第8話 惹かれる心―栞side
カメラのレンズを覗いていた。
カシャッ…カシャッ……
私の休日の楽しみは外の景色を切り取って、写真に残して行くこと。
私はポートレートは撮らない。
自然の景色や花や物、可愛いのら猫や空。そんな小さな日常をカメラに収めていく。公園の葉桜、砂場に忘れられたスコップ。両手を大きく広げて飛んで行く飛行機。空に残された飛行機雲。日向ぼっこをするのら猫。
(ん――、気持ちいい!)
お気に入りの大きな公園の草の上にレジャーシートを広げて、カフェラテを飲みながら休憩をする。
風花救急センターの救急担当になった日の勤務は、落ち込んだ。何もできないし、どうすればいいのかもわからないし。ただ慌ただしく動き回る先輩達を見つめて終わった。
屋上でひとり、朝日を見ながら涙を溢していた。
「中川」
本郷先生だった。
「最初からできる奴なんていないんだから。まだ何にも始まってないぞ」
「はい、すみません」
私は涙を拭いながら、そう答えた。
「少しずつでいいんだ、中川ひとりだけではないんだから。僕達だって、医者や看護師の前にひとりの人間だからな。勤務中は必死になれ! そして、休みの日は思いっきり休むんだ。それが続けていく為の僕からのアドバイスかなぁ」
本郷先生は、私にオレンジジュースを差し出した。
「中川の好みはわからないから、とりあえずビタミン摂取しろ」
本郷先生は缶コーヒーのプルトップをパキッと開けて、ゴクリと飲んだ。
「ありがとうございます」
私も同じように缶のプルトップを開けて、オレンジジュースを飲んだ。
まだ肌寒い夜明け。冷たいオレンジジュースが私の胃袋に染み渡った。
「さて、中川。休憩は終わりだ、行くぞ」
「はいっ!」
それからの私は、天気が良い休日はこうしてカメラを持って出かけている。少し長い休みでもあれば、実家に帰省しようと思っているが、まだまだ先になりそうだ。
少し暖かく柔らかな風が吹いた。私はふと、一ケ瀬君の事を思い出した。いつも不安そうな表情で、窓の外をじっと眺めている彼の顔。
(ダメダメ! 今日は休みなんだから。思いっきり休まなきゃ!)
私はカフェラテをゴクリと飲んで、寝転がった。
薄い水色の空だけが見える。
私はカメラのレンズを覗いて、シャッターを押す。
カシャッ……
綺麗な水色の空を切り取った。
「おはようございます!」
「おはようございます!」
夜勤のスタッフから日勤のスタッフへ引き継ぎが行われる。
「えっと、大田さんですが体調が安定しているので、一般病棟に移動になります。田中さんお願いしますね」
「はいっ」
「それと、夜間に搬送されてきた野村……。それと、一ケ瀬君は………。これで、以上になります」
「はいっ」
引き継ぎを終えて、私は回診車を押して移動をする。体温を測って貰い、血圧、食事の量、その他を観察してまわった。
一ケ瀬君に声をかける。
「一ケ瀬君、おはようございます」
「おはようございます」
私が笑顔で声をかけると、一ケ瀬くんは少しだけ口角をあげてこっちを見た。
(やっぱり綺麗な顔だなぁ。睫毛は長くて。きっと、笑うとかっこいいんだろ……)
ダメダメ!私は何を考えているんだろう。
しっかりしなきゃ。
「昨日は眠れました?」
「まぁまぁ眠れたかな。夜中に一度目が覚めたけど」
「ん? 何かあった?」
「いや、ほら救急車が来るとバタバタするでしょ。それで目が覚めてしまうだけで。大丈夫です」
一ケ瀬君は、申し訳なさそうに口にした。
「困った事があったら言って下さいね」
「はい」
「食事は食べれた?」
「半分くらいかな」
「少しずつご飯も普通になっていくし、おかずもついてくるようになるから。もうちょっと我慢しててね!」
一ケ瀬君はこくりと頷いて、ポリポリと頭を掻いた。
(少しは落ち着いてきたかな。)
