第7話 諦観

「一ケ瀬君、重湯は食べれたかい?」

 本郷先生が俺の様子を見に来てくれた。


「いえ、あれはーちょっと」

 俺は少し困って言葉を止めた。

「ハハハ、正直でいいよ。不味いよなぁ、あれは。実は俺も苦手だ」

 本郷先生はうっすらと髭が生えている。


「一ケ瀬君。今日は検査をするからね。とりあえず予定通りに、心電図とCTと。痛くはないから安心して下さい」

「はい。お願いいたします」

 俺は点滴に繋がれた腕を見つめながら答えた。


「怖かったろ」

「へっ?」

「昨日みたいになると、やっぱり怖いよな。一ケ瀬君は、まだまだ若いし」


 俺はどう答えたらいいのか迷っていた。

「あー、ゴメン! 怖いに決まってるわな。でも、検査でちゃんと見つけるから。一ケ瀬君の心臓のどこが悪いのかを、ちゃんと見つけるから。そして、話をたくさんしよう! 僕はね、一ケ瀬君の病気が治るように手助けをするから、頑張ってついてきて欲しいんだよ。だからね、話をたくさんしよう!」


「はい、お願いいたします。」

 俺の目から、静かに涙がぽとんと落ちた。

「看護師の中川でもいいし、僕でも構わないよ」

 本郷先生は俺の肩にそっと手を当てた。

「ありがとうございます」

「じゃ、あとでな!」

 本郷先生は仲間との待ち合わせのように言って、カーテンを少し閉めて他のベッドへと向かった。



「大田さん、まだ痛みますか?」

「イテテテテテテ! 先生、そこ痛いの分かってるでしょ!」

「ハハハハ! そうでしたね!」

「絶対、わざと……」


 本郷先生の声を聞きながら、俺は涙を拭った。

 またこれからも不安な夜は訪れるだろう。でも俺の気持ちを理解しようとしてくれている本郷先生がいる。


 俺はしっかりと検査を受ける決意をした。

(いや、決意なんてしなくても勝手に連れていかれるんだろうけど。)


 窓の外に視線を移す。俺が倒れてしまってからも世の中は何事もなかったかのように世界は回っている。

 遠くの海がキラキラと輝いていた。




 あのふんわりとした看護師さんがやってきた。

「一ケ瀬君、先生から聞いてるかな? 今から検査に行きますね!」

「はい、お願いします」


 俺はいつものように立ち上がろうとしたが、あまりうまく力が入らなかった。

――落ち込むわ……。


「一ケ瀬君、急に色々あったんだから仕方ないよ! 気にしない、気にしない!」

 三輪さんは、おおらかというか、なんというか。とにかく俺の体力と気力は急に落ち込んでしまった。



 車椅子に乗せられて、病院の中を移動する。エレベーターを待っている時、ひとりの女性が近づいてきた。

「一ケ瀬君、これから検査?」


 良く見ると中川さんだった。

 勤務を終えて私服に着替えていて、すぐに中川さんだとわからなかった。

 ひとつに束ねてあった髪の毛もほどいている。


「中川さん、お疲れ様! 明日は休みだね、明日も行くの?」

 三輪さんは俺の車椅子の後ろから声をかける。それにしても、元気な声だ。


「はい。天気が良さそうなので!」

 中川さんは、肩にかけた鞄を持ち替えながら答えた。


「一ケ瀬君、検査頑張ってきてね!  ま、横になってるだけだけどね」

「はい」


 一緒にエレベーターに乗り込んで、俺は途中で先に降ろされた。

「中川さんね、写真撮るのが趣味なのよ。休みの日はね、カメラ持って出かけるんだって。撮った写真もね、素敵なの。今度見せて貰うといいわよー」

「へぇー」


 そういえば、窓の外を見ながら言ってたな。

『どこを切り取っても美しい』

 そう言っていた中川さんの横顔を、ふっと思い出していた。


(カメラかぁー。かっこいいなぁ。俺は全くの無趣味だもんなぁ。映画を見るのが好きなだけだもんなぁ。)

