第36話 弱る

 目の前には草原が広がっている。空の上から風がビューっと吹いて、草原の草が波のように揺れている。

(ぅお―――気持ちがいいなぁー)と、俺は全力で走った。波打つ草が足に当たって小さなキズをつけていくけれど、そんなの全然気にならない! 腕を大きく振り上げて、裸足で地面を蹴って跳び跳ねるように駆け抜ける。

 大きく、高くジャンプをしながら、全力で走っている。


 遠くで俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。

 空から吹き抜ける風の音でかき消されていく。俺は息を弾ませながら、草原を走っていた。



―――ま、……ま、そ……ま、颯真!

―――ガチャガチャガチャガチャ!

「颯真! 颯真!」

「っはぁ、はぁ、……はぁ、はぁ、」

 ん、何だここ。俺は草原を自由に走っていたはずなのに。


「一ケ瀬君、聞こえるかな? この手を握れる?」

 俺の手に温かい手が触れた。俺はそっと握り返す。力がうまく入らない。それでも精一杯握り返した。

「一ケ瀬君、頑張ったね、よく頑張った!」

「颯真!」

 母ちゃんの叫びにも似た声が聞こえる。

「お母さん、ここへどうぞ」

 栞の声が聞こえる。


―――また倒れたのか……。


―――ガチャガチャガチャガチャ

「血圧記録しといてー、少しずつ落ち着くだろ。エコーは?」

「持ってきました!」

「よし、心電図見せてー」

「はいっ!」

「中川ー、レントゲン室に連絡ー!」

「はいっ!」


―――ピピッ……ピッ……ピピッ……ピピッ

 あぁ、またこの音だ。今回は鼻の下に違和感を感じている。何だか嫌で手で避けようとして触った。

「あ、ダメよ! 颯真!」

 母ちゃんが俺の腕を押さえた。何なんだよ、いったい。

「一ケ瀬君、ちょっと酸素濃度が低いから、酸素を鼻から入れさせてねー! 嫌だよねー、ごめんなさいねー、」

 多分、竹田さんの声だろう。

 決して竹田さんが悪いわけではないのに、何で謝るんだ?

 俺は『カニューレ』という、チューブを鼻に付けて耳や首にチューブが当たっている。

 あぁ、不快でたまらない。だけど、それでも少し苦しいから我慢するしかない。

(暢気に草原を全力疾走するから、こんな事になってしまったのだろうか。)

 イヤ、違う。あれは夢の中の話だ。


「レントゲン室OKだそうです!」

「頼んだ、」

「はいっ!」

「一ケ瀬君、レントゲン室に移動しますねー、」

「はい……」

「颯真、ちょっと揺れるよー、」

「うん、」

 俺はベッドのまま運ばれる。白い天井の模様、時々見える電灯。声をかけられる度に向きが変わって、レントゲン室に到着したようだ。

「移しますねー、そのまま寝ててね!」

「いちっ、にっ、さんっ!」


 スルリと俺はベッドからレントゲンの台に移された。もうこうなってしまえば、されるがままだ。レントゲンを撮って、元の部屋に戻っていく。

 血液検査に、CTにレントゲン。繰り返す入退院。俺は何となく感じていた。少しずつ症状が悪化してきている。


 今回は記憶がないまま運ばれてきた。周りが大慌てで救急車を呼び、運び込まれた時も、俺は夢の中で気持ちよく全力疾走していたのだから。これまでとは少し……違う。

 レントゲン室から戻ってくるエレベーターの中で、ベッドの淵を握りしめていた栞の手が小さく震えているようだった。



「ねー聞いて、颯真!」

「試験の結果、発表あったの?」

「うん! 合格した!」

「おめでとう! 頑張ったね!」

「うん! これからもっと頑張らなくちゃ!」


 ついこの間の事だったもんな。栞はとても嬉しそうで、俺の家でお祝いをした。母ちゃんも父ちゃんも凪も、広輝も来てお祝いをした。俺の自慢の彼女だーって言いふらしたい気持ちだった。


 そんな栞の手が小さく震えていた。こんな時に守ってやれない俺は、いったい何をやっているんだろうか。

―――情けない、本当に情けない。何で俺はこんな病気になってしまったのだろうか。

 苛々する気持ちを何とか抑える事も覚えてしまった。いや、苛々とする気持ちを爆発させるほどの力も減ってしまった、のかもしれない。

 とにかく俺は天井を見上げているしかなかった。検査の結果が出るのをじっと待つしかできない。

窓の外も見れない。

 カーテンで区切られた、小さなスペース。お決まりの心電図と指先に付けられた酸素濃度の測定器。腕に刺さった点滴、ゆっくりと落ちてくる点滴の雫。


「お父さんに連絡してくるね、」

と母ちゃんはカーテンを開けて出ていった。

「颯真?」

「ん?」

 入れ替わりで栞が様子を見にきた。

「俺さー、全力疾走しちゃったんだよねー」

「へっ?」

「夢の中で、」

「へっ?」

「すっげぇ、気持ち良かったんだ裸足でさ、草の上をさ、あ、俺の足に切り傷ない?」

「切り傷?」

 栞が布団を捲って、俺の足を見ている。キズなんてあるわけないのに。

「んー、切り傷ないね、」

「フフッ、」

「えっ?」

「切り傷なんてあるわけねーじゃん、夢の中なのに、」

「そか、」


 俺の頬を涙がつーっと零れて落ちた。

 栞の瞳からもうるうると涙が溢れて、零れて落ちた。今は交わす言葉が見つからなくて、栞の瞳から零れ落ちた涙に手を伸ばす。この弱った手でそっと拭ってあげる。俺にはそれしかできないから。

 拭っても拭っても、栞の瞳からは涙が零れ落ちてくる。俺は何度も何度も拭ってあげる。


 俺の涙なんてどうでもいいんだ。

 栞の涙は止めてあげられないから。

 俺は何度も何度も、栞の涙を拭ってあげる。

 栞の瞳から零れ落ちた涙は俺の指から腕に伝って落ちて、着ているトレーナーの袖口を濡らした。たくさん、たくさん濡らした。

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