第30話 ウェルビーング―栞Side

―――トゥルットゥルットゥルッ!

 内線の電話が鳴った。急いで電話を受ける。

「はい、救命です!」

『すいません、外来なんですけど……』

「わかりました、行きます!」


 私は急いで本郷先生の所へ急いだ。

「本郷先生、ウォークインの患者さんが倒れたようです!」

「よしっ、行くぞ!」

「はいっ!」


 夜間の救急用の診察室の前には数人の患者さんが待っていた。急な発熱などで小さな子供さんを心配そうに抱えているご両親や、待合室で横になって待っている人もいる。


「あ、本郷先生、こっちです!」

 汗をかいて腹部を押えて踞っている。

「大丈夫ですかー!」

私はストレッチャーを押して駆けつけた。

「誰かもう一人手伝って!」

「はいっ、」

「お腹痛いのかなぁー? 聞こえますか?」

 私の問いかけに苦しそうに頷いてくれた。

「よし、とりあえず運ぼう!」

「はいっ! 移します! いちっ、にっ、さんっ!」


「中川、血液検査とレントゲンな、」

「はいっ! 連絡します! 先生、ラックテックでいいですか?」

「そうだな、」

 バタバタといろいろな準備をする。

「ちょっと針刺しますねー、チクッとしますよー!」

 声をかけながら、針を刺して採血をしてそのまま点滴に繋いだ。


「採血出して来て下さい!」

「はいっ!」


 私が風花救命救急センターに勤務をしてから、三年目の夏を迎えようとしていた。研修もたくさん受けて、勉強もしている。


「中川ー、オペ室、念のため連絡しといてくれ、それとオペなら器械出し頼むー!」

「はいっ!」


―――ガチャガチャガチャガチャ……。

「これ、パンペリか? 山岡先生は外来?」

「外来です、北村先生なら大丈夫です!」

「呼んでー、エコー持ってきてー」


「ここ痛いですかー?」

「……うっ、」

「あー、痛そうだな、」


 そして、患者さんはオペになり、私は器械出しをした。

 今夜もバタバタとした夜だった。

 まだ漆黒の空にほんの少し光が射し込んできた。私はいつものように、屋上で少しだけ休憩をする。胸いっぱいに空気を吸い込んで、ふ―――っと吐き出した。


「お疲れさん!」

「あ、本郷先生、お疲れ様です!」

「ほれっ!」

 いつものオレンジジュース。

「ありがとうございます」

 私は缶を振り、ぷしゅっと開ける。冷たいオレンジジュースが体に染みていく。


「器械出し、少し慣れてきたな、」

「えっ、ありがとうございます! でも、もう少し早く出来るようになりたいです」

 今日も少し出すのが遅かった。

「まぁ、そう焦ることないさ。外回りは安心して任せられるようになってきたし、ずーっと勉強なんだから」

「そうですね……」

「ウェルビーング、だよ! 知ってるか?」

「ウェルビーング?」

「そう、心身と社会的な健康!」

「心身と社会的な健康……?」

「中川が自分らしく健康に生きて行く事が大事って事さ、無理をする必要はないんだ。ちゃーんと中川は前に進んでいるんだから、そのままのペースでいいんじゃないか」

「ありがとうございます!」


 本郷先生はたくさんの事を教えてくれる。手術室の外回りを担当していてミスした時も、『落ち着け!  ガーゼのカウントは重要だからな!』と厳しい声で指示をくれる。

 当たり前だけど、とても大変だと感じている。苛々とする事だってあるはずなのに、本郷先生が怒るのは患者さんにとって危険な時だと私にはわかっていた。



 私の恋は順調だった。お互いに忙しくて以前のようには会えないけど、名前の呼び方も呼び捨てになった。初めて呼び捨てされた時、私は凄く嬉しくて、抱きついちゃったのを今でも覚えている。



 颯真は理学療法士になる為に専門学校に通っている。今は二年生になった。お互いに休みが合えば、カメラを持って出かけている。颯真は、少し髪の毛をアッシュグレイに染めて大人っぽくなった。付き合い始めて二年くらいだけど、颯真の横顔はとても綺麗でシャッターを押す時は今でも震える。


 颯真は定期検診にもちゃんと来て、今ではリハビリをしている。週に二回くらい、有酸素運動などをして、体力作りに励みながら、片岡さんから理学療法士について話を聞いたりもしているらしい。学校での勉強にも、自分の為にも頑張っているようだ。


 どうしても忙しい時は私の部屋に遊びに来てくれる。一緒にご飯を食べて映画を見たり、私が撮った写真を見ながら話をしている。


「ねぇ、この白い花好きなの? めちゃくちゃ前から撮ってるねー」

 私が札幌に住んでいた頃、いつも撮っていた写真だ。たまにピントが合っていなくて笑っちゃう写真。


「それね、サンカヨウって花なんだ」

「サンカヨウ?」

「そ、札幌に砥石山といしやまってあってね。その山の八垂別はったりべつたきから登るルートから登るの。綺麗な川のせせらぎを聞きながらゆっくりと山登りをしながら探すんだ」

「山登りするの?」

「比較的登りやすいんだよ! でね、このサンカヨウって、雨の後がすっごく綺麗なの!」

「雨の後って?」

「この白い花びらが、硝子細工みたいに透明に透けて見えるんだって!」

「へぇー、見たことある?」

「サンカヨウの花は何度か撮れたんだけどね、雨の後って出逢えた事ないの」


 サンカヨウの花が咲いている期間は短くて、そこに雨が降るというタイミングで見つけるのはなかなか難しい。雨に濡れたサンカヨウは清楚だが艶めいていて、とても美しい。



「ねぇ、栞。この花をいつか、一緒に見に行こうよ!」

 颯真の瞳がくりくりと私の事を見つめる。私はこの瞳に弱い。

「いいねー、濡れたサンカヨウの写真を一緒に撮ろうね!」

「うん! 絶対ね、約束だよ!」

「うん、約束!」


 私達は、指切りをした。絶対、絶対に一緒に見に行こう!

 検索して見つけた雨上がりのサンカヨウの花は、シンデレラの硝子の靴のようにキラキラとして見えた。


 ふたりがお揃いで付けている『アイオライト』のキーホルダーが一瞬キラリと光ったように見えた。

――羅針盤がきっと導いてくれる――。

 そう信じていた。

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