第151話 ソーマ

 馬車に揺られるプリエナとルシウス。


 対面には、杖の四聖ナリスと月命神ソーマの大巫女リシータが並んでいた。

 2人ともほがらかだ。


 剣衆と杖衆に取り囲まれた後、なかば連れ去られる形でソーマ神殿へと向かっている最中である。


「ねえ、プリエナ。剣衆つるぎしゅうを残して来たけど、本当に大丈夫?」


 匿っている巫女候補サイの名前に触れないように、ぼかした聞き方をするルシウス。


 もともとサイは、剣衆が守護するヴァルナ神殿にいたのだが、命を狙われたためにかくまっていたという事情がある。

 

 その両者が目と鼻の先ほどの距離にいるのだ。母アヌシュカと息子タイラスが付いているとはいえ、心配である。


「槍衆のパラヴィスが帰ってきたから、多分大丈夫だと思うよー」


「確かに」


 馬車へ乗る乗らないの押し問答をしている際、パラヴィスが帰ってきた。

 その時のあごが抜けそうなほどに、愕然がくぜんとした表情は哀れの一言。


 ――家が細切れにされてたからな


 苦笑いを浮かべたルシウスに対して、月命神ソーマの大巫女リシータが話しかけてくる。


「さきほどから、なぜ貴方はルーシャルのことを、プリエナと呼ぶのですか?」


「呼び分けるため、ですかね」


「呼び分ける?」


 月命神ソーマの大巫女リシータが不可解そうに首をかしげた。


「ええ、ルーシャルはもう1人いますので」


 本来、ルーシャルとはプリエナの生家であるソウシ=ウィンザー家の跡取りの名である。そして、その跡取りであるルーシャルとプリエナは双子でもある。


 プリエナは共和国に住んでいた時からルーシャルと名乗り、帰国してからもルーシャルの影武者として生きてきた。


 そのため自分だけの名を持たなかったのだ。


 前世で役割スペアとしての名前しか与えられたなかったルシウスは、それを良しとせず、1人の人間として、プリエナと呼ぶようにしている。


「ふーん。ねえ、ルーシャル。私もプリエナって呼んだ方がいい?」


「そうねぇ、プリエナの方が嬉しい⋯⋯かも」


 横目でルシウスを見ながら、プリエナが気恥ずかしそうに同意する。


「わかった。ルーシャ⋯⋯プリエナがそう言うならそうする」


「よろしくね〜」


 手をひらひらとさせるプリエナへと、ルシウスが話しかけた。

 大巫女に対して、まるで友と話しているかのような軽さである。


「ところでさ、プリエナと大巫女は顔見知り?」


「相部屋だったのよ、巫女候補時代に」


「大巫女と?」


「たまたまねー。ま、私の式ラーヴァナはソーマの眷属神だし、巫女候補は成績や魔力量で住む寮が選別されるから、人数も少なかったけどね」


 何でもないかのように言うプリエナに対して、月命神ソーマの大巫女リシータが慌てて話に入ってくる。


「ルー⋯⋯っじゃない、プリエナ。たまたまは無いんじゃない? ずっと同じ部屋に住んでたじゃない。あんなに恋バナに花を咲かせた仲でしょ」


「こ、恋バナって! 子どものときよ!? あれは恋なんかじゃないわよ」


 リシータがピシッとプリエナを指さした。


「でも、私は覚えてるわ。プリエナがかっこいいって言ってた聖戦士見習いの人」


「ひえぇ!? な、何言い出すのよ!?」


 幼少期の暴露話に、戸惑い始めたプリエナ。仮面の下にある瞳がチラチラとルシウスへと目をやっているようだ。


 それに興味をそそられたのは月命神ソーマの大巫女リシータ。

 ジト目でルシウスを見つめ始めた。


「へぇ、今はそういう人が好みなんだ? 確かに顔は良いほうだけど。昔はもっと男らしくて、たまに可愛いところがある人が好みだったのに。守ってあげたくなるような人が気になる年頃?」


