第42話 領主と領主
オマリー伯爵の私室には、薄い煙が充満していた。
「オマリー様ッ!」
その部屋の外から伝令が声をあげる。
反応は無い。
困った伝令が周囲を見回すと、部屋の前にあるホールで控えていた側近の男が
伝令は口を手で塞ぎ、嫌々、中へと足を踏み入れる。
中に入ると、浅く椅子に腰掛けた領主の姿を見つけた。
オマリー伯爵の目は焦点が合っておらず、口からは、よだれを垂らしている。
部屋の壁際には、まだ成人していない少年たちが裸で転がっていた。少年たちは虚ろな表情を浮かべ、煙に当てられたのか、感情が抜け落ちたような者も多い。
「オマリー様をお連れしろ」
伝令が指示をすると背後から3名の兵が部屋へと入り、よだれを垂れ流すオマリーを部屋から運び出した。
部屋の前の広間へと運び出されたオマリーは、気付け用の蒸留酒を口へと無理やり流し込まれる。
すると、しばらく視点を泳がせた後、近くにいる伝令に初めて気がついた。
「……どうした」
「街に魔物が溢れております」
伝令は簡潔に伝える。
「それがどうした」
「え? いやですから」
「チッ、お前はクビだ。さっさと消えろ。なぜ私が同じ事を2度も言わねばならん」
オマリーは近くにいる別の兵を、
「ハッ」
「聞いたとおりだ。この伝令を城の外へ捨ててこい」
兵は冷や汗を流しながら、指示に従う。
「オマリー様。やはり
オマリーは濁った目で窓の外にある建築中の霊廟へ視線を移す。
その目は街ではなく、いつか己が入る霊廟だけを食い入るように見つめている。
「そうか」
「ですがオマリー様。タクト領の領主にはなんと説明すればよいものか」
タクト領の領主オリビアのことである。
「あの小娘の自業自得だ。だから、ユウを差し出せと言ったのだ。それに四大貴族とはいえ今はたかだか子爵。文句を言ってきたら金を握らせればよい」
霊廟建設という
払える金すらもう領には無いのだが、オマリー伯爵はその財務状況を気にしたことはない。
仮に払える金があったとしても、大量の魔物を隣領へ放ったのだ。
既に金だけで穏便に解決できる話ではないことを、側近の男は理解していた。
だが、この側近も自分の立場を使い、甘い汁を啜ることに慣れてしまった人間である。いざとなったら狂った領主など、見限ればいいと言う腹づもりであった。
「さすがの
「ふん、そんなこともわからんか、愚図が」
オマリーは己への賛辞へ満足したのか、気付け用の酒を更に口へ注ぎ込んだ。
「只今、到着いたしました」
駆け足でホールへと入ってきたのは、かつてユウと決闘した女騎士。
「遅いッ!」
手に持った酒瓶を投げつける。
女騎士は避けず、頭に当たった瓶が割れ、全身が酒まみれになってしまった。
「……申し訳ございません」
それでも微動だにせず、オマリーを見据えている。
「お前たちのせいだからな。アレの分身をお前たちが抑えきれんから、我が領で、暴れておるそうではないかッ」
「申し訳ございません」
言葉では謝罪したものの、女騎士は数日前から、もはや騎士だけで、抑え切れない事を報告していた。
だが、オマリー伯爵はそれを読んでいなかったようだ。
「何のために、戦場帰りの兵たちへ高い金を払っていると思っているのだ?」
「ハッ。領民の避難を急がせます」
「はあ? 馬鹿か、お前は? そんな事は、せずともよい。退避などさせたら、霊廟の建設が遅れる」
女騎士はオマリーの表情を見つめ、本気であることを確かめた。
「……承知しました。では、アレの分身達の掃討を急がせます」
「分かってるなら、さっさとやれ、まったく。あと、あの邪竜のガキへ一言伝えておけ。わざわざ私自ら行ってやったのだ、約束を果たせと」
オマリーは投げつけた酒の代わりとなる酒瓶を、再び手に取った。
注ぎ口から直接、酒を口へと流し込むと酔いが回り、やや気分が乗ってきたらしい。
「まあ、考えようによってはいい憂さ晴らしにもなる、か……。我が騎士団は前線帰りの猛者ばかり。血に飢えているだろうから、多少なら暴れて構わん。私は寛大な領主だ」
「……」
女騎士は
「それと、あの娘の件だ。今すぐ
「ユウを始末し、居場所を失わせた後、ホノギュラ領で捕縛するという、お考えだったのでは? 他領の人間を無理やり連れ去るとなると、リーリンツ卿の監視の目に止まり、蚩尤のことが露見する、と」
クラークの娘ローレンは、タクト領での信頼があるユウが扶養しているからこそ、生活ができている。
もしユウが居なくなれば、タクト領に居場所はなくなる。必然、ホノギュラ領へと足を踏み入れるという考えであった。
「仕方あるまい。状況が変わったのだ。、今すぐ、アレを鎮めさせる必要がある」
「あの血筋に本当にそのような力があるのでしょうか?」
「アレの分身たちはタクト領へ向かったのだ。それが何よりの証拠だろう。お前は私の言ったことに従っていればいいのだッ」
