第18話 未体験の刺激 3

 写真撮影を再開したが、奈々はまだどこかぎこちない。

 最初に比べればだいぶましになってはいるんだがあともう少し緊張がほぐれてくれれば。


「奈々、確かピアノ弾けたよな」

「ええ、小さいころから習ってたわ」

「この状況に合う曲を弾いてくれないか?」

「……わかったわ」


 再びグランドピアノの前に座った奈々は、鍵盤を前にし、じっくりと見てから優しく指で触れた。まるで、赤子の肌を撫でる母親のような優しさが、その手つきにはあった。


「優しい曲ですね」

「シューマンのトロイメライ。ドイツ語で夢想を意味するんだ。まるで、子どものころの思い出を描くように、優しく、どこか奥深くにノスタルジーを思わせる切なさがある。もう戻らない子ども時代の輝きを、大人になって夢想した時の気持ちを表現した。俺はそう思ってる」

「使われなくなった学校、かつて子どもたちが楽しく音楽を学んでいた教室。もう、子どもたちに音色を届けられなくったピアノ。大人なのに子どものように制服を着る私たち。確かにとても合っていますね」


 なんて優しく切ない表情なんだ。

 俺は、自然と窓の方へと行き開けると、そこから風が室内へと入ってくる。

 揺れるカーテン、わずかに差し込む光、奈々の側に立つ薫の姿。真剣にピアノを弾く奈々。

 

「これだ」


 俺はシャッターを切った。

 

 カーテンに付着していた埃が、風で舞い、光を帯びてふわふわと、まるで幻想空間を作り出すようだった。なんて切なくて、懐かしくて、優しくて、温かい瞬間なんだろうか。


 ピアノを弾き終わった時、奈々の頬を涙が伝っていた。


「……感情が入りすぎちゃった。ごめん、撮影を再開しましょう」

「いや、いい写真が撮れたよ」

「えっ、私はピアノを弾いていただけよ」

「それがいい。まっすぐに弾いていたからこそ、それ以外の何も考えずに本当の奈々が見れた」


 撮った写真を見せると、奈々は驚いたような表情をして言った。


「同じだ……。おじいちゃんが若いころに、おばあちゃんがピアノを弾く絵を描いていたの。その時と同じ表情をしてる」

「それは。奈々にとって素敵なものか?」

「うん、憧れだった。おばあちゃんみたいにピアノを弾きたかった」

「じゃあ、存分に弾くといい」


 結局、写真自体はそこまで撮れなかった。

 そのことに関しては薫に謝罪した。だが、薫は。


「奈々さんが何か見つけてくれたようでよかったです。できればまた一緒に写真を撮ってほしいですけどね」


 そう言ってくれた。

 もちろん、今回はお金をもらわなかった。

 正直、奈々に何か新しい刺激があればいいなという考えもあったから、薫を巻き込んでしまった形になる。

 

 夕日が照らす帰りの列車で、奈々は俺にこんなことを言ってくれた。


「馬鹿みたいで、遅くて、いまさらな夢を見つけた」

「どんな夢だ?」

「私、ピアノでいろんな人たちに音楽を届けたい。そして、いつかは子どもたちの心に残るような、子どもたちが大人になった時に聴きたくなるような音楽を作りたい」


 きっと、大人になってからこんなことを言えば、世間の目はとても冷ややかなものになるだろう。家族や友人は表面上では応援してくれるかもしれない。でも、その裏にあるものはあまり想像したくない。


 俺らは大人になったのに、まだ何も見つけれていなかった。

 でも、奈々は俺より先に大きな目的を見つけた。

 決して簡単なことではないだろう。

 誰よりもスタートが遅れたのだから、苦労の濃さも人の何倍も濃いものだろう。

 だけど、それをわかっていながらも、進みたくなるほど魅力的な目的に出会えたんだ。



 家に帰ると奏と湊が迎えてくれた。


「ゆーくんおかえり! 夕ご飯作ってみたよ!」

「デスなソースを入れようと思いましたが奏に阻止されました。本当に申し訳ない」


 なんだか、今日は二人の姿を見てホッとした。


「カレーは大好物だ。いっぱい食べてやるからな」


 四月ももう、終わりかけだ。

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