第41話 命のタイマー
「一ケ瀬さん、おはようございます!」
「おはようございます」
看護師の菊池さんが朝の巡回にやってきた。
「今日はお天気がいいですねー」
体温や血圧を計り、記録していく。俺のベッドは窓際にあり、外の景色が良く見える場所だ。
でこぼことした高い建物に囲まれた景色の中をカラスや鳩が横切っていく。大きなビルには会社の名前が書いてあり、小さな人が忙しなく出入りをする。ガラス張りの建物は太陽の光を反射し、音をたてながら飛行機が飛んでいく。夜になっても明るい街に月の光は存在を隠されてしまう。
晴れていても、何となく薰って見える空にはつまらなそうな顔をした雲が浮かんでいる。
いや、つまらなそうな顔をしているのは間違いなく、今の俺だろう。
風花救命救急センターから二時間程かけて、俺はこの病院へ運ばれてきた。北村先生と栞が付き添ってくれて、何事もなく到着した。
「颯真、生きるのよ!」
帰り際に栞が何の躊躇いもなく笑顔で俺に言った。
「一ケ瀬君、元気になったら顔見せに来てくれよ? 本郷先生も待ってるから、」
「はい、」
その後、俺の体調が落ち着いた頃手術を行って、俺の胸には補助人工心臓が付けられた。
俺の心臓の変わりになってくれるポンプは大事な俺の体の一部となった。補助人工心臓が正確に動いてくれるおかげで、俺の体調は少し改善されている。
時々、中庭に連れて行って貰って外の空気を吸い込むと気持ちが良かった。
「颯真、ヤッホー!」
と、栞は休みの日には時間をかけて会いに来てくれる。可愛い服を着て、俺の前でくるりと回って嬉しそうにポーズを決めた。この前まで長く伸びていた髪が短くなっていた。
「髪、切ったんだね?」
「変?」
「可愛いよ!」
栞の頬が少しピンクになって、にっこりと微笑んでくれる。本当に可愛いんだ。
「ヘアードネーションしたの!」
「ん? 何それ?」
「髪の毛を切って、寄付するんだよ!」
「髪の毛を寄付して、何に使うの?」
「闘病してる人の為だよ、医療用のウィッグが作れるの!」
栞が嬉しそうに笑った。そう、栞のこういう所が俺は大好きなんだ!
大きな木を見れば抱きついて目を閉じるし、可愛い花を見つけると微笑みながらファインダーを覗いてシャッターを押している。風が吹けば両手を広げて体全体で風を浴びる。髪の毛が乱れる事なんて気にしないし、ネコの写真を撮る時は、服のまんま地面に寝転んでシャッターを押している。
「カメラ持ってる?」
「あるよ、」
栞からカメラを借りて、俺は栞の写真を撮った。ベッドに横たわった俺から見える栞は、恥ずかしそうに首を竦めてピースサインをしてくれた。
ここに来てから、栞とはあまり病気の話をしなくなった。手術の報告などはラインでやり取りをしたけれど、お見舞いに来てくれる栞は看護師ではなく『俺の彼女』でいてくれる。家から遠くなってしまったから、母ちゃんには毎日来なくていいとお願いをした。
「はいっ、これ、お土産だよ!」
いつもの栞が切り取った景色を集めたアルバムはどんどん増えていった。
「凪ちゃんと広輝君も、来月は一瞬に来るって言ってたよ!」
「そっか」
いつもと変わらない栞の横顔は、髪の毛が短くなったせいか少し若く見えた。窓から差し込む日差しに照らされていてとても綺麗だった。
「栞、別れよう」
ずーっと考えて言えなかった言葉がぽろりと口から零れた。認定看護師の資格もとって、栞は俺の為に頑張ってくれた。それだけで十分な気がしている。
──俺は、もう幸せにはしてあげれない。
「はぁっ? 何よ、突然」
「突然かなぁ」
「突然かなぁ、じゃないでしょ! 何?」
「別れよう、今の俺には栞は重すぎて無理なんだよ、」
ゴォーっと音を立てて、飛行機が飛んで行った。雨が降って、小さな雨粒が窓を濡らしていく。しん、と冷たい空気がふたりの間を通り抜けた気がした。
「嫌よ! 嫌! 何で?」
「だから、今の俺には重すぎるんだよ」
「約束したじゃない、濡れた山苛葉(サンカヨウ)の花をいつか一緒に見ようね、って! まだ見てないよ?重いって何? 約束? 約束は守れなくてもいいよ、颯真がいてくれればそれでいい! ね、何言ってんの?」
「山苛葉の花を見に行く約束は守れそうにないよ、」
「約束はあるだけでいいんだよ? ね、嫌だよ? 私は……」
「……俺が無理なんだよ、許してくれよ。俺にはこいつがいるから、」
俺は、胸に付けられた補助人工心臓にそっと手を当てる。
俺が補助人工心臓を付ける手術を受けた後、臓器移植ネットワークに登録をされた。最近の補助人工心臓はとても小さくて機能も優れているらしい。このまま普通の生活に近い状態にまで戻れるかもしれない。
でも、普通とは違うんだ。
俺は栞の事が大好きなんだ、本当に心から。
だからこそ、こんな俺が栞を幸せにしてあげられないのがとても辛くてたまらない。結婚だってしたいだろうし、子供だって欲しいだろうし。俺はこんな体で何にもしてあげれやしないし、栞の幸せを考えるならば俺と一緒にいてはいけないんだ。
「嫌だからね、病気の事を気にして別れるなんて嫌だからね!」
「わかってくれよ、栞」
沈黙という冷たい空気が、俺と栞の間に見えない壁を作った。手を伸ばせばすぐに届くのに、とてつもなく遠く感じる。
「また来るから、」
そう言い残して、栞は帰っていった。
「気をつけて……」
俺の言葉は遅すぎて、栞には届かなかった。
栞が残して行ったアルバムをパラパラと捲ってみる。美しい景色がいくつも切り取られている。そして最後のページには、写真と一緒にメッセージが書かれていた。
俺は布団の中に顔を埋めて、声を殺して泣いた。
──『颯真、愛してる』
いつか雨上がりの日に一緒に写真を撮りに行こうね! 雨に濡れていない白い山苛葉の花の写真が添えられていた。
俺の『命のタイマー』はいつまで持つのだろうか。
普通の生活を送れるようになるのだろうか。
ドナーは現れるのだろうか。
それとも、俺はこのまま消えていくのだろうか。
──栞、ごめんなさい。
心の中で謝りながら、俺は泣いた。
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