第26話 閑話 マティルダの空虚


 マティルダはシルバーハート領で、商人の第一子として生まれた。

 父は領内を拠点として小さな行商を営み、母は都会へ憧れを持つどこにでもいる田舎の女性だった。


 ただ一つ、母は田舎暮らしに対する嫌悪は度をすぎていたように思う。

 行商の一環で、都会へ出入りする事がある父に、都会の香りを感じていたから、結婚したのだろう。


 上昇志向の強かった母は、現王の出身である西部の習わしである砲手魔核をマティルダに宿らせた。通例、北部は騎獣型の式を持つため、左手に騎手魔核を宿らせるにもかかわらず。


 母はマティルダに言った。

「北部の男なんか選んだらダメ、結婚するなら西部の男。そのために砲魔を宿せるようにしたのよ」


 しばらくは領内で暮らしていたが、マティルダが8歳のころ、母の強い希望で、州都バロンディアへと移り住む事となった。


 母の機嫌は目に見えて良くなり、州都に着いてから、歳の離れた妹と弟が立て続けに生まれた。


 だが、生活は楽ではない。

 生活基盤を変え、一からのやり直しとなった父は朝から晩まで働くこととなった。

 その為、母を手伝い、遊び盛りのマティルダも妹と弟の世話にかり出される。


 それでも文句一つ、言わなかった。

 もともとあまり感情を出すことが得意ではなかった。


 母はマティルダに言った。

「女はもっと愛想よくないとしないと。男はそういう女が好きだから。後、思ったことをすぐに伝えるの、何を考えてるかわからない女もモテない」



 末の弟が生まれ、しばらく経つと母が家に帰らない日が目立つようになる。

 結果、子供達の世話や家事は全てマティルダが行う様になった。


 家事と育児に追われるマティルダに反して、日に日に母の服装は派手になり、外出も頻繁になっていった。


 母はマティルダに言った。

「もっとお洒落しなさい。あの人に似て地味な顔なんだから、いい男を捕まえられないわよ」


 だが、どこにそんな服を買えるお金があるのか不思議で仕方なかった。


 外出回数に比例するように、母はマティルダや妹弟たちを、怒鳴る回数が増えた。

 さらに、情緒も不安定になり、手をあげたかと思うと、すぐに泣きながら謝る様になった。


 もともと勝ち気な性格ではあったが、まるで人が変わったようだ。


 母が変わった理由を知りたくて、前のように戻って欲しくて、様々な人に人が変わる理由を聞いて回った。

 魔骸石が人を変えると聞いたのもこの時だ。


 だが、もともと貧乏な暮らしである。

 貴族でも所持できる家が限られる魔骸石など母が使ったわけもなく、幼いマティルダには母が豹変した理由はわからないままだった。


 それでも、マティルダは不安を口にしなかった。


 信じていた。

 いつか前のように戻れると。


 しかし、そんな少女の願いはあっさりと砕かれる。


 タバコを吸わない母の口からタバコの臭いが頻繁する様になった頃、ついに母は家に帰ってこなくなった。父と子供を残して、家を去ったのだ。


 マティルダは後悔した。

 なぜ、不安を母に伝えなかったのか。

「寂しい」「甘えたい」「もっと私を見て」「捨てないで」と。


 以来、マティルダは不安を口にするよう決心した。


 失意の父と共に、シルバーハート領に戻り、家計を助ける為、侍女として働き始めるようになったのは13歳の頃だった。


 家事の経験と魔力を持っていた事が、幸いした。

 母が与えた家事経験と魔核が予想外の所で役に立ったのだ。


 平民が侍女などするものではない。

 貴族出身者に必ずいじめられ、主からも冷遇される。

 そんな噂ばかり州都で耳にしていたマティルダは恐る恐るドラグオン家の門をくぐった。


 だが、ドラグオン家の夫婦は優しくマティルダを迎え入れてくれた。家族のように接してくれたと言っても過言ではない。


 まだ少女だったマティルダが、働き通しだった父と、蒸発した母の面影を、2人に重ねるのも無理はなかった。


 ――お二人に幸せになってほしい


 そんな中、2人に子供が生まれる。

 ルシウスではなく、最初の子である。


 その子は【授魔の儀】の最中、帰らぬ人となった。

 2人の落ち込みようは、見ていられなかった程だ。


 ――私ができることはなんだろう


 世話になった2人を悲しませないようにすることだけを考えるようになった。


 そして次の子がエミリーのお腹に宿った。

 生まれた赤子はルシウスと名付けられた。


 最初の子を失って以来、屋敷にずっと張り詰めていた重たい空気が、ルシウスの泣き声によって払われていくかのように感じた。


 それでも払拭できない不安をマティルダは抱え続けた。


 【授魔の儀】の当日。

 不安は現実のものとなる。

 魔力を宿そうとした時、ルシウスの心臓が止まったのだ。


 夫婦とマティルダは茫然自失となった。


 子供を立て続けに失う事はそう起るものではないと思っていたが、最悪の事態がおきたのだ。


 その時、お守りとしてシュトラウス卿から借りていた魔骸石が突然、砕ける。

 魔骸石が塵へと変わると同時にルシウスは息を吹き返した。


 エミリーが、泣き叫ぶ中、儀式は続けられ無事に終わった。