「仰せのままに」
「まったく、愚か者どもがッ! 私は部屋へ戻る」
悪態をつきながら、オマリーは再び自室へと戻っていった。
その姿を、ホールから見送った女騎士が、側近の男へと声をかける。
「……本当に領民を避難させずとも、よろしいのでしょうか?」
「どういう意味だ?」
「この領の騎士達は、前線から爪弾きにされた
「略奪が始まると申すか」
「略奪程度で止まればマシでしょうか。平時であれば、そんな者たちでも立たせるだけで多少は治安に役立ちますが、非常時と成れば何が起きても不思議では有りません」
側近の男は爪を噛んだ。
これから起こるであろう災禍の中、自身の溜め込んだ財を領外へ運び出すことだけを考えながら。
◆ ◆ ◆
昼過ぎ、オリビアはベッドの上で、目覚めた。
昨日の騒乱が嘘のような陽気である。
「気分はどう?」
横に居たルシウスが声を掛ける。
上半身を起こそうとするが、痛みが走ったのか顔をしかめた。
「頭が痛いし、とても気分が悪いわ」
「魔力を限界まで使ったみたいだからね。今日一杯は動けないと思う」
「それもそうね」
オリビアは当然のように応えた。
そして視線を扉へと移す。
「それで、部屋の前で待ってる人たちは?」
今、オリビアの私室に居るのはルシウスだけである。
だが、部屋のすぐ外には何人も詰めかけており、雑然としている。
皆、声は潜めているのだが、何人も集まれば、どうしても音は立つ。
「入ってもらう?」
「少し待って」
オリビアがゆっくりベッドから降り、近くにあったカーディガンを羽織る。
まだ足元が
すぐにルシウスが、それを支え、肩を貸した。
それでも表情だけは、領主としての
「どうぞ」
体調を崩しているとは思えないほど澄んだ声を掛けた。
扉の向こう側で何度か小声でやり取りがあった後、ゆっくりと扉が開く。
扉の先には兵士や侍女、従僕達が廊下に所狭しと並んでいる。
皆、どう顔向けすればよいのかもわからない様子で困惑していた。
至るところに包帯を撒いている1人の兵が進み出る。
牛の獣人を顕現させていた、兵長である。
兵長は扉の前の廊下で、片足を付いた。
「オリビア様、ご体調はいかがでしょうか?」
「よくはないわ。それより、被害状況をまとめてもらえないかしら? 本来は私がやりたいのだけれど、今まで眠ってたみたい。不甲斐ないわね」
既に日は高い。
本来であれば、徹夜でも街の状況を確認する必要があった。
「ハッ。既に、各代官へ伝令と兵を送り、領内の被害状況は取りまとめている最中でございます。また、残党もルシウス殿に対処いただいた為、現在、領内では新たな個体は見つかっておりません」
「あら、それは助かるわ」
オリビアが少し驚いた様子だ。
今まで、こういった実務は放棄していた者ばかりだ。
兵長の男が膝を着いたまま話を続ける。
その表情には強い
「本来であれば領主様の手を
男の背後に居た兵たちも、一斉に
「それは知ってるわ。日頃から訓練も形式的なものしか、行っていなかったことも」
「申し訳ございません」
兵長が視線をあげ、次はルシウスを見た。
「ルシウス殿とその守護竜にも改めて感謝を」
オリビアの目が丸くなる。
「守護竜って?」
「この地域にある伝承です。
ルシウスが頭を掻いた。
「何度も違うって言ったんだけどね。むしろ邪竜だし」
「ともかく、今回の事態に対処できなかった責任は兵長である私にあります。いかなる処罰も受ける覚悟です」
兵たちの顔が強張り、緊張に包まれる
「そう。それならば再びタクト領へ忠誠を誓いなさい。私に誓う必要はないわ。でも、民を守るべき兵がその様子では民が不安でしょう」
少女の言葉に、兵たちは驚きを隠せない。
「あ、の……ですが、私たちは」
オリビアが言葉を続けた。
「私は確かに北部の人間。ですが、このタクト領の領主となったときから、タクト領民の剣であり盾となる覚悟を決めました。その剣が振るわれることに、何の不満も無いわ」
すべての兵が頭が床につくのではないかと言うほど、より深く
そして、兵長の男がオリビアの命令に応える。
「その命に従うわけにはいきません」
その声には確固たる覚悟が込められていた。
「私はオリビア様に忠誠を誓います」
他の者兵達も、次々と同じ宣誓をしていった。
そして、その声が波及し従者たちも皆、膝をついて声をあげる。
オリビアは目を
そして、宣誓が止んだ頃、目を見開く。
「分かったわ。これから皆で、タクト領を建て直しましょう」
「「「ハッ」」」
領主として、
だが、ルシウスの肩へ掛けられた少女の手が、ずっと震えていた事を、ルシウスだけが知っていた。
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