第37話 止まらない涙―栞Side
私の頬を伝って落ちる涙を颯真の優しい指先が拭ってくれる。止まらない涙はいくつもいくつも私の頬を落ちて、いくつもいくつも颯真の指先を伝っていった。颯真の瞳からも涙が零れては落ちていく。それでも、颯真は私の頬を落ちる涙を拭ってくれている。
颯真の心臓がまた止まってしまった。何とか戻って来てくれるように、必死で必死で願った。最近は発作が頻発していて、検査をする度に少しずつ颯真の心臓は肥大が進んでいる。私はとても怖くなって、手が震えた。
『全力疾走しちゃったんだよねー』
戻ってきた颯真が、天井を見上げながらポツリと呟いた時、私の心の緊張の糸がプツリと途切れてしまった。
不安な顔は見せなたくないし、見せちゃダメだ!と心に決めて頑張ってきたけれど。
(何よりも辛いのは颯真なんだ……)
夢の中でしか全力疾走ができないくらいに、色々な事を我慢し続けてきたんだと思い知らされた。
たくさんの季節をふたりで過ごしてきた。颯真は何度も入退院を繰り返しながら、ここまでやってきた。
「中川、大丈夫か?」
颯真が落ち着いたので休憩室で温かいスープを飲んでいると、本郷先生が声をかけてくれる。
「先生、私はせっかく認定看護師の資格をとったのに、颯真の為には役に立てないんですかね、」
「中川、患者さんは一人だけじゃないだろ。気持ちはわからなくもないがな」
「……そうですよね、」
本郷先生はそこにあったお煎餅をばりっと噛んだ。先生がお煎餅を噛む音と、色々な機械の音だけが聞こえる。
―――ピッ……ピッ……ピッ……
「中川、これからだぞ。これからが一ケ瀬君にとって、本当の闘いが始まるんだから、」
「……やっぱり、そうですか、」
本郷先生は静かに頷いて、珈琲をグビッと飲んだ。
「一ケ瀬君の担当、竹田に変わって貰うか?」
「嫌です! 先生、私、」
「これからもっと辛くなるぞ、一ケ瀬君」
「私、看護師としても、人としても強くなりたいんです! お願いします!」
私は立ち上がり、本郷先生に深く頭を下げた。ここで諦めるのは嫌だった。
「勤務中は他の患者さんと同じだからな、絶対忘れるな!」
「はいっ!」
「相談にはいつでものるぞ」
本郷先生は珈琲が入ったカップを持って、休憩室から静かに出ていった。
頭を下げたままの私の瞳からは、また涙が零れてナースシューズにポタリと落ちた。
どんな事があっても、私はちゃんと看護師であり続けなくてはならない。
もう一度、心に誓うのだった。
―――ピーッピーッピーッ!
「はい、風花救命救急センター!」
そして、助けを求めるコールが鳴り響く。
「交通事故、バイクで転倒の患者さんだ!」
「はいっ!」
私は冷めかけたスープをそのままにして、本郷先生の後へと続いて行く。
―――ガチャガチャガチャガチャ
「っつ! 痛って!」
「佐野さん、頑張って下さいねー、ちょっとズボン切りますねー、ごめんねー」
「痛っ、あ"ー、」
「佐野さん、どんな風にバイクで倒れたか覚えてるー?」
「っと、右っ、前から車が来て右に……」
大きな交差点での交通事故で、警察官も数人やって来た。少し落ち着いたら話を聞くためだそうだ。
私達は患者さんの治療を優先させて、バタバタと処置をする。どんな風にバイクで転倒したのかを佐野さんはわかっていた。意識の混濁はないか、記憶があるのかを確認しながら本郷先生は治療や検査の指示を出してくれるのだ。
「佐野さん、ちょっと腕伸ばせますか? 点滴するから、ちょっと動かしてもいけます?」
「イテテっ!」
「こっちの腕伸ばせない? 痛いですか?」
佐野さんは痛みに顔を歪めながら、小さく頷く。私は急いで反対側にまわる。
「佐野さん、こっちの腕は伸ばせますか?」
佐野さんは腕をまっすぐに伸ばしてくれる。
反応はあるのか、痛む場所が何処なのか、本郷先生も横目で確認をしてくれる。
「佐野さん、こっちの腕に点滴しますね、ごめんなさいね、チクッとしますよー」
私は急いで点滴の針を刺して、輸液を落とし始めた。
「中谷ー、レントゲンとCTな」
「は、はい、」
「中川ー、オペ室連絡、山岡先生入れるー?」
「確認しますっ!」
中谷さんが、慌ててしまって連絡が遅れている。
「中谷さん、ここ、これ見て連絡ね! 大丈夫、落ち着いて!」
「は、はい!」
そして、私も急いでオペ室の確認をする。
スタッフの足音があちらこちらを行き来をする。患者さんは痛みに顔を歪めながら耐えている。警察官も、少し離れた場所から様子を伺っている。
救命救急センターで看護師として働いている私は、これからもっとやるべき事がたくさん待っている。その為に認定看護師の資格も取ったのだ。少しでも多くの患者さんの為にできる事をやらなければならない。
もちろん後輩の看護師も増えてきて、私が先輩方から教わった事を伝えていく事も私の役割でもある。
これから先、颯真が辛い時も私がしっかりと支えていかなくてはならない。寄り添って、声を聞いて、ちゃんと見て。
それは他の患者さんだって同じだ。
(……わかっている、ちゃんとしなきゃ……)
どんなに颯真の事で辛くても、私は認定看護師として成長し続けなくちゃ。
どんなに颯真の事で悩んでしまっても、私は患者さんの為に笑っていなくちゃ。
どんなに颯真の事で泣いてしまっても、私は患者さんに生きる事を伝えていかなくちゃ。
―――ピッ……ピッ……ピッ……
朝陽が窓から見えているのが、カーテン越しにもわかる。落ち着いて眠っている颯真の顔を眺めていた。少し伸びた前髪にそっと指で触れてみる。
カラーをして少し傷んでしまったけれど、柔らかくて綺麗な髪。綺麗に整えられた眉毛、相変わらず長い睫毛、すーっと通った鼻筋。
何度もカメラ越しに見た綺麗な横顔。
(颯真……大好きだよ、どんなに辛くても私が傍にいるからね、大丈夫! また、新しい景色をふたりで切り取りに行こうね)
颯真の寝顔を見つめながら、私は誓った。
―――もう、泣かない。
―――颯真の前では絶対に泣かない。
よしっ! と心の中で気合いを入れ直して、私はナースステーションに向かった。
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