第38話 夜のシャボン玉

「おはようございます!」

 いつもの明るい栞の声が聞こえてきた。俺のベッドはカーテンで仕切られていて、今は外の景色を見る事が出来ない。白い病室の天井の模様を見つめて時が過ぎるのを待っているだけだ。


 栞とふたりでたくさん泣いた。果たせていない約束がいくつもいくつも頭に浮かんでは消えていく。俺はまだ、栞に何もしてあげれていない。鞄にいつもつけているアイオライトのキーホルダーは、いつも美しく輝いてくれているのに。羅針盤が示す方角を見失ってしまった。


「おはようございます、気分はいかがですか?」

 そこには、いつものキラキラとした笑顔の栞があった。

「おはようございます、まぁまぁかな、」

 溢れて止まらなかった栞の涙を思い出して辛くなる、俺は弱くて情けない。

「はい、体温計ってください!」

「ほい、」

 血圧、食事の量も確認される。最近食欲も落ちている。息切れもしやすくて、トイレに行くのも一苦労だ。鼻の下に付けられた『カニューレ』の管が不快だが、これがないと息が苦しいので我慢をしている。


「颯真、少しずつでもいいからご飯食べてね! しっかり噛んで食べるのは、とっても大事な事なんだからね!」

 栞は笑顔で俺の目を見ながら声をかけてくれるのが、今は少し苦しい。

……わかっているんだ、栞の気持ちはよくわかっているんだ。

「わかった、」

「後で体拭こうね!」

「自分でやれるよ、」

「そう? じゃぁ、後で用意して持ってくるね!」

 栞がそっとカーテンを閉めて出ていくと、俺は何だかホッとした。弱っている姿をあまり見せたくない、特に栞には。そんな風だから気持ちは前向きにはなれなくて、また天井の模様を見つめながら目を閉じた。


 母ちゃんが持ってきてくれた栞のお手製のアルバムはサイドテーブルに置かれたままだった。今までの入院生活で何度も捲ったページ、美しい花が風に揺れて今にも動き出しそうな景色が詰め込まれている。ふたりで一緒に行って切り取った景色も、今は見るのが辛くてたまらなかった。


 いつものように俺の体に付けられたままの心電図のコードがパジャマの隙間から伸びている。腕には点滴の針が刺さったまんまだし、鼻のカニューレは酷く不快で、耳にかけられたチューブは邪魔で仕方ない。

 カーテンで区切られた俺のスペースから見える白い天井はとても小さくて、より一層孤独を感じさせる。


 栞が蒸しタオルを何枚か持ってきてくれたけれど、顔をさっと撫でるように拭いて終わらせた。

―――何だかどうでもいいや。

 運ばれてくる(減塩食)のプレートが添えられた食事も、あまり手をつけつけなかった。美味しくもないし、無理に頑張って食べたところで俺の体はすぐには回復してくれないし。


 母ちゃんも毎日のように車でお見舞いに来てくれる、迷惑しかかけれない息子で申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

 

 いつもの検査も今までよりも念入りに行われた。再びあの恐ろしいカテーテルを手首から入れられて、本郷先生と会話をしながらの検査も行った。血管の中を細い管が通って俺の心臓の中に入っていていく様子を見ながら、本郷先生は手元を動かしていく。それはそれは恐ろしい検査も、俺はただじっと横になっているしかなかった。


 週末になると、凪と広輝がふたりで顔を出してくれる。俺がそれぞれにプレゼントしたソーダライトとモルガナイトのストラップは今もふたりに寄り添って揺れていた。

「ほいっ、」

 広輝は、いつものカフェインレスのコーラを差し出してくれる。凪も一緒に三人でコーラを飲んだ。

「お兄ちゃん、あんまし食べてないってお母さん心配してるよ?」

「ぉん、」

 母ちゃんが用意して持たせてくれたタッパーを開けて、うさぎのりんごを差し出してくる。仕方ないので、ひとつだけ小さなりんごを手にした。甘酸っぱくて、噛むとシャクッと音がする。

 凪は相変わらずうさぎのりんごをひとつ口に入れて、片手にもうひとつ握っている。小さい頃のまんまだ。取らないからゆっくり食べればいいのに、必ず次の分を手にした。

 広輝は昔から変わらない。俺が入院してもいつもと変わらない会話をしてくれる。退院すれば、嬉しそうに家にやってくる。

 今だってそうだ。俺の家に遊びに来たかのようにベッドの端っこに座っている。

「あっ、そうだ、これやってみ!」

 鞄から何やらカチャカチャと音をさせて取り出した。

「何それ?」

 凪も食いぎみに覗き込んでくる。

 カギのような形をした『知恵の輪』だった。

「知恵の輪、」

「そ、けっこー難しいんだよ? それはレベル3!」

「お兄ちゃん、無理なんじゃない?」

「んなこたぁーないわっ!」

「俺は、あ"――ってぐちゃぐちゃしてたら外れたけどな」

「知恵関係ないじゃん!」

 いつものようなくだらない会話をして、ふたりは何処かへ出掛けて行った。デートだそうだ。俺は栞とデートができるのはいつになるんだろう……。


 その日の夜、私服の栞がやってきた。綺麗なモスグリーンのワンピースを着て、カメラを持ってきている。写真でも撮るのだろうか。

「今日は休みなの。」

「そっか」

「久しぶりにデートしよ!」

「えっ?」

 し―――っと人差し指を口に当てる。俺は車椅子に乗って栞に押されながら移動をした。

 連れて来られたのは病院の屋上だった。

「あぁー、気持ちいい! ねっ、颯真?」

 薄暗い屋上には病院の看板を照らしているライトの灯りがついている。屋上に吹く風は確かに心地が良かった。

「じゃぁ、お願いします!」

 栞の声を合図に凪と広輝と母ちゃんや父ちゃんが何やら始めた。

 栞は携帯で音楽をかけて俺の膝の上に置いた。


 すると、シャボン玉が飛び始めた。小さいものや、大きなものが次々と飛んできた。

 父ちゃんと広輝はマシンガンのような形をしたものでシャボン玉をたくさんたくさん作って飛ばした。母ちゃんも凪も、小さな水鉄砲のようなものでシャボン玉を飛ばしている。

 病院の看板を照らしている灯りがシャボン玉をキラキラと輝かせてくれる。栞はいくつか穴の開いた長いスティックを振ってシャボン玉を作って飛ばした。

「はい、颯真もこれやって!」

 栞と同じ長いスティックのシャボン玉。

 俺はそれを手にもって振って見た。シャボン玉はふわりと飛んで、ぱちっと弾ける。

「ぅわー、綺麗! 凄い!」

「まじ、すげ―――!!」

 みんなの楽しそうな声。珍しくはしゃぐ父ちゃんや母ちゃん。栞の笑い声。

 病院の屋上にはたくさんのシャボン玉ができては弾けて消えていく。優しい風が吹いてシャボン玉はふわふわと空に舞った。


 俺の膝からは優しい音楽が聞こえて、ぱちっと弾けるシャボン玉はより一層美しく輝いて見える。

――これを準備してくれてたのか……。

 栞は嬉しそうに笑ってファインダーを覗いている。

 カシャッ……カシャッ。時折聴こえてくるシャッターの音。

 俺は溢れそうな涙をぐっとこらえて空を見上げる。


 三日月が綺麗な夜空に、星と一緒にきらきらとシャボン玉は舞って弾けた。

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