第8話 雨の降る帰り道 1
いつものように目覚めてとりあえず枕元に置いてたスマホを手にとり、十分ほどいろいろ見ていると、天気アプリの通知が入った。どうやら今日は夕方から雨が降るらしい。
朝食を作りながら、ソファに座っている二人に雨が降ることを伝えた。
「じゃあ、折り畳み傘入れておかないとだね」
「抜かりはありません。私はいつも鞄に入れてますから」
二人が帰る時間的はまだ降ってはいないと思うが、用心するに越したことはない。
――――
今日は芳香さんが自身の家をリフォームして作った事務所へいく日でもある。
「やぁ、よくきたね。ようこそ、私の事務所へ」
一人暮らしにしては豪華な家で、奥の部屋に行くと窓のところに机があり、パソコンや灰皿、本が置かれてある。本棚にはいくつもの難しい本が置かれてあり、俺が一生読むことはないものばかりだ。
机はまだ二つおいてあって、それらは何も置かれておらず、使用された形跡がない。
「君の机はそっちだよ」
芳香さんの机から見て右斜め前の机がどうやら俺の物らしい。
「今ノートパソコンを取り寄せているところだ。次回来た時には準備も終わる。今日のところは話をしよう」
芳香さんは自分の机の椅子に座り、机に置いてあるライターを手に取って煙草に火をつけた。特別な空調設備が見当たらないが、部屋に入った時は不思議とタバコのにおいがカーテンや絨毯に残っている感じはしなかった。
「俺はこれから何をすればいいんですか?」
「一つはこれまで通り私の仕事のサポートだ。指定した写真を撮ってきてほしい。それともう一つは、君をカメラマンとしてもう一段階上の存在にする」
「もう一段階上……ですか」
「君の撮影技術は中々だ。特に限られた視界から出てきた相手を瞬時に撮る撮影技術は、カメラマンというよりまるでスナイパーだよ」
「無理難題を押し付けてくるから……」
「それに応えられる技術があるのだから素直に喜ぶべきだ」
「普段の撮影で使わないでしょう」
「そんなことはないさ。被写体が生物ならその技術はすべての撮影に活かされる。被写体の一瞬の表情、一瞬の動き。写真撮影とはあまりにも一瞬過ぎて誰もが気づけない奇跡の瞬間を捉えるためとも思わないかい?」
世の中には奇跡の一枚と言われるものがある。
地方アイドルの踊っている瞬間を、表情、動き、躍動感、それらすべてを完ぺきなレベルで一枚の写真に収め、それがネットに後悔されると瞬く間に広がっていたこともある。
「君はまず日常の風景を撮るんだ。それをこちらが用意したSNSのアカウントで広める」
「そりゃあ、広めてくれるのがありがたいですけど、そんなことして芳香さんに何の得があるんですか」
「何、単純な話さ。――面白そうだから」
真面目に聞いた俺が馬鹿だった。
この人は謎の探究以外のことをする時、その理由はすべて面白そうだからしかない。
「私はね、自分のことならどうとでもなると思っているけど、人をどれだけ動かせるか気になるのだよ」
「いや、いつも俺をこき使ってるじゃないですか……」
「それは雇い主という立場だからだ。君を広めるのはあくまで私の趣味」
「趣味って言いきりやがった……」
「まあ、いいじゃないか。君にとっても悪い話じゃないだろう? それに、探偵業のサポート以外にも撮影でお金を得られればさらに事務所は安泰となる。君の活躍は君の居場所を守るためでもあるのだよ」
確かにこうやって一つの場所に通うというのは今までしてこなかった。
いずれはそういう時が来るのだろうと思っていたし、覚悟とまでは言わないがそうしなければという気持ちもあった。
これはいい機会なのかもしれない。
「君が居候している神崎家の双子のことも考慮してあまり時間はとらせない。だが、張り込みとなれば話は別だ」
「それはわかってますよ。仕事ですから」
「まるで仕事ができるサラリーマンみたいだな口ぶりだな」
「それなりに、芳香さんの無理難題は叶えていると思いますけどね」
一番つらかったのは真冬の張り込みだ。
夏は水分を補給し帽子を被ればましだけど、冬はカイロを貼っても、ヒートテックを着て重ね着しても、手だけは寒い。
手袋をすればいいじゃないかと思うだろうが、一瞬のシャッターチャンスを掴むためには、布一枚間に挟まってるだけで動きに遅れが出る。