「ち、違うわよ!! 全然、ち、が、う!!」


「もう照れちゃって」


 月命神ソーマの大巫女リシータがニヤニヤと笑う。


「照れてない! それにルシウスは凄く強い人だから! ⋯⋯って、そうじゃない!!」


「うーん、強い? 彼、魔力量が少なそうでけど?」


 リシータは全く信じていないようにルシウスを覗き込む。

 

 仕方がない。

 ここ2ヶ月で魔力量が増えたとはいえ、3体の式が魔力を無尽蔵と思えるほどに喰らい続けている。

 残存魔力は以前より増えているが、特級の人間がごろごろいる共和国からすれば、少ない方だろう。


「いや、リシータ嬢、この小僧は見どころがあるぞ」


 を唱えたのは老人。

 大巫女リシータの横に座っていた杖の四聖ナリスである。


「儂はおろか、ヤマの再来と称される天才アークにすら気おくれしなかった。戦いは魔力の量だけでは決まりはせん。魔力の通わぬ刃でも首に10cmほど切られれば人は死ぬ。肝心なのは、どんな相手の間合いにも踏み込む覚悟よ」


 聖杖ナリスの言葉に、ため息を付いた大巫女リシータ。


「ナリス様は、そうやって才能がありそうな若い人を、いつも引っ張ってくるんですから」


「ほっほ、仕方あるまいて。杖衆つえしゅうは槍衆にいで、人気がないからの。どうしても若い者は剣だの弓だのに行きたがる。剣と弓の才がなくとも使命感が強い者は盾を選ぶ。その結果、儂もこの齢まで四聖をやるハメになっておる。いい加減、次の世代に引き継ぎたいの」


「杖衆だけではありません。月命神ソーマも他のクアドラ神に比べたら地味ですから、巫女達にも人気が⋯⋯」


「布教をがんばるしかないのぉ」


「ですよねぇ」


 まるで祖父と孫の日常の会話でも聞かされているかのようだ。


 ――なんか調子が狂うな


 2人はこう見えても共和国の最高権力者に名を連ねる者たち。

 大巫女は信仰の対象であり、四聖は最高戦力。共和国の聖域に潜り込んでいるルシウスにしてみれば、あまり同じ空間に長居したい相手ではない。


「ねえ、プリエナ。気になってたんだけど、何でそんな面を付けてるの? 正直、オシャレには見えないわよ」


 また大巫女リシータがプリエナへと話かけた。


「仮面の下、見てみる?」


「うん、うん、かわゆいお顔を見せて♡」


 プリエナはゆっくりと鉄仮面を外した。


 仮面の下にあったのは焼かれた顔。


 ほのぼのとした雰囲気から一転、2人の視線に鋭さが宿る。


 直後、月命神ソーマの大巫女リシータから怒りの込められた魔力が溢れ始めた。魔力量は先日見たアグニやインドラの大巫女と遜色そんしょくがない。


「⋯⋯何があったの」


 ひどく落ち着いた声になる月命神ソーマの大巫女リシータ。


「王国で色々あってねー。顔を焼かれて、処刑される所だった」


「誰に?」


「うーん。あえて言えば、お父様かな」


「⋯⋯少し前にあった帝国との戦いと関係ある?」


「うん。まあ、そんなところ〜」


 適当にはぐらかそうとするプリエナ。

 たいしてリシータが悲しそうに焼けたほほへと手を当てた。


「何で? 何で、すぐに私の所に来なかったの? 私が嫌いになった?」


 首を振るプリエナ。


「ううん、リシータのことは好きだよ。だからよ」


「どういう意味?」


「力を使わせたくないの。この顔見たら、リシータはソーマの力を使おうとするでしょ」


「当たり前よ。こんなのって⋯⋯プリエナは女の子なのよ。何て酷いことを⋯⋯」


「まあ、私もこんな顔になって泣いたこともあるし、落ち込むこともある。てか⋯⋯毎晩。でもソーマの力はリシータの寿命を縮める。友達の命を削ってまで治したいとは思わない」


