第15話 退院

 俺はリハビリを頑張った。リハビリのおかげで、曜日の感覚も戻ってきた。最初は月曜日と木曜日だったけど、最近は月曜日と、水曜日と金曜日に片岡さんが迎えに来てくれて、リハビリをした。


 食事や水分もちゃんととれているからと、点滴も外れた。両方の腕には紫色のアザが小さく残っている。時々場所を変えて点滴に繋がっていたせいだろう。


 体を拭くのも全部自分で出きるようになった。この前はシャワーもできた。念のため……と、扉の向こうで丸井さんが待っていてくれたので、俺は急いでシャワーをした。

 頭もガシガシと洗い、ボディーソープの泡で体をゴシゴシと洗った。

 久しぶりのシャワーでスッキリとして、心地よい疲労感でぐっすりと昼寝をした。


 そして、今日本郷先生が診察に来た。

「一ケ瀬君、シャワー大丈夫だった?」

「はい、さっぱりしました」

「だろうねぇ、眩しいもんなぁ!」


(―そんなに俺は汚れてくすんでいたのか。)

 と不安にもなったが、へへっと笑って見せた。

「一ケ瀬君、エコーで念のためチェックして、異常がなければ退院しようか。来週くらい」

「え…? 退院できるんですか?」

「んー、体調も落ち着いてるし、チェックしてからだけど。ちゃんと薬は飲んで、定期的に診察は受けるように。何かあったら、すぐに来ること。学校はちょっとまだ先かなぁ、自宅療養。どう?」

「やったぁ! 先生、嬉しい!」

「頑張ったもんな。あ、でも食事は注意して! 栄養指導も退院前にしなくちゃな」

「はい! やったぁー!」


 丸井さんも嬉しそうに微笑んでくれて、俺は本当に嬉しかった。

「眩しいってー、その笑顔!」

「はいっ!」

 俺は思いっきり笑顔で答えた。

(眩しいと言われても構わない、退院だ!)


 俺はもうすぐ来るはずの母ちゃんにラインを送った。


(来週、退院できるかも!)

―ピコン!

(良かった、もうすぐ着くよ!)

 母ちゃんからの返事は早かった。


 そして数日後、俺の退院の日が決まった。

 三か月ほどの入院で、俺の小さな部屋となってしまったベッド。母ちゃんは少しずつ、余分な着替えなどを持って帰る。

「じゃあ、また明日ね!」

 重たそうな荷物を抱えて、嬉しそうに手を降って帰る母ちゃんの背中を、俺は病室の入り口から見送った。



 今日は天気が良いなぁ。

 後で屋上からの景色を少し見に行こうかなぁ、そんな事を考えながら窓の外を眺めていた。もう夏の太陽だなぁ、海の波がキラキラと輝いている。



「一ケ瀬君、こんにちわ!」

 俺はすぐに振り向いた。

 笑顔の中川さんがいた。

「こんにちわ」

 俺は持っていた手作りのアルバムをそっと横に置いた。何だか少し照れ臭かったから。


「明日ね、退院。良かったー、本当に!」

「ありがとうございます! 中川さん達のお陰です」

「違うよ、一ケ瀬君が頑張ったからだよ! 本郷先生達のように手術したり検査したりって必要だけど。やっぱり私達は手助けしかできないんだから。一ケ瀬君がちゃんとお薬飲んで、ご飯を食べてくれたからだよ!」


 中川さんの目がしっかりと俺の事を見つめてくれる。そう、俺はしっかりご飯を食べたんだ。中川さんが教えてくれた事を守って、検査だって乗り越えたんだ。

「でもやっぱり、中川さんのお陰です。この景色をもう一度この目で見たいと思えたから」

 と、手作りのアルバムを手に取って見せた。


「嬉しい! ありがとう!」

 中川さんの笑顔が俺の体温を少しだけ上げたような気がする。


「あのね、退院祝い……ではないんだけど。これ、もう一冊作ったの。受け取ってくれる?」


 中川さんの可愛い文字。

『にじいろ海岸』。


 何だか楽しそうな犬の足跡があちこちにのこされた砂浜。

 キレイな白い貝殻。

 誰かが作った砂の山。

 遠に浮かぶ船。

 空を高く舞う鳥。

 眩しいくらいに青い空。

 手のひらに乗せた夕陽。

 少しピンク色にも見える空。


「凄い……キレイな写真」

 俺は思わず口にしていた。


「えっ?」

 その時、中川さんが小さな声を出した。

 俺の手の甲に雫が落ちた。

 俺の涙だった。


「――あれっ?いや、何これ。えっとー」

 俺は自分に驚いていた。

 慌ててティッシュで涙を拭った。


「ありがとう!」

 中川さんが笑顔を見せてくれる。


「あとね、これ、ポストカードにしてみたの。世界に一枚しかないんだよ。退院おめでとう」


 中川さんが俺に差し出してくれたのは、夕陽が沈んだ瞬間の空だけを切り取った景色。

 薄紫色に染まった雲が広がった空だった。


 その夜、俺はポストカードを枕元に置いて眠った。

 美しい景色を切り取った、世界でたったひとつの宝物だ。


 長かった入院生活は、やっぱり辛かった。

 髪が毛もベタベタになっても洗えない。

 食べたい物は食べれないし、家にも帰れないし。

 何よりも、あんなに苦しい思いをするのが怖かった。

(死ぬかもしれない……)

 そんな恐怖にびくびくしながら過ごしてきた日々が漸く終わるのだ。


 まだ完全ではないけれど、俺は命を助けて貰った。


 俺は明日退院をする。

 中川さんとはもう会えなくなるんだ。そう思うと、少し心の奥がチクッとした。

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