第2話 鳴見さんのまっすぐな恋と史緒さんとの関係と

 次の日も鳴見さんはやってきた。昼休みのごちゃごちゃとした教室から私を連れ出し、小さな中庭のベンチに私を座らせた。気持ちいい風に髪を揺らされる。

 鳴見さんが持ってきたお弁当箱を広げ始めた。蓋を開く。ミートボール、卵焼き、ミニトマト、小さなサラダ……。きれいな色がたくさん並び、おいしそうなお弁当だった。


 「これ、鳴見さんが全部作ったの?」

 「そうなんです。ちょっと手間取っちゃって遅刻しちゃいました」


 そう言うと彼女は照れたように笑う。


 「ごめんね、鳴見さん」

 「どうして謝るんです?」

 「だって、まだ返事もしていないのに……」

 「あーんがしたいんです。だからいいんです」


 彼女が箸を取ると、卵焼きをつまむ。


 「そんなことぐらいなら……」


 彼女が持ち上げた箸先は、少し震えていた。

 私はそれを見ると、髪を手で押さえ箸先へと顔を向ける。


 「そのままでいいから」


 箸先が止まる。舌で迎えるようにして卵焼きを口に入れる。少し青のりが入っていて香りが良かった。


 「紫乃先輩、慣れてますね……」


 少し寂しそうに言われる。

 史緒さんとは、あーんなんてしたことないのに、どうしてだろう。

 彼女はそれを気にしないように私へたずねた。


 「紫乃先輩はどんな食べ物が好きなんです?」

 「ハンバーグとかかな……。あれならおいしく作れるから」

 「え、あ! 料理するんですか?」

 「うん、まあ……。小さい頃からずっと……」

 「私なんかぜんぜんダメなんです。お母さんからは『お前は台所に立つな』って」

 「そうなの? これ、おいしかったよ?」

 「やった! ちょっとお父さんが好きな味が入っていたから、渋すぎかなって心配していたんです。私、絶対、紫乃先輩の胃袋をつかんでみせますね」


 彼女が嬉しそうに笑う。それは夏の日差しのようにまぶしかった。私はそれに照らされながら、こんなふうになれる恋ってすごいなって思っていた。



 ★



 テーブルの上に置いてある冷えたハンバーグをときおり見ながら、私はずっと本を読んでいた。

 恋ってなんだろう。どれだけ本を読んでもわからない。史緒さんに思うこの感情も……。


 玄関の扉が開く音がした。本を開いたままテーブルの上に伏せて置くと、史緒さんがやってきた。


 「ただいま」

 「早かったですね」

 「ビアンバーで元カノに会っちゃってさ。居心地悪くなって帰ってきちゃった」


 史緒さんがテーブルの上を見る。


 「あ、ハンバーグだ」

 「食べます?」

 「食べる。おなかぺこぺこなんだ」


 私は立ち上がるとハンバーグの皿を取り、電子レンジで温める。史緒さんは着替えるよりも前に、テーブルの上の本を片付ける。私にこの本を読まれるのは、何か嫌なのかもしれない。


 あつあつになったハンバーグといっしょに、猫柄の茶碗によそったご飯をテーブルの上に並べていく。私が買ってきた市松模様のテーブルクロスと合わさると、なんだか洋食屋さんに来たように感じた。