「⋯⋯プリエナ」


「だから、このままで大丈夫ー」


 プリエナは焼けただれた顔で、無理やりに笑みを作った。

 その笑みを見たリシータの表情が、今まで見た中で一番真剣なものとなる。



「ナリス様、お願いします」



「よいのか?」


 リシータが揺れる馬車から空を見る。


「ええ、今日はですから」


「確かにのぉ」


 四聖ナリスが言葉を終えると同時。


 一切の予備動作がなく、杖を突き出した。



 刹那せつな、恐ろしく素早い突きであると察知。


 ――早いッ


 杖を防ぐため、咄嗟にさやごと剣を突き出すルシウス。

 だが、杖は止まらない。


 ――曲がった!?


 杖がぐにゃりとうねり、剣の柄を避けるようにプリエナのみぞおちへと食い込んだのだ。


 抵抗するまもなく、プリエナがうなだれる。


 ルシウスはすぐさま剣を抜刀――できなかった。



 眼前に杖が突きつけられたのだ。



「安心せい。ただ気を失わせただけじゃ」


 ルシウスは杖聖ナリスをにらみつける。


「なぜ」


「満月状態のラーヴァナに暴れられては、建物が壊れすぎるからの」


 四聖ナリスは杖を引っ込めた。実際に他意が無いことを示したのだろう。

 杖をしまったのを確認してから、プリエナへと目をやると確かに気を失っているだけのようだ。


「うむ、やはりいいの。言葉ではなく、杖をしまってから目をらしおった」


 四聖ナリスが白いあごひげをなでる。


「反応や良し。判断も良し。リシータ嬢とその娘が旧知と知っても警戒を解かなかったのも良し。おそらく、その若さで相当な死線を超えてきておるの⋯⋯だが、2つ間違いをした」


「何でしょう」


「1つ、馬車に乗ったこと。杖は斬れもしなければ刺す事もできぬ、ただの短い棒。だが、その柔軟さゆえ、こういう狭い空間では無類の強さを持つ。2つ、その娘を守ろうとしたこと。娘を無視して、儂に斬りかかればよかった。そうすれば死んでいたのは儂じゃ。お主の腕なら容易かろう」


「⋯⋯仲間を守るのは当然です」


 ルシウスの言葉に四聖ナリスが満面の笑みを浮かべる。


「うむ、やはり良い。我ら聖戦士は敵に勝つことや殺すことが目的ではない。巫女を守ること、ただそれだけの存在じゃ。そういう意味ではお主の動きは満点に近い。どうじゃ? 四聖を目指して見ぬか? お主の出自は問わぬ。お主なら10年、いや5年修行を積めば手が届く。それだけの才がある」