ちぎれるような痛みに耐えながら、今か今かと待ち続け、一秒あるかどうかの一瞬を撮れた時の解放感は日常生活にはない気持ちよさがある。
芳香さんの無理難題に呆れることもあるが、俺自身楽しんでいるのかもしれない。
「君は一年後どうするつもりなんだい?」
「一年後……」
「私としては君がここに居続けてくれるなら部屋は用意してあげよう。だが、君自身に夢があるなら、大人として邪魔をするわけにはいかない。それがどれだけ無謀だったとしてもね」
大人として、その言葉は俺に突き刺さる。
正直、成人を向かえただけで自分が大人になった感覚など微塵もない。大学生ならまだ学生という身分があるため、多少はルーズでも揺るられるのかもしれない。
だが、俺は違う。すでに社会にでて、一人で暮らせるだけの立場にはなった。でも、それはあくまで一人であって、誰かに何かを教えるだとか、指導するとだとか、上の立場になったことは一度もない。
少し早めに社会に出てしまった俺には、いまだ大人としての自覚を持てるほど経験も知恵もなかった。
「自分の未熟さを痛感してるのかい?」
「人の頭の中を読まないでください」
「顔にそう書いてある」
「……深く悩んでいるわけではないんですよ。でも、それが同時に悩みでもある。もっと真面目に考えなくちゃいけないのに、いつまで経ってもふらふらと生きているんじゃないかって」
オフィスに通うの苦手だから、最低限好きなことで稼げるようにはできた。おそらく、多少は才能があったのだろう。
でも、十年、二十年先を想像した時、このままでいいのだろうかと不安になる。
「なら、この一年しっかり考えるんだ。日常を見ながら、自分をみていく。今はそれが最善策だ」
「もっと即物的なアドバイスが来るかと思ってました」
「時間をかけて答えを導き出すことを忘れてしまえば、人などもう価値はない。誰もが同じ答えで人生を歩んでるわけじゃないのだよ」
「でも、世の中はいまそうなっていってますよね」
「ああ、だから私は世の中から外れた。探偵業がおかしなものというつもりはないが、世の中からすればずれた存在だ。だからなった」
この人は清々しいほどに自分の道を行っている。
こうなるまでにいろいろあったのだろうか。それとも、生まれつきこういう性格の片鱗があったのだろうか。どちらにしても羨ましいとさえ思える。
他人と比較しないようにと思っても、高卒で一般的な職に就いていない自分の姿は、時折どうしようもなく情けなく見えてしまう。大学に通っている友人を見て、短大を卒業し就職をした友人を見ては、自分は何なのだろうと思ってしまう。
「たまには思考を放棄するといい。その練習をしてみるか?」
「えっ、そんなことできるんですか」
「と言っても、簡単じゃないぞ」
芳香さんは立ち上がり本棚のほうに向かうと、英語の本を取って俺の机の上に置いた。それと分厚い英語辞典も一緒だ。
「これを翻訳しながら読み進めていけ」
「え……。この本二百ページくらいありますけど」
「どうせ暇だろう。いいからやれ」
結局、俺は夕方までここに閉じ込められ、延々と翻訳をし続けた。
すると、雨音が聞こえるのがわかった。
「雨ですか」
「途中から雲行きが怪しくなってきてたな」
その時、スマホが鳴った。
画面を見てみると奏からだった。
「あ、ゆーくん! 湊と一緒にいる?」
「家にいるんじゃないのか?」
「それがね、今日は図書館に寄って帰るって言ってたから私だけ先に帰ったの。でも、湊の折り畳みがが傘立てにあるの」
前に雨が降った時、乾かした後そのまま置いていたのだろう。
ということは今の湊は傘をもっていないわけか。
「俺が迎えに行ってくるよ」
「お願い。私、米炊いておこうか?」
「そうしてくれると助かる」
電話を切ると、俺が帰ることを伝えるよりも先に芳香さんが言った。
「傘ならうちにあるのを使うといい。君、持ってきてなかっただろ」
「こんなに遅くなるとは思ってなかったんでね。傘、ありがたく借りていきます」
「早く迎えに行ってあげなさい」
静かな部屋だから奏の声が聞こえたのだろう。
俺は黒い傘を借りて急いで学校へ向かった。
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