第45話 不安と期待の狭間

『俺は生きるんだ』という決心は、時として大きく崩れ落ちてしまう事もあった。


──コン・コン・コン……

 俺の心臓のポンプの役目を果たしてくれている補助人工心臓の音が、朧月夜の病室で静かに時を刻む。


 入院中の記憶のページが時々甦ってくる。

 なかなか退院出来なくて、苦しくて仕方なかった。

 自分の状態を受け入れる事が出来ずに、イライラして食事をひっくり返した事もあった。そんな時も栞は何も言わずに笑顔で片付けてくれた。検査は受けたけれど、結果は聞きたくないと拒否をした。


 俺は弱すぎてどうしようもなかった。自分で自分が嫌にもなった。そんな俺の傍には、何も言わずに栞がいてくれた。栞がいてくれなかったら、俺はどうなっていたのだろうか。


 何度か止まった俺の心臓は電気ショックで助けられた。意識はなく記憶もないはずなのに、体がそれを思い出してしまうのだろう。

痛い、苦しい、怖い……そんなマイナスの思考の中にぐるぐると迷い混んで抜け出せなくなる。


「うーん、そういう時はちょっとだけ何かしてみるといいんじゃない?」

「ちょっとだけ?」

「そ、お水飲むとか。温かいものを少し飲むとか?」


 栞には何でも話せるようになってきて、ラインや電話で話をしたりアドバイスを貰ったりしている。


「深呼吸もいいかもね!」

「深呼吸かぁ、それなら簡単だ、」

「まずはね、吐くのよ!」

「えっ、吸うんじゃないの?」

 だって深呼吸って言うと、『吸ってー、吐いてー』って今までやってきたから。

「私も本郷先生に教わったの。深呼吸って、しっかり吐いてからじゃないと新しい空気をたくさん吸えないぞー! って、」


 確かにレントゲンを撮る時の声に合わせると、吸うのが苦しい時がある。

「何でもそうなんだって! 新しいものを取り入れるには、古いものを捨てないとダメだよって。自分が持てる量よりもたくさん持とうとする必要はないんだよって、本郷先生によく言われてたなぁ」


 栞は出会った頃よりも、凛とした雰囲気に変わったような気がする。救命救急での経験や認定看護師の資格が、栞を強くしたのだろう。栞はちゃんと前に進んでいて、俺は置いてきぼりをくったような気分にもなった。


 そんな俺の気持ちも栞はお見通しだった。

「あー、その顔は良くないなぁー」

 って、俺の顔を覗き込んでくる。ちょっぴりうざくて、ちょっぴり嬉しかった。栞の前では、俺はそのままの姿でいれたから。


「なぁー、髪の毛ベトベトだわぁー。自分でも臭いんだよー」

 こんな事を栞にも言えるようになった。

「わかった!」

 栞はお湯を入れた洗面器にタオルを入れた。

 少し熱そうだけど、タオルを軽めに絞って俺の髪の毛を濡らしながら拭いてくれた。

「ホントに気休めだけどさ、何回かやるとスッキリするよ!」


 結局、俺の髪の毛はびちょびちょに濡れて、パジャマも濡れてしまって着替えなくてはならなかったし。

「あー、パジャマの着替えないかも!」

 と、栞が慌てている。

「また、母ちゃんに頼んでおくよ、」

「あ、これあるじゃん!」

「え───」


 凪と広輝が新婚旅行のお土産に買ってきたTシャツを見つけて俺に着せた。

「もー、沖縄の土産だろ? なんで?」

 俺は非常に不機嫌な顔をする。

「可愛いよ」

 栞が笑っていて、少し嬉しくなる。

「嘘ばっかし! 栞、笑ってるし!」


『京都』と胸のところに大きく書かれている。だいたい沖縄らしいプリントならまだしも、黒い『京都』という文字が書かれたTシャツを売っている沖縄の土産店もおかしいんだよ。それを買って来たアイツらのセンスを疑うしかないんだけど。


 ただ、髪の毛はびちょびちょになったけど乾かすと少しサラサラになった。

「中庭にお散歩行こ!」

 と車椅子で無理やり連れ出される。

 優しい風が吹いていた。栞の髪の毛も随分伸びてきて、風が吹くと少し甘い香りがした。

 大好きな栞の匂い。触れたい、キスも……したい。


──もう一度、ぎゅっと抱き締めたい。


 栞が不意に振り返った。風で乱れた俺の前髪を少し直してくれる。

 優しい、優しい栞の笑顔。

 俺は思わず栞の手を取って握った。可愛いくて愛おしい手。そして、俺は栞の手にそっとキスをした。

 俺は車椅子に座ったまま栞の顔を見上げる。いつも栞はこうやって、俺を守ってくれている。人をこんな風に愛おしいと思うなんて思ってもみなかった。

 そしてまた風が吹いて、俺と栞の髪の毛を乱していく。

 その時、栞がゆっくりと顔を近づけてきた。

 俺は思わず栞の頭に手を回して、キスをした。風の香りがするキスだった。

 久しぶりのキスは夕陽の光にうまく隠れていたかなぁ。


 そして、今日もまた太陽は昇ってくる。

「あぁ、生きている、」

 最近の俺は毎朝、そう思う。


──コン・コン・コン・コン……

 補助人工心臓のポンプの音を聞くと不安でもあり、安心もする。

 矛盾だらけの感情。

『生きたい』『怖い』

『移植をしたい』『移植はしたくない』


──コン・コン・コン……

 ドナーが現れるまで、耐えて欲しい。

 ドナーが現れるという事は、誰かが悲しい想いをしている。その悲しみを、その願いの重さを背負って生きていけるのだろうか。

 それは、どんな人生なんだろうか。



 この頃の俺は『不安』と『期待』の狭間を行ったり来たりしていた。

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