ここに運び込まれてから、繋がれたままの点滴。モニターへと伸びているコード。ある日突然変わってしまった日常は、彼の前に同じ景色だけを与える事になった。
「じゃあ、一ケ瀬君。何か困った事とかない?」
「ん――。ゲームとかしたいんですけど、ダメですか?」
「じゃぁ、後で先生に聞いとくね!」
そのまま私は別の患者さんの様子を見て回った。
日勤とはいえ、救急車はやってくる。
運び込まれた患者さんの容態は様々だ。
慣れない私は必死でついていくしかなかった。
バタバタとして、やっと落ち着いてきた。
「中川さん、休憩に行こ」
先輩の神田さんが誘ってくれた。
「はいっ」
「やっぱり日勤だと食堂で食べれるから嬉しいです!」
「そだねー。夜勤だとムリっしょ? 少しは慣れた?」
神田さんはオムライスを口に運びながら聞いてきた。
「いゃぁ、まだまだです。慌てちゃって」
私もオムライスをパクっと食べる。
「私だって、今でもドキドキだよ」
「そうなんですか? 落ち着いて見えますけど」
神田さんは救急の担当になって三年目だそうだ。
「冷静さは必要かもしれないよね、ミスは許されないから。それにー」
「それに?」
「慣れてしまっちゃいけないって、三輪さんに教わったんだ。三輪さんは本当に凄いからね。本郷先生と三輪さんがいたら、私なんて足手まといになっちゃうんだから」
「へぇ――。私はどうなっちゃうんだろう」
「にゃはは!大丈夫だよ、猫の手よりかはマシでしょ」
と神田さんは笑っている。
ぷうっと私は口を膨らませた。
「ひどっ!」
二人で笑いながらオムライスを食べ終えた。
「神田さん、聞いてもいいですか?」
「何?」
「あの一ケ瀬君なんですけど、頭とか痒そうなんですよね。若いから髪の毛がペタペタして気持ち悪いんじゃないかなぁって」
「あー、確かにね。倒れて雨に濡れたまんまだしねぇ。清拭してもいいか、先生に確認してみれば?」
「はいっ。そうします!」
「なんだ、なんだ、嬉しそうだなぁ?」
神田さんはニヤリと笑いながら私の顔を見ている。
「初めての担当だからです!」
と、私はきっぱりと口にしたけれど。
多分、いや絶対に耳が赤くなっているだろう。
「さて、じゃ行きますか!」
と神田さんが立ち上がったので、私も後を追いかけた。
「アチチチチ……」
私は蒸しタオルの用意をしている。北村先生に許可を貰い、一ケ瀬君の清拭をする為だ。
「一ケ瀬くん、体拭きましょう」
「え、はい」
私はカーテンを閉めた。
「ごめんね、ちょっと服も交換しますね」
点滴があってうまく脱げそうにないので手伝う事にした。蒸しタオルでまずは手から拭いていく。ゆっくりと手首から肩へとタオルを当てていく。
(えーっと、何か話をしなくちゃ。)
「一ケ瀬君は部活とかやってないの?」
「はい、俺は無趣味なんで」
私はゆっくりと腕を拭いていく。
「昨日ね、空の写真撮ったんだよ」
「空?」
「そう。公園の芝生の上に寝転んだらね、空しかなくて綺麗だったの!」
「へへへ、そりゃ寝転んだら空しか見えないですよね。」
一ケ瀬君が笑った。
「あ、そっか」
「でも、いいですね。青い写真」
「"青い写真"かぁ、いいね!」
「へへへ」
蒸しタオルを渡して、体の前の方は一ケ瀬君に拭いて貰った。一ケ瀬君の背中は細いけど大きくて、まだ鍛えあげられていない筋肉がついている。本当ならば、学生生活で走ったりしてかっちりとしていくのだろうけど。
それでも、一ケ瀬君の体は綺麗で私は少しドキドキしてしまう。
(なんで? まだまだ修行がたりないな、私。)
これからたくさんの患者さんの清拭をする度にこんな事ではいけないぞ! 私は自分に渇をいれた。
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