 ――良かった。2人が笑っている。


 安心したのも束の間、ルシウスの様子がおかしい。

 あれほど泣き叫んでいた子が、ずっと不思議そうに、周囲を伺うようになったのだ。


 ――人が変わったみたい


 マティルダの頭に自らを捨てて出ていった母の顔が浮かぶ。


 魔骸石は人を変える。


 かつて聞いた噂が頭から離れない。

 ルシウスの成長とともに、それはより顕著となった。

 3歳を過ぎた頃からルシウスはまるで大人なのではないか、思うほどの立ち振る舞いを見せる。


 その姿を見る度に、払拭できない不安を常に抱え続けることになった。


 ――いつかルシウス様は、旦那様を、奥様を、私を捨てて、どこかへ消えてしまうのでは


 そう思うとルシウスの一挙手一投足が、気になり、監視するように見てしまう。


 だが、マティルダの不安をよそにルシウスは背が高くなるごとに立派になっていく。

 特に鑑定の儀の帰り道にゴブリンに襲われて以降は目覚ましい。


 そんなある日、ルシウスが朝早くから慌てふためいていた。


「ルシウス様。こんな朝早くにどちらへ?」


「オリビアが1人で森へ向かったんだ! 早く連れ戻さないと!」


 マティルダは気が動転しながらも、屋敷の中でエミリーの寝所へと向かっていると、家を1人、ルシウスが出ていった。


 ――悪い予感がする


 居ても立っても居られなかったマティルダは、寝ぼけ眼のエミリーへ、伝えるだけ伝えて、すぐにルシウスを追った。


 ――いなくならないでください


 恐怖を堪えて森へと足を踏み入れた。

 至る所から魔物の気配を感じる。

 それでも奥へと進んだのは、ルシウスが消えるのではないかという不安からだった。


 何度も妖精を喚び、ルシウスを探させる。

 元々妖精は感知を得意とする式の中でも、最下級だ。感知範囲も狭い上に、上級の魔物は感知できない。


 恐怖の中、やっと見つけたルシウスはオリビアと一緒だった。


 ――早く連れて帰らなければ


 焦る気持ちに反して、歩けども歩けども村へ、屋敷へとつかない。


 ――何としてもルシウス様だけは


 だが、遂には、眼にしたことも無い程の強大な魔物に襲われる。

 ペルーダ、グリフォン。そして、お伽話でしか存在しないと思っていた竜。


 もう無理だと思った。

 そして恩を返せなかったことだけをただただ悔いた。


「申し訳ありません……連れて帰れませんでした」


 死を覚悟した時、その時、ルシウスが間に入ってきたのだ。

 なぜ逃げてくれないのだ、両親の元に戻らないのかと、怒りに近い感覚を覚えた。



「立派な男爵は、簡単に家族を見捨てたりはしないんですよ。知ってますよね」


 ルシウスは竜と対峙したのだ。

 竜に叩きつけられ、尾で払われ、炎を吹きかけられても、尚、立ったのだ。

 その姿は諦めていなかった。


 幼い頃に何度もおむつを変えたあの小さな赤子が竜と戦っているという信じがたい光景。


 その行動の一つ一つが、自分を捨てた母と似ても似つかないものだった。


 ――ああ、ルシウス様は皆を捨てたりしない


 本心からそう思えた。

 マティルダにとっては、4つの魔核を持っていることよりも、竜を従えたことよりも重要なこと。


 ルシウスは、家族を捨てて消えることはない。

 もう自分が監視しなくても、きっと大丈夫だと。


 安堵するとともに、どうしようもない虚無感もあった。

 胸にぽっかりと穴が空いたような感覚。


 ――



 とある陽気な昼間。


「奥様、ご飯の用意ができました」


「あら、マティルダ、ありがとう。私も一緒に作れればいいのだけれど」


 エミリーは更に大きくなったお腹を擦る。


「いえ、私一人で大丈夫です。今はお体を大事にしてください」


「また一緒にご飯を作りましょう」


「……私はずっと1人でも大丈夫です。家事は慣れてますので」


「マティルダ。私が作った料理はもういらない? 寂しいわ」


「……また、いただきたいです」


「ふふ、でしょ? 」


 エミリーの笑顔がまた不安にさせる。

 この笑顔がまた消えるのではないかと。


「……次の子も元気に育っていただけるでしょうか?」


 不安がまた口からでてしまった。

 はっとして、思わず口を押さえる。


「お腹を触ってみて」


 エミリーはそう言ってマティルダを抱き寄せる。

 マティルダは手をお腹へ優しく当てる。


「動いてるでしょ? きっとこの子も大丈夫。無事に育ってくれる」


 手に温かい胎動を感じる。


「元気に育ってほしいです。私には母の気持ちはわかりませんが、それは本当にです」


 嘘偽りない言葉だった。

 エミリーがマティルダを抱き寄せたまま、頭を撫でた。


「マティルダにも、すぐにいい人ができるわ」


「できるでしょうか」


「ええ、間違いないわ。だって、あなたはこんなに優しい子だもの。今までずっと、ルシウスを気にかけてくれて、ありがとう。あの子はもう、きっと大丈夫よ」


「………………うん」


 マティルダはエミリーの腕の中で涙を流した。

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