 いただきますも言わず、ぱくぱくと料理を口にしている史緒さんが、もぐもぐと私へ言う。


 「これ、おいしい。すごくおいしい」

 「今回はうまくできました」

 「最初に私へ作ってくれたのもハンバーグだったね。ずっとおいしいよ」


 私の顔がほころんでしまった。

 史緒さんはいつも私を嬉しがらせる。


 「どうして覚えているんです?」

 「あんな不安そうな顔をされたらね。美味しいって言ったらすっごい喜んで。だからね。きっといつまでも覚えていると思うんだ」

 「そう……ですか……」

 「もう。紫乃はかわいいな。恋する乙女って顔をして」


 覚えてもらえて嬉しい。

 そして同じぐらい元カノのことも覚えているのだろう。


 幸せと不安が同時に私の心を満たす。

 これが恋だと言うのなら、それはとても甘くて苦いなって……。



 ★



 手をつなぎたいのだろうと私は思った。

 学校にいる間、後ろにいる鳴見さんから何度か手を伸ばされた。そして引っ込められる。それを何回も繰り返されていたら、さすがに気がついた。


 放課後の教室でふたりきりになったとき、私は少し諭すように鳴見さんに言った。


 「手をつなぎたいなら、そう言えばいいよ」

 「まだ告白の返事をもらえてないですし……」

 「ごめんなさい。それはちゃんと返事する。もうちょっと待ってくれたら……」

 「はい……」


 元気だったり、笑ったり、そしていま、しゅんとしたり……。

 鳴見さんは忙しい子だった。ころころと表情を変える。それをかわいいと私は思った。だから、こうして鳴見さんの手の上に自分の手を重ねるのは、なんだか悪い気持ちはしなかった。


 「付き合うかどうか決めなくても、手をつなぐことはできるから」


 とたんに笑顔になった鳴見さんが「ありがとうございます」と照れながら言う。ゆっくりと握り合う手に、鳴見さんの体温を少しずつ感じた。


 かわいいな、と私はまた思った。でも、それは少し前のかわいいとは違っていた。



 ★



 学校帰りの夕暮れの中、史緒さんと川沿いの並木道でばったり出会った。白いカットシャツにデニムパンツをはいた、夏向けのラフな格好で橋を渡っていた。その手にはパンパンになっている買い物袋をふたつ抱えていた。

 私は史緒さんのところへすぐに駆け寄った。


 「買い物してきたんですか?」

 「うん。今日はお魚の気分だったから。ちょっと遠くの魚屋さんまでね」

 「そっち持ちます」


 買い物袋をひとつ持つ。重たい。何を買ったんだろう。鯛でもまるごと一匹買ってきたのだろうか……。


 それが当たり前のように、私達は空いた手を重ねた。

 ふたりでつなぎたいとも、つなごうとも言っていない。

 その手のひらの温かさに、私はドキドキもせず、びっくりもせず、ただひたすらに安心できた。


 私達は歩き出す。手をつないだまま歩き出す。

 史緒さんが買い物袋をぶらぶらとさせながら、私にたずねた。


 「紫乃はもうすぐ夏休みだよね?」

 「はい。来週からです」

 「どうするの?」

 「家にいます」

 「友達とどっか行って来なよ。私も仕事あるし」

 「そうですね……」

 「夏休みの思い出は作るもんだぞ」


 思い出を作る友達はいない。せいぜい鳴見さんだけど……。


 顔を上げた。道の向こうから歩いてくる鳴見さんと目が合った。

 私達に気がついたのだろう。でも、声をかけるまでもなく、そのまま道を曲がって行ってしまった。


 史緒さんが私へ不思議そうに聞く。


 「友達?」

 「ええ……」

 「寂しそうだったね。まるで失恋したみたい」


 史緒さんはそれ以上何も言わなかった。

 私は何か言って欲しかった。


 ……恋って何? 何なの? 教えてください!

 私は握っていた手の温もりを感じながら、史緒さんを問い詰めたかった。



 ★



 どうしてそうなったかはわからない。あのあとでも変わらずにいた鳴見さんが「デートです!」と言って誘ってくれたり、心配した史緒さんが「ついてく」と言い出したり、そのほかいろいろなことが重なり合って、水族館の前に私達3人がいた。


