第16話 夏休み

――――ドサッ。

 久しぶりの自分の部屋の匂いだった。きっと、母ちゃんが布団を干してくれたのだろう。太陽の匂いがふわりと香った。

 ベッドの上で壁にもたれ掛かる。

 正面には学生の部屋には贅沢であろう大きさのテレビ。小さなテーブルにはリモコンやコントローラーが綺麗に整理して置かれている。

 消毒液の匂いや医療用機器の音などは聞こえてこない。知らない人の名前を呼ぶ看護師さん達の声も聞こえてこない。

 変わりに下で母ちゃんが片付けや洗濯をしている音が聞こえてくる。

 窓を少し開けると、風がレースのカーテンを揺らした。

 チチチチチチ……。

 名前の知らない鳥の囀ずり、濃い緑色の葉っぱがサワサワサワと擦れて音を立てる。


「颯真――!」

階段の下から母ちゃんの声が聞こえた。

「なに――?」

「なんか軽く作ろうか? お母さんもお腹空いたし。うどんとか、どう?」

「卵入れて――!」

「はいよ――!」

今日からは母ちゃんが専属看護師か。


「退院おめでとう」

 と中川さんから受け取ったポストカードは、本棚のお気に入りの場所に飾った。

 カーテンの向こうに行く前に、最後にニッコリと微笑んでくれた中川さんの瞳が少し潤んでいた。ひとつに纏めた髪の毛の先が少し揺れて、綺麗だった。


(通院の時にも会えないだろうなぁ。)

 中川さんは救急の看護師だし。

屋上だって、入院していなければ行く必要なんてなかった。考え事をしながら、部屋着に着替えると下から母ちゃんの声が聞こえた。


「できたよ――!」

「今行く――!」

 病院では与えられていた食事を、今日からは、また自分で食べに行く。俺は何か大切な事を学んだような気がする。


「いただきまっす」

 手を合わせて言った。

 久しぶりの俺の箸の感触だ。

「自然の出汁を買ってみたのよ、どう?」

「うん、うまい!」

「塩分控えたお料理って難しく考えてたけど、案外いけそうだわ」

 と何やら手作りファイルを母ちゃんは手にしていた。

「何それ?」

 うどんをズズッと啜りながら母ちゃんに尋ねる。


「これはね、看護師さんから貰った冊子。それと、中川さんが手作りでくれたのよ」

 いつもの画用紙に、色々書いてくれている。

 そして、最後に書かれているメッセージ。


「あまり気にし過ぎると、長続きしないので少しの工夫で大丈夫です。たまには手抜きもしちゃって下さいね!」

 と、中川さんらしい優しい言葉が残されている。


「レトルトでも売ってるんだって! 助かるねぇ」

 と母ちゃんは嬉しそうにしている。

「普通の味噌汁作って、俺のはお湯足してくれればそれでいいから」

 俺は残りのうどんをズズッと啜った。


 自分の部屋でベッドの上でくつろいでいた。何となく少し眠っていたのかなぁ。


 玄関の扉がガチャガチャと開く音が聞こえた。

「ただいまー!」

「お帰りー!」

 凪が帰ってきたようだ。

 ドカドカと音を立てながら、階段を昇る音が近づいてくる。

(もう少し可愛らしく昇れないものかねぇ。)


 ノックもしないで、俺の部屋の扉も開けられた。

「お帰り――、お兄ちゃん!」

「ただいま」

「あのさー、聞いてくれる? 明日は終業式でさ、明後日から夏休みなのよ。なのにさ、夏休みの宿題が山盛りなのよ! 部活も一応入ったけどさ、私がやりたかったのとは違うの! なのに、夏休みも部活動があって学校に行かなくちゃいけないの! どう思う?!」


 凪は中学に入って書道部に入った。

 テレビか何か知らないが、大きな筆を持って袴を着て全身を使って書く書道。あれをイメージして何も考えずに入部したらしい。

 実際は、机に向かって普通の筆で文字を書く書道部だった。しいて言うなら、細い筆でいろんなものに文字を書く事もあるそうだ。


「お前は本当によく喋るなぁ。部活も見学してから入るだろ、普通。宿題だって、夏休みなんだからあるに決まってるわ!」

「こーんなにあると思わないじゃん!」

「お前はバカか……」


 全く、凪はいつまでたっても変わらない。でも、それが心地よかったりもする。俺の入院生活はまるでなかったかのような、凪のマシンガントークを浴びて。

(俺は家に帰ってきたんだ。)

 と実感していた。


「制服、洗濯しとけよ! 部活もあるし」

「ほぁ――ぃ!」

 ドテドテと歩きながら自分の部屋へと向かっていった。


 とにかく今日、俺は退院して帰ってきたのだ。凪がいきなり夏休みの宿題の話をしたのだって、あいつは多分嬉しかったからだ。


(もう、困らせないでくれよ、俺の心臓。)

 そんな風に祈るしかなかった。

 俺が退院出来たのは、完治したわけではなかったし、投薬も自宅療養もまだ必要な体だった。


 その日の夜は父ちゃんがケーキの箱を持って帰ってきた。

「誕生日でもないだろ?」

と俺は言ったけど。

『退院おめでとう』と書かれたチョコレートのプレートの文字は少し嬉しかった。


 母ちゃんが切り分けてくれたケーキを食べながら、テレビを見る。

「夏休みのお出かけスポットだって――」

 凪はフォークを咥えたまんま、必死で見ている。

「今年は旅行は無理よー、凪」

 母ちゃんに、言われて凪は不貞腐れた顔になった。

「じゃあさ、近くならいい?」

「近くって?」

「んー、桜の丘公園は?」

「あー、サルスベリが咲いてるかもねー」

 と母ちゃんが思い出したように口にする。


「車で行けるし、颯真も少しの時間なら行けるんじゃないか?」

 と、父ちゃんの一言で凪の顔がパアッと明るくなった。

「ねーねー、行こう! お弁当持っていって食べて帰って来るだけでもいいから――」

 こうなった時の凪はもう幼稚園児だ。

 父ちゃんや母ちゃんも従うしかない。


「ねぇ、広くんも誘っていい?」

 凪が笑顔で言った。

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