第43話 病める時も、健やかなる時も。─栞side
「栞、別れよう」
颯真の口から零れた言葉は私の胸の奥の深い所に突き刺さった。さっきまで止んでいた雨がまた降り始めて窓を濡らしていく。空を飛ぶ飛行機の音だけが聞こえて、しばらく言葉を失ってしまった。
──私が一番恐れていた言葉だった。
私は毎日のように、命と向き合う患者さんと接している。元気に元の生活に戻っていく患者さんを見送ると、とても勇気を貰えた。
痛みに耐えて苦痛に歪んだ顔をしていた患者さんが少しずつ笑顔を取り戻すのを見ていると、とても元気を貰えた。苦しんで悩んでいる患者さんの涙を見ると、人の心の深さを教えて貰えた。
助けてあげられなかった命の重さもたくさんたくさん経験している。
そうやって、毎日毎日、私は患者さんからも色々な事を教えて貰ってきた。
颯真もそのひとりだ。
──みんな頑張っている。
だから。
颯真の気持ちは理解しているつもりだった。
弱っていく自分を見られたくない、とか。
迷惑をかけるのが嫌だから、とか。
そんな事を考えて悩んでいるであろう事も想像はついていた。時々ぼんやりと不安そうな表情で天井を見ている姿を見かけて声を掛けるのを辞めた事もある。颯真はとても心が優しい人だから、私の事を考えて長い間悩んできたのだろう。
私は普段の会話で、患者さんには使わない言葉があった。
──『頑張りましょう』
本当に命が消えてしまいそうな時は、『頑張って!』と届くように声をかけた。
人の聴力は一番最後まで残っているというから、必死で声をかけ続ける。
それ以外は、出来るだけ使わないようにしていた。患者さんも、それに付き添うご家族だって、皆が頑張って病気と闘っているのだから。落ち込んだり、自信がなくなったりするのも頑張っている証拠だと思っている。
だから、颯真にはそのまま飾らない言葉を送り続けてきた。
──「颯真、生きるのよ!」
何もできなくっても良かった。
『約束』だって、守れなくっても良かった。
ただただ颯真には生きていて欲しい、それだけだった。辛い闘病生活の中でもほんの少しでも笑顔の時間があって、その笑顔が少しでも増えればそれで良かった。
なのに、やっぱり颯真の口から零れ落ちた言葉は私には想像以上に重くて痛かった。
「俺なら、待つかなぁ、」
颯真の事を本郷先生や先輩の神田さんに相談していた。缶珈琲をいつものようにグビッと一口飲んで、本郷先生はポツリと言った。
今日も患者さんが多く運ばれてきて、バタバタとした一日の終わりを屋上で過ごしていた。本郷先生は、出会った頃よりも少し白髪が増えてきたようだ。東の空が白み始め、本郷先生の髪の毛を照らすと少しきらりと光っている。
「待つ……ですか、」
「もしも自分だったらさ、やっぱり怖いだろ。自分の心臓には補助人工心臓がついてるんだそ? ましてや移植しないといけないとなると、そりゃー色々考えるだろうよ。相手が大切な人ほど、考えるよなぁ」
「私は、何か言葉を間違えたのでしょうか?」
少しずつ明るくなる空を見上げて、本郷先生は深呼吸をした。
「それは……わからん」
──「生きるのよ!」
私の言葉はやっぱり間違えていたのだろうか。もっと他の言葉を選ぶべきだったのだろうか。私は自分の手を見つめていた。
最後に颯真に触れたのは、一体いつだろうか。颯真の細くなってしまった腕や伸びた前髪に触れたい、やっぱり傍にいたい。
「でも、中川らしくて俺はいいと思う」
「えっ?」
「当り障りのない言葉で誤魔化すよりも、生きろ! と言われるのも悪くはないかな。だけど、一ケ瀬君には時間が必要なんじゃないか」
「時間、ですか?」
「そ、気持ちの整理というか、移植を待つ覚悟みたいなものって簡単ではないだろ」
「なるほど、……時間かぁ」
「この空だって、一ケ瀬君から見たら違う表情に見えてるかもしれないしな」
白み始めていた空は少しずつ黄色く輝き始める。
──私はやっぱり、颯真が好き。
「本郷先生! ありがとうございます! 私、次の休みに颯真に会って来ます!」
「おうっ、一ケ瀬君が喜びそうな景色を持っていってやれ」
そう言って、本郷先生は笑ってくれた。
そして、颯真の病院へやってきた。何だか賑やかな声が聞こえる中庭を見ながら歩いて行くと、車椅子に乗った颯真の姿を見つけた。
子供達がシャボン玉で遊んでいる、まるであの夜のシャボン玉を思い出しているかのような颯真の微笑んだ顔。久しぶりに見る颯真は何だか懐かしくて、涙が零れそうになる。
そして、看護師さんが颯真の車椅子の向きを変えた。私はいつもの笑顔で颯真を見つめた。
「こんにちわ!」
「こんにちわ!」
私は看護師の菊池さんと挨拶を交わした。颯真は何とも言えない表情で少しうつ向いてしまった。
「菊池さん、もう少しだけここにいても?」
「あ、はい、一ケ瀬さん大丈夫?」
コクりと颯真が頷いたので、私が部屋まで連れて行くことにしてもらった。
「久しぶりだね、颯真」
「ぉん、ごめん」
「私の方こそ、ごめんなさい」
「何で?」
やっと颯真が私の顔を見てくれた。そう、私はこの瞳が大好きなんだ。日差しに照らされた颯真の茶色い瞳、少し乱れた前髪。
「私、全然解ってなかった。颯真の気持ち、考えてあげれていなかった。だから、ごめんなさい」
「栞が謝る事じゃないだろ」
中庭を優しい風が吹き抜けて、シャボン玉がふわりと舞った。私と颯真の間で、ぱちんっと弾けて消えた。
「はい、これ! ポートレートはあんまり撮らないから自信ないけど……この前お願いして撮ってきた!」
颯真の家の前で皆に並んで貰った。
お父さんとお母さんと凪ちゃん、広輝くんが笑っている写真だ。
「えっ、」
「素敵なご家族よね、私大好きなの! この時もね、晩御飯ご馳走になっちゃった!」
颯真の目が少し赤くなった。
私も泣きそうになるのを必死で我慢した。
「あのね、やっぱり私は颯真に生きて欲しいの。私はね、そのままの颯真が大好きなんだ。だからね、病気でも元気でも私の気持ちは変わらないんだ。ずっと、」
颯真は何も言わなかった。その代わりに瞳からぽろぽろと光る言葉が零れ落ちた。
たくさん、たくさん零れ落ちた。
「なんかさ、病める時も、健やかなる時も……ってあんじゃん? あれみたいだね」
涙声の颯真が少し微笑んでいる。
「あ、神父さんのやつね、ホントだね」
颯真はそっと私の手をとって、私の指に優しくキスをした。
颯真の瞳から零れ落ちた涙が、私の手の甲にぽとんと落ちる。
「栞、俺は弱いから見守ってて、」
「うん」
私の鞄と颯真の車椅子についている『アイオライト』が同時にきらりと光った。
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