――あ、ポテトチップスとコーラ。

 もうできないのかなぁ。

 俺はかなりのダメージを受けている。



 ベッドに横になって、小さな吸盤のような物を体に付けられている。

 心電図の検査は、本当に横になっているだけだった。



「一ケ瀬君、次はCTの検査に行きますね。少し移動しまーす」

「お願いします」

 俺はおとなしくしていた。


 CTの検査が終わって病室に戻ると母ちゃんが座っていた。

「あら、一ケ瀬さん。こんにちわ!」

 三輪さんは俺の頭の上から俺の母ちゃんに声をかけた。

「こんにちわ。お世話になってます」

 母ちゃんは頭を下げていた。


 別に悪い事をしたわけではないんだけど、何だか俺は少し申し訳なく思ってしまう。


「颯真、体調はどう?」

「ぅーん。昨日の夜もちょっと……」

「えっ、なんかあった?」

 母ちゃんには心配かけたくはないんだがなぁ。


「ちょっと苦しくなって、ボタン押しちゃった」

 と、ナースコールをチラッと見た。

「……そう」

 母ちゃんは少し悲しそうな顔をしていた。

 困るんだよな、その顔。


「あのさ、母ちゃん。塩分六グラムって、どれくらい?」

「何よ、急に」

「なんか色々書いてあるんだよ。水分しっかり取るとか、塩分の摂取量だとか」

「塩分ねぇ、お母さんもわからないや」

「はぁ――――」

 俺はため息をつくしかなかった。


「うわっ、長いため息! お父さんにそっくり!」

 と母ちゃんはケタケタと笑う。

「あ"ーもう!」

(その笑い方は凪に遺伝しているぞ。)


 俺はイヤホンを耳にはめて、音楽を聴く事にした。

 少し切ないメロディーが俺の心に染みてきた。

 窓の外には水色の空が広がってちぎれた白い雲が流れている。山の緑は美しく、所々に咲く花の色がまばらに見えていた。


 俺はこれからどうなるのだろうか。


 看護師の三輪さんがやってきた。

 俺はイヤホンを外した。

「変わりない?」

「はい、大丈夫です」

「良かった。お母様も一緒にあちらのお部屋に移動しましょうか。今日の検査についてお話をしましょうって」


 俺はまた車椅子に座って、部屋へ移動した。


「宜しくお願いいたします」

母ちゃんが最初に頭を下げた。

「これからの事を話をしましょう」

 本郷先生が俺に優しい顔を見せてくれた。

 先生のうっすらと伸びた髭はまた少し濃くなったように見えた。



「――心筋症?」

 パソコンに映された俺の心臓は、どこが悪いのかなんて俺にはわかりはしない。


「心臓ってね、ポンプみたいに血液を押し出しているんですよ。でも、一ケ瀬君の心臓の筋肉には異常があって、うまくポンプの役目を果たせていないんです」


 本郷先生は、一度会話を止めた。

 母ちゃんが泣いている。


「母ちゃんが泣くことないだろ」

「そうだけど」

 本郷先生と目が合った。本郷先生は何も言葉を発する事なくゆっくりと目を閉じて開ける。

 俺はふぅっと息を小さく吐く。


「先生、俺の病気は治るんですか?」

「それを詳しく調べていきたいと思っています。なの  

で、暫くの間は入院が必要になります」


 高校3年になったばかりなんだけどな。


「一ケ瀬君、まずはお薬を飲んで下さい。そして、食事! まぁ、今はまだお粥だけど、少しずつ普通のご飯になるからね。ただし、減塩食になります」


 これか、塩分摂取目安六グラムってやつ!


「それで、少し体力がついたら、カテーテルっていう細い管を入れて検査しようかと思っています」

「カテーテル?」

 少し落ち着いた母ちゃんが口を開いた。


「そうです。そのカテーテルで心臓の筋肉の異常がどうなっているのかを詳しく調べる予定です。一ケ瀬君、大丈夫そうかな?」


「やるしかないんですよね?」

「そうだね。お薬を飲んで様子を見ながらになるけどね」


「先生、助けてくれるんですよね? また、昨日みたいになっても。助けてくれるんですよね?」


 俺は本当は怖くてたまらないんだ。

 また心臓が止まってしまったら……。


「一ケ瀬君。僕は何度でも助けるよ。だから、たくさん話をしよう。お母様も一緒に。お父様とも、一ケ瀬君とも」


「お粥、不味いけど俺、食べるわ!」

俺は本郷先生の顔を見ながら少し笑った。

そうするしかないんだからな、半分諦めで。

残りの半分は、希望だった。


「おう、食べてくれるか! 薄味だけどな。ハハハハ!」

「先生、俺はポテトチップスとコーラが大好物なんだよ」


「颯真、何いってんの?」

母ちゃんは俺の痛い左肩を叩いた。

「イテッ!」

「ハハハ!ポテトチップスとコーラは確かに間違いないな」


 本郷先生も笑っている。

「残念ながら、今の一ケ瀬君が一番食べてはいけないやつだな。検査しながら、様子を見よう!」

「チェッ……」


 そんな風に、俺の病気は伝えられた。


――心筋症。

 俺はこんな病気になってしまった。


「ごめんね、颯真」

「だから、何で母ちゃんが泣いて謝るんだよ」

「お母さん、もっと早く気づいてあげられなかったのかな」

「んなもん、わかるかよ」


 そりゃ、俺だって好きで病気になったわけではないし。けど、母ちゃんが悪いわけでも、父ちゃんが悪いわけでもないんだから。


「なあ、母ちゃん。凪には詳しく話さないほうがいいかもしれないな」

「そうだね、また大騒ぎしてビービー泣くだけだわ」

「ぉん。頼むわ」


 こんな風に、俺の闘病生活は始まった。

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