問1: 正しい恋について答えなさい。ただし【A】、【B】のふたりのうち、いずれかを選ぶこと。
冬寂ましろ
第1話 私と鳴見さんと史緒さんと
恋ってなんだろう……。恋って何?
たくさん本を読んでもわからない。人が話す恋話を聞いてもわからない。
だから、こうして1年下の鳴見さんから「好きです」と言われても、私にはよくわからなかった。
高校の無機質な教室には私達しかいない。
開け放たれた窓からは、夏の爽やかな風と生徒たちの遠い嬌声がふわりと流れていた。
鳴見さんは座っている私をじっと見つめて、机の前に立っていた。
何か話さないといけないのだろう。でも、私には言葉が見つからない。
断ったらきっと昔の私と同じように泣いてしまうだろうから。
私は読みかけの恋愛小説をぱたりと閉じると、彼女に曖昧な言葉を投げた。
「えっと……。それは告白ということ?」
「はい! 大好きなんです。紫乃先輩のことが」
嬉しそうに彼女は言う。その姿は今日の青空のようにきらりと光っていた。私と違って彼女は光の中にいる人だった。
「紫乃先輩は、気持ち悪いとか言わないんですね?」
「女同士……だから?」
「はい。あんまりよく思わない人はいますし」
「私にはわからなくて……。でも、普通のことだと思う」
「先輩は優しいです。こうして私を傷つけないように言葉を選んでくれる。だから好きなんです!」
彼女が元気いっぱいに私へ迫る。その明るさが、私に影を作りだす。
苦しまぎれに自分でも嫌になる言葉を鳴見さんへ伝えた。
「……返事はまだ保留にさせてもらってもいい? 急に言われてよくわからなくて。少し考えさせてもらえたら嬉しいかな……」
「それって脈ありってことですよね? 私、絶対、先輩を振り向かせます!」
予鈴が鳴った。鳴見さんは、大きく手を振りながら「また来ます! 待っててくださいね!」と言いながら教室から出ていった。
いい子、なんだろうな……。
閉じた本に視線を落とす。
そして私は悪い子だ……。
★
退屈な授業が終わると、すぐにリュックへノートと本を詰めて、帰り支度を始めた。誰も私には声をかけない。いままでもそうだったし、これからもずっとそうなのだろう。
学校の玄関先で、黒いローファーを履いてトントンと足先を蹴る。それから帰宅する生徒達の波といっしょに建物から押し出された。
すぐそばの川沿いを並木道を歩いていくと、夏の匂いがずっとしていた。桜の季節になれば、ここはずいぶんにぎやかになるのに、いまは川のおだやかな水音が聞こえるぐらい静かだった。そのせいなのかもしれない。つい鳴見さんに言われたことを思い出してしまった。
彼女は私に恋をしているのだろうか。恋をしているふりをしているのかもしれない。だって私は誰にも愛されないのだから。
古いマンションの薄い鉄の扉を開けて玄関に入る。見慣れたパンプスと、見慣れないヒールが見えた。リビングに向かうと、部屋を仕切る黒い引き戸の先から、くぐもった人の声がしていた。我慢しているのだろう。ときおりわかりやすいあえぎ声も混じっている。
私は引き戸を見つめた。そこから何かがあふれている。黒くて異様な何かが、うねうねと動いて漏れているように感じた。
居てはいけない気持ちになり、そこからすぐに離れた。台所に向かい、やることを見つけたようにコーヒーを淹れ始める。ドリップコーヒーがぽたりぽたりと落ちていくのをただ眺めていると、少しずつ気分が落ち着いてきた。
ふいに引き戸が音を立てて開く。素肌にガウンを羽織っただけの史緒さんが出てきた。隠しきれていない細い華奢な体と、それに不釣り合いな大きな胸を見てしまい、思わず目を背ける。
そっと引き戸を閉じると、史緒さんはリビングのテーブルに置いていた黒縁の大きなメガネをかけた。
「おかえり、紫乃」
「ただいま。史緒さんはコーヒー飲みます?」
「うん、もらう」
