第31話 不穏

 それはある日、突然俺のところにやってきた。

 枯れ葉を身に纏った街路樹が風に吹かれておしゃべりを始めた頃の事だった。


 専門学校からの帰り道、風が冷たくてジャケットの襟を立てて歩いて帰宅した。

 少し前から、動悸のようなものを感じる。急に寒くなったからかな、そんな風に思いながら玄関の扉を開けた。


「おかえりー寒かったでしょ」

いつものように母ちゃんが出迎えてくれる。

「ただいま、風が冷たいわ」

「ご飯出来てるよ!」

「ぉん、」


 凪は高校生になって、少し帰りが遅いようだ。俺は重たい鞄から荷物を出して机に置く。参考書やノートが山積みだ。

 お気に入りのパーカーに着替えて、下に降りようとしたその時だった。


―――どくんっ!

 あのどしゃ降りの雨の日を思い出す、突然の胸の痛みが俺を襲った。

 いや、気のせいだろ。そう思いたかった。

 しかし俺の胸は苦しいくて、そのまま膝から崩れ落ちた。声もうまく出せない。

「っく、はぁ、か、母ちゃ……」

 何だか息も苦しくなってきたし、これは、もしかしたら……。いや、深呼吸だ。深呼吸をすれば、すぐに落ち着くだろ!


 が、うまく出来ない。

「っく、か、母……」

 すぐ下にいる母ちゃんに助けを求めようにも、手が震えてうまく動けない。どうにかしないと……でも何も出来ない。


 その時玄関の扉が開く音がして、凪の声が聞こえた。

「たっだいまー、さっぶ! お兄ちゃん帰ってるの?」

「もう降りてくるはずなんだけど、凪呼んできてー」

「わかったー」

 トントントントン……階段を上る音が近くなってくる。と、同時に俺の意識は少しずつ遠くなっていった。


「っ! お兄ちゃん! お母さん! お兄ちゃんが! 早く早く来て―――」

 凪の大きな声に俺は呼び戻される。

「っく、苦し……」

「お兄ちゃん! 痛いの? 苦しい? ね?」


 バタバタと母ちゃんが階段を駆け上がって来る音や、凪が泣きながら俺を呼ぶ声、119に電話をする声がうっすらと聞こえてくる。


(あぁ、俺はまた倒れてしまったのか……)

 街路樹を揺らす風は、さっきよりも強くなり、びゅう―――びゅう―――と嫌な音が聞こえる。


 救急車のサイレンの音が止まり、ブルーの服を着た救急隊が駆けつけてきた。俺は遠のきそうになる意識を何とか保っている。

「聞こえますか?」

 声が出せずに頷いた。

 朦朧としながら担架に寝かされ、救急車に乗せられた。

「お母さん、かかりつけの病院ありますか?」

「はい、か、風花救命救急センター。拡張型心筋症でずっと通院しています!」

「診察券ありますか?」

「えっと、えっと、……あれ?」

「お母さん! 落ち着いて下さいね、我々もいますから。」

「はい、あ、これです。」


 俺はうっすらと聞こえてくる色々な音の中で苦しんでいた。指先には酸素濃度を測る機械がはめられて、腕には血圧計が巻かれた。

「血圧測れません、」

「反対の腕は?」

「ちょっと腕動かしますねー」


 何でもいい。もう何でもいいから、早く……助けてくれ。

「お母さん、風花救命救急センターに搬送しますね!」

「お願いいたします、颯真、本郷先生がいるといいね」

「担当が本郷先生ですか?」

「はい、救急搬送されて入院していたので」


「胸が痛い?」

 俺は頷くしかできなかった。怖くて怖くて体が心が震える。(栞……)

 赤いランプを回しサイレンを鳴らしながら、俺を乗せた救急車は走り抜ける。

 ガタガタガタガタ……

 車内の器材が当たり揺れる音はとても耳障りで、恐怖心が煽られる気がした。

―――「救急車が通ります!」

 交差点の赤信号を進み、止まってくれる車に道を譲って貰いながら俺は病院へふたたび運び込まれた。



―――ガタガタ……ガタガタ……

「わかりますかー、病院で、……え!」

「一ヶ瀬君、聞こえるかなー、聞こえてたら手を握ってー!」

 俺は本郷先生の声に反応して、手に力を入れた。

「おぃ、中川大丈夫か? 交代するか?」

「いえ、大丈夫です!」

 いつもとは違う、栞の声だった。

「颯真、しっかりして、もう大丈夫! 本郷先生もいるから! ね!」


―――ガチャガチャガチャガチャ

「移します、いちっ、にっ、さんっ!」

「採血と、CT! 心電図用意してー」

ガラガラ……ガラガラ……

「ルート確保します、チクッとしますよー」


―――ピッ……ピッ……ピッ……ピッ……ピッ

「心電図付けさせて下さいねー」

「汗凄いねー、まだ苦しいねー?」

 本郷先生の声に小さく反応するしかなかった。怖い、とてつもなく怖い。

 俺の手は時々ぶるぶると震えた。寒いわけではない。聞こえてくる俺に繋がった器械の音が不規則に聞こえてくる。



「山岡先生、先にエコーにしよ、」

「はい、」

「先生、血圧下がってます!」

「一ケ瀬君ー、しっかりしろー、」

「心電図取れたー?」


 栞の、はいっ! という返事の声が時々小さく聞こえる。俺は大丈夫なんだろうか、とにかく苦しくて胸が痛い。助けて欲しい。

……ただ、それだけだった。


「颯真っ、颯真っ!」

 閉じていた瞳に感じていた光が少しずつ少しずつ暗くなって……消えた。



「―――1・2・3・4・5……」

「離れて―――」

―――バチン!

「戻りましたっ! 颯真っ! 颯真っ!」

「よしっ、中川、少し休め!」

「中川さん、私が変わるから!」

「は、い、」


 俺の心臓はまた止まった。

 そして、再び動き出したようだ。あのどしゃ降りの雨の日と同じように、俺の耳に届いていた声。絶対に手離すもんか! 俺は必死で栞の声を探して、本郷先生の声を探して、また戻ってきた。


 ボンヤリとだが、俺の心にはそんな記憶が残っていた。


 びゅう―――びゅう―――と音を立てて吹き荒れる風が、枯れ葉を撒き散らし、俺の体に再び不穏な空気を運んできた。

 完治をしていない俺の心臓は、ふたたび俺の日常生活を奪う事になる。

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