 「どうも名瀬史緒です。紫乃がお世話になっています」


 水色のワンピースに麻のジャケットを羽織った史緒さんが、大人っぽく頭を下げる。私は少しハラハラとしていたけれど、そんな心配をよそに鳴見さんは嬉しそうにしていた。


 「もしかして『レモン色の僕たち』を書かれた名瀬さんですか?」

 「ええ、そうです。あの本、読まれました?」

 「わあ! すごいです。大ファンなんです!」

 「それは良かった。では、今日はファンサービスもしますね」

 「嬉しいです! 紫乃先輩、名瀬先生のサインを貰ってもいいですか?」

 「私の許可なんか取らなくていいよ」

 「嬉しいです。大好きなんです。先生が書かれる恋愛小説は全部読んでます。紫乃先輩はこんな人と友達なんですね。だから雰囲気が大人びているのかな……」


 友達……。

 友達は手を握るのだろうか。


 私は鳴見さんの手をつかんだ。


 「行こうよ。鳴見さんは何を見たい?」

 「……え、あ。ペンギン……」

 「じゃ、まずはペンギンだね。私もペンギンは好きだよ」


 照れながら困っている鳴見さんの手を引く。史緒さんがじっと私を見ているのを気にせずに、水族館の白いゲートをくぐった。




 ペンギンはかわいい。じっと立っている姿もかわいい。よちよちと歩くのはもっとかわいい。水の中を飛ぶように泳ぐ姿はかっこいいとも言えるけれど、水から出て体をプルプルと震わせているのは、このかわいいのために必要な所作なんだと思う。


 私達はまるでペンギンが並んでいるように水槽の前に立ち、ペンギンのかわいらしさを全身で受け止めていた。


 「いいね……」

 「いいですよね……」


 ふたりで語彙が消えている。ペンギンの前に人は無力だ。


 ふと気がつくと史緒さんがいなくなっていた。私が辺りを見回していると、鳴見さんが私の手を引く。


 「少し、お話しをしませんか?」


 そばにあったベンチに腰掛ける。明るく照らされているペンギンを見ながら、私達は暗がりの中に座った。


 「紫乃先輩、今日はありがとうございました」

 「急にどうしたの?」

 「聞きたかったんです。名瀬先生とはどんな関係なんですか?」


 つないだままの手から緊張が伝わる。やっぱり気にしていたんだ。

 私はどう伝えたらいいのか、わからなかった。だから、そのままの気持ちを伝えた。


 「私はね。たぶん鳴見さんみたいな素直な恋がしたかったと思う。明るくて光るような恋をしたかったのかな。きっとそうなんだと思う。私と史緒さんは、そんな関係になれなくて。ずっと黒くて汚れていて、温かい泥の中にいるような……」


 私は口を開こうとするけれど、もう何も言葉が出なかった。

 たぶん光の中にいる鳴見さんには、私達の関係は理解できない。それに理解して欲しくもない。


 「なら、名瀬先生は紫乃先輩のことをどう思ってるんですか? きっといまも私達に遠慮して、離れてくれていると思うんです」


 どんな思い……。


 史緒さんはなぜ私をそばに置いているのだろう。知りたい。でも、それはとても怖い。

 恋人を振る道具としてなのだろうか。私を抱きたいだけだからだろうか。

 そう思っていたほうが傷つかないように思えた。真実を聞くよりは……。


 それは恋とは違う。

 きっと違う……。


 「紫乃先輩。そんな泣きそうな顔にならないでください」


 鳴見さんは立ち上がると、私の手を引っ張った。


 「ほら、今日はデートなんです。楽しく遊びたいんです。だから……」

 「……うん、そうだね。ごめんなさい」

 「謝るぐらいなら笑ってください」

 「わかった……」


 私は無理に笑う。それを見て鳴見さんは嬉しそうに笑った。私達はペンギンがいる暗い建物から、日の当たるほうへと向かった。




 小さな売店の前に史緒さんがいるのを見つけた。私達と出会うなり、そこで買っていた青いレインポンチョを渡してくれた。「イルカショーは最前列で見ないとね」とニヤニヤしながら言われて、ちょっと不安になる。


 円形状になったスタジアムに私達は入る。潮の匂いがする。イルカが泳ぐ筒状の水槽が間近に見えた。細長い青いベンチに座りながら、私達はポンチョをかぶる。

 やがてわくわくするような曲がかかり始めたと思ったら、いきなり目の前で大きなイルカがジャンプした。大きな波が、油断していた私達にざぶんと襲い掛かる。それはバケツで水をかけられたようなものだった。顔に水が激突し、そのまま首元や腕の隙間から勢いよく浸み込む。ポンチョの意味があまりなかった。


 「ああ、もう。紫乃先輩、びしょ濡れですよ」

 「あはは。やっちゃったね」

 「これはいいな。楽しいぞ。もっとやれ」


 私達は愉快そうに大きな声で笑い合った。

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