「ありがたいお言葉ですが、自分になすべきがあります」


「そうか、残念じゃのぉ」


 四聖ナリスは全く諦めていない様子でヒゲをさする。老獪ろうかいさからか、今は無理に攻めるより機を待つべきと判断したのだろう。


 そんなやり取りをしていると馬車が止まった。


「ソーマ神殿に着きました」


 馬車がついた場所は、奈落の中央に浮かぶ4つの大岩の1つ。

 隣の岩山であるヴァルナ神殿には、以前、行ったことがある。


「ルシウスさん、といいましたか。プリエナを運んでもらえますか? 気を失っている間に見知らぬ方に介抱されるのは嫌でしょうから」


 大巫女リシータが馬車から降りながらお願いする。これから何が行われるのかはわからないが、悪いようにはされないだろう。


「⋯⋯ええ」


 ルシウスは気を失ったプリエナを両手で抱えた。

 確固たる信念を持ち、特級の式を持つ巫女という存在ではあるが、軽い。普通の女の子のようだ。


 馬車から降り立った場所は岩山の頂上付近にある神殿である。

 造りはヴァルナ神殿とほぼ同じで、花崗岩かこうがんで作られた巨大な建造物だ。


 当たり前のように大巫女リシータと杖聖ナリスが神殿へと入っていく。それにルシウスも続くしか無い。


 神殿の中には、多くの神祭司や聖戦士たちが居るが、2人が歩く様子が目に付くと、皆、立ち止まり頭を下げる。


 ――本当に大巫女と四聖なんだな


 そんな様子を眺めながら、黙々と階段を登っていく4名。


 着いた場所は神殿の最上部、つまり屋上だ。


 空には秋の夜空に、一際大きな満月が輝いている。

 標高が高いためか、吹きつける風は冬の訪れを感じさせる程に冷たい。


 屋上は真っ平らな円盤のようになっていた。

 円形の屋上には複雑な模様が彫られている。以前、オルレアンス家かどこかの書物で見た魔法陣にも似ている。



 だが、違う点が1つ。


 ――何かある


 魔法陣の中心に、翡翠ヒスイで作られたやしろがあるのだ。

 人の手のひらに収まりそうほどの大きさである。


 心当たりがある。

 もっと簡素なものであるが、似たものをルシウスは目にしたことがあった。

 王国で詠霊をまつる寺院の最奥に安置してある祭壇だ。


「詠霊の祭壇か」


 あの小さな祭壇の中に詠霊が住んでいる。正確には、祭壇の中に広がる亜空間に、である。


「そうです。あれは月命神ソーマの祭壇。今はこちらに居りますので、祭壇は空です。それでも神聖な場所であることには変わりありません」


 大巫女リシータがのどの上あたりを軽く指さした。詠霊と契約するための詠口魔核を示しているのだろう。


「クアドラ神の一柱が還る場所となれば、神聖視されるでしょう」


 ルシウスの言葉にリシータが首を振る。


「ソーマは巫女達へと切れ目なく継承されますので、祭壇が使われることはあまりありません。ですが、あの中にはソーマの卵があるのです」


「ソーマの卵?」


 大巫女リシータと四聖ナリスがルシウスへと含みのある視線を送った。

 おそらくノア教の上層部しか知らぬことなのだろう。


「上級の詠霊たちは、祭壇の亜空間に次世代の卵を産み落としているのです。もし当代のソーマが死したときでも、ソーマの魔石を祭壇へ還すことで次のソーマが誕生します。そうしてクアドラ神は悠久ゆうきゅうに渡り世界を維持してきました。ノアの浸礼が最も守らなくてはならないのは巫女でも、クアドラ神でもなく、この『連なり』そのものです」


 魔物は生物である。そのため死を迎えることも当然ある。

 この世界を維持しているとされるクアドラ神が死んだときには、どうするのか疑問であったが、どうやら次世代の種を残しているようだ。


 そして、同時にあることが頭に過る。


 主神が一体、欠けている。


 以前パラヴィスが言っていた。


 神を殺し、神を取り戻すと。


「⋯⋯ヴリトラ神を取り戻すというのは、そういう意味か」


 進化してしまったヴリトラを殺し、その魔石を祭壇へ捧げることで次世代の個体を誕生させようとしているのだろう。


 説明を終えた大巫女リシータが、中央の祭壇の前ヘ、手を差し向ける。


「こちらにプリエナを」


 言われるがまま、ルシウスはプリエナを祭壇の前へと置き後方へと下がった。


 大巫女リシータは、プリエナを挟む形で、祭壇へとひざまづき、歌い始めた。讃美歌あるいは頌歌しょうかと呼ばれるものらしい。


 美しい歌声が夜の暗闇に響き始めると、すぐさま床が光り始めた。


「これは⋯⋯」


「体の中にある魔力だけでクアドラ神を顕現させるには、命を使いすぎる。ゆえに歴代の大巫女たちの魔力が蓄えられた魔法陣を補助として用いるのじゃ」


 杖聖ナリスが真っ直ぐとリシータを見つめながら、ルシウスへ聞こえるように話す。


 ――大巫女も制約無くで顕現できるわけじゃないのか


 式の術式を発動させるために、魔力が同化している契約者の魔力を使わなくてはならない。第三者の魔力を使うことも可能ではあるが、魔力には精神が宿るため、他者の魔力を取り込むことは苦痛を伴う。


