第42話 心の距離
栞からのラインは遠慮がちに時々届いていた。俺は何も返信する事が出来ないまま時間だけが過ぎている。
栞の気持ちは痛いほどわかっているつもりだった。
看護師としても、一人の人間としても、彼女としても、最高なんだ。
だからこそ、俺は栞の荷物にはなりたくなかった。本郷先生のような医師と一緒にドクターヘリに乗って、人の命を助ける事だって出来ると信じている。そんな栞の人生を俺はこれ以上邪魔するわけにはいかないんだ!
そうやって、自分に言い聞かせる日々が続いている。
「お兄ちゃん!」
「よっ!」
凪と広輝がふたりで揃ってやってきた。
「おうっ!」
俺は聴いていた音楽を止めて、イヤフォンをはずす。凪は小さな箱をテーブルに置いた。
「プリン、美味しいから食べようよー! 広輝が買ってくれたんだよ!」
何だかニヨニヨとしながら、ふたりで目線を合わせている。まったく、病気の兄貴の前でイチャイチャするんじゃねーぞと少し思ったけど。
スプーンを受け取って、みんなでプリンを食べた。
「うまっ! なにこれ! とろっとろ!」
「でしょ? 美味しいからお兄ちゃんにも食べてほしくってさ」
凪が小さい頃の事をふと思い出した。
父ちゃんがお土産にケーキを買って来てくれた時の事だった。箱を開けて、お皿やフォークを出してテーブルに戻ると凪が指ですべてのケーキやプリンを少しずつ食べていた。
「あー、凪ー!!!」
「だって、なぎぃ、ぜーんぶ食べてみたかったんだもん!」
俺は凪の指の跡が残ったケーキを食べたっけな。
「あのさ、颯真、」
「ぉん?」
「ちょっと話があんだけど、」
「ん?」
珍しく広輝が真面目な顔をしている。こんなに固い表情は初めて見たかもしれない。
「あのー、さ、」
「ぁんだよ?」
「俺、凪と結婚してもいいかな?」
「っ、ぶっふぉっ!」
俺は最後の一口だったプリンを口から吹き出してしまった。
「ちょっとー、お兄ちゃん、大丈夫?」
「あー、びっくりするような事を言うからだろぉ?」
「いや、真面目な話だよ」
「凪は社会人になったばっかりだろ?」
「お兄ちゃん、私は仕事は続けるよ?」
「それに、まずは父ちゃんだろ?」
「いや、一度練習しときたくてさ、」
どうやら広輝は本気らしい。
反対する理由なんて俺にはないし。
「俺を練習に使うなよー、もう、プリンがもったいないわ」
「にゃははは!」
と凪は笑って、広輝は髪の毛をかきあげながら肩で息をした。
「良かったな、凪!」
「うんっ!」
「広輝、俺はこんなだから。凪や父ちゃんや母ちゃんの事、頼んだぞ」
俺の後ろからピョコピョコとついてきていた凪は、もう大人になったんだな。
当たり前の事だけど、少しだけ寂しい気もする。俺は『命のタイマー』を着けて、いつ現れるのかわからないドナーを待っているのだから。
広輝が居てくれたら、俺は、まぁ、安心だから。
ふたりが帰った後の病室はとても静かになった。ビルの隙間から夕陽がゆっくりと沈んでいく。ゴォーっと鳴り止んだ後の空には、飛行機雲がちぎれながら残っていた。ビルに囲まれたこの病院の景色は何となく冷たくて、デコボコとした隙間から見える空を探して眺めていた。
「一ケ瀬さん、夕食ですよー!」
「はい、」
「これ、お箸ね、置いときますねー」
菊池さんが去った後、俺はゆっくりと箸を手にとった。……やっぱり食べなきゃな。
──ピコン。
ラインが届いた。栞からだった。
『何度もごめんなさい。しっかりご飯を噛んで食べてね! 颯真、生きるのよ!』
箸を握る手が、小さく震える。いつも栞が言ってた言葉だった。
『生きる事は食べる事! しっかり噛んで食べてね!』
あの時の栞の笑顔が浮かんで消えた。
その日の夕食は涙の味がして、いつもよりもしょっぱかった。それでも俺はしっかり噛んで食事をした。しっかり噛んで食べて生きる……やっぱり俺はまだ、死にたくはなかった。
ただ誰かが亡くなるのを待っていると思うと、やっぱり心がちぎれそうになる。その人にだって家族や大切な人がいるんだし。
ドナーが現れるとは思えないけど、全てを受け入れるのにも時間がかかりそうだ。
毎日毎日、自問自答を繰り返しながら、時間だけが過ぎていった。
中庭では俺と同じように入院している人達が外気浴をするために集まっていた。
俺も車椅子に座って木陰で少しのんびりと風にあたる。伸びた前髪が風に吹かれて少し邪魔だった。
看護師に腕を支えて貰いながら歩く女性がゆっくりとベンチに腰をかける。脚にギプスを巻いて車椅子を押されながら楽しそうに会話をしている男性。目深に帽子を被って項垂れたままのおばぁちゃん。
俺と同じ機械をつけている子供を見つけて、思わず目を反らした。
ここには病気に選ばれてしまった人が集まっていた。俺はその中の小さな1人に過ぎなかった。みんながそれぞれの病気と闘っている、とても苦しい場所だ。
中庭にある花壇の近くで、小児病棟の子供達が集まって遊んでいた。少し元気な子供達がシャボン玉を作って遊んでいた。きゃっきゃっと笑う声が風に乗ってふわりと飛んで、青空の下で弾けた。
あの夜のシャボン玉のように、虹色に輝いて風にのってふわりと舞う。
小さなシャボン玉は、すぐにぱちんっと弾けて消えた。
「あーぁ、すぐ消えちゃったぁー」
残念そうに言って、またシャボン玉を作った。
風花救命救急センターから車で二時間程度の距離は、俺にはとても遠すぎた。補助人工心臓をつける手術は無事に終わって体調も安定している。後は、いつ現れるのかわからないドナーをじーっと待つのだ。俺達の羅針盤は、何故こんな所へ導いたのだろう?
「一ケ瀬さん、そろそろお部屋に戻りましょうか!」
「あ、はい、」
看護師の菊池さんがくるりと俺の車椅子の向きを変えると、視線の先に大切な笑顔が見えた。
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