第10話 入院中の恋

 窓ガラスに打ち付ける雨を俺は眺めていた。俺がここに運ばれて来たのは、きっとこんな雨が降っていたのだろう。

 ICUから一般病棟に移動してきて一週間くらいたっただろうか。見事に俺は窓際のベッドをゲットしていた。位置関係はよくわからないのだが、見える景色の中の海の面積が増えたようだ。


「一ケ瀬君、変わりないですか?」

 と、聞かれながら体温計を渡される。俺は当たり前のように受け取り、脇の下に挟む。毎日のルーティンとして自然と体が動くのだ。

「特には変わらないですけど」


 ピピッ…ピピッ…。

「36.7ね。食事は?」

「椎茸以外は」

 一般病棟での俺の担当は近藤さんだった。近藤さんは笑いながらメモをとっている。

「椎茸嫌いなの?」

「はい、椎茸以外のキノコは食べれるので問題はありません。」

「確かに。一ケ瀬くん、明日体調が良ければ洗髪しましょうか。先生もいいって」

「ぜひ! お願いします!」


 一般病棟に移動してから、俺は母ちゃんにお願いしてドライシャンプーなるものを買ってきて貰った。それを頭につけてタオルで拭き取るだけなんだけど。全然さっぱりなんてしなくて。

 体は蒸しタオルで拭けば何とかなるのだけど。髪の毛だけはどうにもならなかった。もともとベトベトとなってしまっている髪の毛にスプレーして拭き取ったところで何の意味もなかった。


「お兄ちゃん!」

 久しぶりにやってきた凪は布団ごと俺に抱きついてきた。めんどくさい妹だ。

「ーんだよー! やめろ。幼稚園児か、お前は」

「いーじゃん! 久しぶりなんだし!」

「あ、お前、またそれ!」


 凪は俺のクローゼットを勝手にあさったのだろう。俺のお気に入りのパーカーを着て来やがった。


「えへ、これ可愛いし。お兄ちゃんパジャマしかいらないじゃん!」

 俺のパーカーのポケットに手を突っ込んで自慢げにしている凪は、ゴチンと母ちゃんから拳骨を食らっていた。

「ーいたっ!」

「凪、そんな事言わないの!」

「ごめんなさい……」


「バーカ」

 さすがの凪もへこんでいた。久しぶりで嬉しかったのだろう。ま、今日はお気に入りのパーカーも貸しといてやろう。


「あ、母ちゃん! シャンプーとリンス買っといて!洗髪してもらえるんだって」

「あら、良かったね! じゃあ、後で買ってくるね、売店にあるかなぁ」

「何でもいいよ、もーベトベトだから」

 母ちゃんは、少しほっとしたような笑顔を浮かべた。


「凪ー、俺の頭嗅いでくれ!」

「嫌だよー、臭いに決まってんじゃん!」

「お前、俺のパーカー勝手に着てるんだろ! 頭の臭い嗅ぐぐらいいいだろー!」


 凪は怪訝そうな顔で、俺が差し出した頭を嗅いだ。

「うへぇ――、最悪!」

 俺はケタケタと笑ってやった。

「ちょちょ、もっかい!」

 と凪はまた俺の頭を嗅いで、くしゃくしゃの顔をする。

「うげ――、やっば!!」


 俺達は家にいる時はいつもこんな感じだった。暑い夏に脱ぎたての靴下の臭いを嗅がせたり、嗅がされたりして騒いでいた。


「ちょっと! 恥ずかしいから辞めなさい!」

 俺と凪は、母ちゃんに叱られた。

 となりのベッドのおじさんは、俺達を見て笑った。

「仲良しだなぁ」

「うるさくてすみません……」

 母ちゃんは謝っていたけれど、何だかちょっぴり嬉しそうに見えたのは気のせいだったのかな。


 病院の夕食の時間は早くて、この時期はまだ外も明るい。俺は窓の方に向いて座り、食事をするようになった。


 残念ながら今日はどしゃ降りの雨が降っている為、窓に打ち付ける雨を見ながら薄味の肉じゃがを口に運んだ。


(あー、ラーメン食いて――。)

 俺の頭の中は美味しい食べ物でいつも溢れている。退院できたとしても、食事制限は付いてまわるんだろうな。薄味を選択しなくてはならない生活…。

俺は人生の半分を損した気分になっていた。


 どんよりとグレーがかった空は海の向こう側まで続いている。

(今夜は月も見えそうにないな。)

 俺は広輝にラインを入れて、ゲームのスイッチを押した。


『夕飯終わったから、先にやっとくわ』

『夕飯早えなぁー、了解した!』

 広輝とは付き合いが長い。家も近所で、幼稚園からの付き合いだ。

 多分、広輝は凪に惚れている。

 多分……だけど。


 翌日、俺はベッドの上に寝転んでいた。いつもとは違う方向に頭を置いて、タオルを敷いて、何やら念入りに準備をされた。


 どれくらいぶりかわからないくらい久しぶりに、俺の頭皮がお湯で濡らされた。

「一ケ瀬君、大丈夫かな?」

 と時折声をかけられながら。

「はぁ――、気持ちいっ! シャンプーガンガンに使っていいので、ガシガシと洗っちゃって下さい!」

 と言って念入りに洗って貰った。


 俺の顔の周りに、シャンプーの香りが漂って漸く泡が立ってきたのがわかる。

「すごく汚れていて……すみません」

 と俺は謝ったが、看護師さんは違った。


「病気と闘ってきた印ですよ! よく頑張ってますね。これも大事な治療のひとつなんですよ。これからは、時々洗髪できますから。私達はこうやって治療のお手伝いをしてるんです。だから、謝らなくていいんですよ」


 何だか心に染みて、俺は目を閉じた。

 顔にふわりと乗せられたガーゼの隙間から、つーっと涙が零れて落ちた。


 その後も泡を綺麗に流してくれて、タオルでしっかりと拭き取ってもらって、ドライヤーもかけてくれた。

「一ケ瀬君、疲れたでしょ。ゆっくり休んでね!」

「ありがとうございました!」


 俺は髪の毛を触った。母ちゃん、売店じゃない所まで買いに行ってくれたんだろうな。家で使っていたお気に入りのシャンプーの匂いが俺をふんわりと包んだ。サラサラとしていて気持ちが良くて、俺はそのまま少しだけ眠った。




「一ケ瀬君、スッキリしたかい?」

 本郷先生の声で目が覚めた。

「はい、かなり」

「うん、やっぱり一ケ瀬君はイケメンだなぁ。髪の毛がサラサラだと余計だね!」


(答えにくいっつーの!)

「いやぁ、そんな事は……」

 本郷先生はニヤリと笑っていて、俺はつられて少しだけ笑った。


「体調落ち着いてるから、たまに病院内なら車椅子で移動していいよ! 看護師に頼むといいよ。屋上がいいかな、太陽の光を浴びて景色を見て来るといい!」

「はい!」



「あー、気持ちがいいですね!」

「はい」

 俺は車椅子に座って全身に太陽の光を浴びていた。   

 昨日洗って貰った髪の毛はサラサラと風に吹かれて乱れるが、俺はそれを楽しんでいた。



「あれ? 一ケ瀬君!?」

 少し離れた所から、聞き覚えのある声で名前を呼ばれた。

 俺の胸の奥の方がはトクンとなった。

 俺が聞きたかった声だった。

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