 ならば過去も含めた契約者たちの魔力をどこかに貯蔵しておくというのは、合理的だ。神殿という建造物は権威の象徴だけでなく、大巫女の魔力を貯蔵し、クアドラ神の顕現を補助することが元来の役目なのかもしれない



 ソーマの大巫女リシータの顔が苦痛に歪んだとき、屋上に刻まれた魔法陣の光がより一層強く灯った。


 足元の魔法陣から膨大な魔力が流れ出て、神殿の屋上を覆っていく。

 肺の中にまで魔力が流し込まれたように感じ、思わず口を覆ったルシウス。


「なんて魔力濃度だ⋯⋯」


 ほどなく魔力濃度が頂点に達した時、ゾクッと神経が逆立つような感覚を覚える。

 強大な存在が持つ放つある種の威圧が、体を駆け巡った。


 間違いなく月命神ソーマの顕現である。


 だが、大巫女リシータの背後には魔法陣が出現していない。

 通常、詠霊を顕現させる際は、契約者の背後に亜空間と繋がる魔法陣が浮かび上がる。


 ――どこだ?


 素早く周囲を見回したルシウスの視点は、自分の足元で止まった。


 屋上に刻まれた魔法陣の中に広い空間が広がっているのだ。顕現の補助としても魔法陣を代用することで、大巫女への負荷を軽減させているのかもしれない。


 ルシウスの足元に広がる広大な亜空間。


 その最奥に何かが居る。



「あれが月命神ソーマ」



 大樹。


 月のような淡白い球体を包むように、根を降ろした大木である。


 そして大樹の頂天に女が1人、腰掛けていた。

 座っているのか、それとも木と下半身が一体になっているのか、よくは見えないが、その女がとても美しいことだけは離れていても不思議と理解させられた。


 おごそかでありながらみやびな雰囲気をまとった天女のような佳人かじんは、幻水神ヴァルナと同等の存在感を静かに放っている。


 クアドラ神を目にするのも2回目ともなると、以前ほどの驚きはないが、やはり生きた心地はしない。


 ――やっぱりサマエルに迫る存在だ


 ソーマが微笑むと、大樹が一瞬で果実を成した。ザクロに似た無数の実は、熟れると同時に光を放ちながら弾け飛ぶ。


 すぐに亜空間が白い光で埋め尽され、溢れ出るように魔法陣からも淡い光の粒子が立ち昇る。


 ルシウスは光の粒子を目で追うように、視点を亜空間から大巫女リシータとその前に横たわるプリエナへと戻した。


 無数の光を浴びるプリエナに変化が現れる。


「⋯⋯⋯⋯顔が」


 光の粒子が当たると、みるみるうちに火傷のあとが消えていくのだ。


 最上級の治癒術は身体の損傷を復元すると聞いたことがある。


 治癒系の術式は怪我や損傷を治すが、四肢の欠損などの形を失った場合、元通りにはならない。あくまで傷をふさぐだけである。


 ――これがソーマの術式


 魔法陣から漏れ出た淡い光が、ルシウス周りにも漂い始めた。


 とても心地良い。

 暖かくも、冷たくもない光ではあるが、心が落ち着くような不思議な感覚だ。


 それには覚えがあった。

 生命力を与える雨を起こす驟雨しゅううの術式だ。


 その完全上位互換とでも言えば良いのだろうか。


 ただ傷を塞ぐために、細胞分裂を活性化させるような簡単な術式ではなく、生命力そのものを与え、引き出し、本来の完全な姿形へ戻るように強く促す術式のように思える。

 こレほどの力ならば、おそらく老化ですら、どうにかしてしまうだろう。


 ソーマが放った強力な命の光は、空に耀かがやく満月に引き寄せられているかのように空へ、空へと昇っていく。


