第32話 再発
―――ピッ……ピッ……ピッ……
聞き覚えのある、医療用機器の音が少しずつ少しずつ俺の耳に届いてくる。俺の記憶に残っていた乱れたリズムではなく、安定したリズムで音が聞こえてくる。
閉じていた瞼がほんのりと明るさを感じて、少しずつ目を開いた。
オレンジ色の空に雲が流れ、所々が白く光って見える。もうすぐ朝陽が昇ってくるのだろう。俺の身に起こった出来事なんてなんの関係もなく、自然はいつものように活動を続け地球はゆっくりと廻っている。
ベッドの脇にある椅子に座り、母ちゃんが窓辺に寄りかかって眠っていた。酷く疲れてやつれた顔。誰かがかけてくれたであろうブランケットが、ゆっくりと床にずり落ちた。
「っはっ!」
と母ちゃんは何かに怯えるかのようにびっくりして、目を覚ました。
「……ふふっ」
思わず笑ってしまった俺を見て、母ちゃんが安堵しているのがわかった。きっと、凄く怖かったに違いない。俺だって、本当に死んでしまうのではないかと不安だったから。
「颯真、どう?」
「ぅん、落ち着いたよ、ゴメン」
「謝る事ないよ、看護師さんに声かけてくるね」
他の患者さんに迷惑にならないように、小さな声で言って、母ちゃんは誰かを呼びに行った。
「颯真、苦しくない?」
栞が不安そうに様子を見にきてくれた。
「落ち着いたよ、ゴメン」
「謝らないで、本郷先生呼んでくるね」
ウンウンと、小さく首を上下に動かして返事をした。
――ここでまた、こんな風に栞には会いたくなかった。
「一ケ瀬君、おはようございます」
「おはようございます」
「胸の音、聞かせてね、」
本郷先生は自分の掌で聴診器を少し温めて俺の胸にそっと当てる。ゆっくりと場所を変えながら、時間をかけながら……。
「今、具合悪いところはない?」
「はい、大丈夫です」
「そうか、良かった。もう少しゆっくりと休んで、ね?」
「はい、」
この窓からの景色は久しぶりだった。
月は姿を隠し、太陽が景色の色を変えていく。朽ちた葉で覆われた木や、黄色い銀杏、遠くには赤みのある場所がチラホラと見える。紅葉が色をつけているのだろうか。
しっかりと休めた羽根を大きく広げて空を飛ぶ鳥の影が窓を横切っていった。
(次の休みは紅葉の写真を撮りに行こう! と、栞と約束していたのにな……。)
俺はまたここに戻ってきてしまった。
腕には点滴が繋がれて、心電図のコードが俺の体には付けられている。指先には洗濯バサミのような酸素濃度を測る器械がついていて、モニターの画面には数字が並んでいる。
―――ピッ……ピッ……ピッ……
昨日のご飯は何だったんだろうか。また暫くは母ちゃんの料理が食べれなくなるのだろうか。
あの恐ろしく不味い『重湯』とやらから始めるのか。
せめて、シャワー出来れば良かったなぁ、またベトベトの髪の毛になってしまう。
―――嫌だ……嫌だ……絶対嫌だ!
「―――嫌だ……」
「颯真? なに?」
「――嫌だ……」
「どうしたの?」
母ちゃんの心配そうな声は、なぜだか俺を苛々とさせた。
「――嫌だ! 絶対嫌だ!!」
自分でもどうしたらいいのかわからなくなった。何に対して苛立っているのかもわからない。ただ、どうしようもなく大きな声を出してしまっている。
「嫌なんだ! 嫌なんだよー」
―――ピッ……ピピッ……ピッ……ピピ……
「颯真、颯真、」
母ちゃんの声も聞こえない。
栞が慌てて駆け寄ってきた。
「颯真、颯真、」
「嫌だ! 嫌だ! 俺は……」
俺は叫びながらベッドから降りようとした。
点滴の管が邪魔だ! 心電図が邪魔だ!
「あ――離せー」
栞は片手でナースコールを押しながら、俺の腕を掴んでいる。
「颯真、こっちを見て! 私の顔、見て!」
今にも暴れ出しそうな俺を必死で落ち着かせようと大きな声を出している。
栞のクリクリとした瞳からは涙がぽろぽろと零れおちた。
「颯真! 私の顔、見てっ!」
栞の濡れた瞳は、真っ直ぐに俺を見つめている。
「颯真! 負けないよ、絶対、負けない」
動けなくなった。――栞を泣かせたい訳じゃない。
バタバタ……バタバタ……
「一ケ瀬君、落ち着きましょうか」
知っている顔……三輪さんだ。
「一ケ瀬君、そうだね、そうだね、」
三輪さんのプクプクとした温かい手は俺の肩や背中を擦り続けている。
栞は、頬を伝っている涙を拭った。
その手は俺の腕をしっかりと掴んだままで。ベッドの脇には、母ちゃんがしゃがみ混んで泣いている。
(ゴメン、困らせたい訳じゃなかったんだ、)
俺の体に繋がっている器械音のリズムが不規則に鳴っている。
「一ケ瀬君ー、血圧測らせてくれー」
本郷先生は俺の顔を見てくれているようだったけど、俺はわざと目を合わさなかった。
……合わせられなかった。
「先生、私が測ります!」
栞がハッキリとした声に戻って、本郷先生と話をしている。
「頼む」
「一ケ瀬君、胸の音聞いてもいいかな、」
―――ピッピッ……ピッ……ピッ……ピピッ
―――ピッ……ピッ……ピピッ……ピッ
「142の105です、」
俺の肩や背中を撫でていた手が、栞にバトンタッチされたようだ。
ゆっくりゆっくりと、栞の手の温もりが伝わってくる。ふたりで布団に入っている時の感覚がした。
―――ガチャガチャ……ガチャガチャ
三輪さんは回診車を持ってきて、本郷先生の指示を待っている。
母ちゃんは肩を支えられながら、椅子に座った。
「ベッドに横になりますか?」
「大丈夫です、ありがとうございます」
母ちゃんの弱々しい声。
(ゴメン、こんなはずじゃなかったんだ、困らせたい訳じゃなかったんだ、)
やがて器械音が一定のリズムに落ち着いた。
「一ケ瀬君、後で話でもするか、少し眠ったほうがいいよ」
俺が落ち着いてきた様子を見て、本郷先生と三輪さんは、ナースステーションに戻って行った。
栞はまだ、俺の肩から手を離さないでいる。
「戻らなくていいの?」
俺が栞に小さな声で問いかけると、手をそっと離した。
「颯真、こっちを見て、」
……カッコ悪くて見れないし。
「颯真、こっちを見て!」
仕方なく、そっと視線を栞に向けるしかなかった。
「ね、颯真。負けないよ! 負けない、」
栞の瞳はまだ濡れていたけれど、力強く俺を見つめてくれている。
「ゴメン……」
俺の瞳から、ぽろりと涙が零れ落ちた。
「謝らなくていいよ、颯真、」
俺は情けなくて、俯く事しか出来なかった。
二十歳になって初めての秋、俺の入院生活は再び始まった。
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