電話で謝ってくれて、何とか許して貰った。


「心配したんだからね、次から言って下さいね」

「はい、すみません」

「で、ホタル祭は楽しかった?」

「はい、楽しかったです!」


 菊池さんは俺の車椅子を押しながら、少しだけ微笑んでいるような気がした。

……何となくだけど。

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