 ――月の光に吸い込まれていく


 すぐに光のきらめきは星のまたたきと同化して、見分けがつかなくなった。


 次は空からプリエナへと視線を落すルシウス。


 そこにいたのは顔を焼かれる前の美しい女だ。

 小麦色の肌に、細い手足、凹凸のある体型の才媛さいえん


「完全に元通り⋯⋯か。凄まじい術式をプリエナのために」


 ルシウスの独り言に対して、杖聖のナリスが応えた。


「それだけではない。世界のためじゃ」


「世界のため?」


「そうじゃ。リシータ嬢は、週に1度、月名神ソーマへと讃美歌を捧げる。ソーマの力をあまねく世界へと広げるためにの。また他の大巫女も同様」


「世界中へ術式を?」


 再び満月を見つめるルシウス。

 言われてみれば、かなり薄くはなっているが魔力の残滓ざんしが、月の淡い光に乗って世界中へと降り注いでいるよう思える。


「夜は活力を蓄えるときじゃ。多くの生き物は、月明かりにのせたソーマの力を受けて、その生命力をより一層に輝かせる」


 この世界では不作や不漁による飢饉ききんは、まず起こらない。起こるとすれば、為政者たちの過重な徴税などによる人災くらいだ。


 術式の中には、食物の育成を促す術式があることは知っていた。

 だが、式と契約した魔術師は貴重な存在である。

 その少ない存在だけで、王国や共和国などの一国全土をまかないきれるほどの生産力を維持することができるのか、不思議に思っていたが、根底を支える者が他にいたようだ。


 ――本当にクアドラ神は世界を維持していたのか


 確信に近いものを覚えた。


「それも大巫女たちが、命を削りながら⋯⋯」


しかり。命を削るのがリシータ嬢のさだめとはいえ、通例は万障ばんしょうはいす。大巫女と祭壇の間に、治癒を必要とする者を置くなどもってのほか。じゃが、今回ばかりは本人の希望で置かれておるからの」


 ――プリエナの予想通りだな


 友の命を代償にしてまで、傷を治したくはない。

 そうプリエナは言っていたが、友を思う気持ちはリシータも同様だったのだろう。


「う⋯⋯ここは?」


 プリエナの意識が戻ったようだ。

 あれだけの強力な治癒の術式を掛けられたのだ。失神程度なら目も覚めるだろう。


「プリエナ、治ったよ」


 リシータは嬉しそうにプリエナを見つめる。

 2度3度と周囲を見渡したプリエナが、自分の顔に手を当てた。

 状況を察したようだ。


「何やってるの⋯⋯リシータの寿命、減っちゃったじゃない」


「ううん。ほんの少しだから、いいの」


 嬉しそうに笑うリシータを、悲しそうな瞳で見つめるプリエナ。

 巫女候補サイを見つめていた時、そしてサイが亡き先代を思い出していたときと同じ瞳である。


 ノア教徒にとって、大巫女は敬うべき存在であり、その死は喜ばしいものである。

 そうは信じていても眼の前の大切な人には、生きていて欲しいのだろう。


「⋯⋯いいわけないじゃない」


「いいのよ、これで」


 リシータは満足そうにうなずいた。


「ホント、どうしようもないわね⋯⋯⋯⋯でも、ありがとう」



 疲れた表情のリシータを抱きしめたプリエナのほほに涙が伝う。


 そのしずくは月の光のように、とても美しいものに思えたルシウスであった。

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