あくびをしながら史緒さんは、私が差し出したカップを受け取る。そのままコーヒーをテーブルに置いた。不思議に思っていると、史緒さんは私のそばにやってきた。濃密な女の人の匂いがする。それから逃れたくて顔を背けたら、史緒さんの手が私の頬にそっと触れた。
「紫乃はすぐ顔に出るね。何かあった?」
何もない、と言えば済む話だった。でも、言わないといけない気がした。
「告白されました。好きだって。後輩に今日……」
「男? 女?」
「……女です」
「そう。ふふ、アオハルだね」
そう言うと、史緒さんはテーブルに戻っていった。椅子に座るとコーヒーをふうふうしながら飲みだした。
やきもちぐらい焼いてくれてもいいのに……。でも、それはありえないか……。
そんなふうに困っていたら、史緒さんが勘違いしたのか、引き戸を指差しながら言った。
「少し寝かしてあげて。昨日ビアンバーで会って飲み明かしてさ。なんか話したりなくて、ずっと昼まで飲み歩いちゃった」
「もう夜の6時ですよ?」
「だからさ。しばらく寝てると思うんだよね。たくさん運動したし」
いじわるそうに史緒さんは笑っている。
私へ嫉妬させたいだけかもしれない。そうなったら、きっと私を見て喜ぶだけだろう。
閉められた引き戸を無表情に見つめる。あの向こうには、さっきまで史緒さんに抱かれていた女の人が寝ている。
「紫乃、気になる?」
「……慣れましたから」
「慣れちゃ困るんだけどな」
史緒さんは自嘲でもしているように笑う。私はなぜだか少しむっとして、反論するように言ってしまった。
「慣れたんです。もう半年も経ちましたから」
「そっか……。あの日さ。雪降ってたよね。玄関先に痛々しい顔で紫乃が立っててさ。びっくりしたんだ」
「急に来て、すみませんでした。頼れる人が他にいなくて……」
「いいよ。それよりも、あのときについていたあざ、きれいに消えて良かった」
「母親に殴られるとは思っていませんでした」
「まあ、女子高生はいろいろ刺激が強すぎるからね。新しいお父さんにも」
「そんなことしないのに」
「だよね。紫乃は女の子しか愛せないし」
押し黙ったままの私に、史緒さんは言葉を続ける。
「マッチングアプリで知り合ったばかりだったけどさ。でも、こうして女子高生と暮らすというのは、なかなかいい判断だったよ。自分えらいぞ。さすがだ自分」
私とは違う女の人の匂いが絶えずしているそんな家だった。
それでも実家よりはいい。殴られないし、ご飯もあるし、お風呂にも入れる。
だから、慣れるしかなかった。
私は露骨に会話の内容を変えた。
「お腹空きませんか? 何か作ります」
「やったー」
「和風パスタでいいですか?」
「わーい、大好き」
子供ぽく笑う史緒さんは、ちょっとかわいい。少しウェーブした長い黒髪のせいで、ますます幼く見える。ぬいぐるみを手にしたまま、大人になったような人だった。
私はしらすと水菜を冷蔵庫から取り出し、鍋にお湯をかけ始める。ペンギン柄のエプロンをかぶるように着ると、史緒さんはニマニマと笑っていた。
「リアル女子高生の制服にエプロンだなんて眼福だな……」
私はそれを無視するように史緒さんへ話す。
「すみません。サラダは、いまトマトしかなくて……」
「いいって。適当でいいよ。何か手伝う?」
「大丈夫です。座っててください」
料理はいい。作っている間は、いろいろなことを忘れさせてくれるから。
手際よくパスタを作り、切ったトマトは刻んだシソと合わせて小皿に盛った。ことりとパスタとトマトの皿をテーブルに置くと、椅子に座ってスマホを眺めていた史緒さんに話しかける。
「できました」
史緒さんは、さっとスマホの表示を隠すようにテーブルへ置いた。
「ありがとう。おいしそうだね」
気づかれないようにため息をつく。あのスマホには、また別の人からの連絡が来ていたのだろう。少し寂しい気持ちになる。仕方ないことなのに……。
「紫乃、食べよっか」
「……はい」
ふたりで「いただきます」と言って食べ始める。史緒さんが一口食べるなり「うまい。ダシ味がする」と言うので、「顆粒ダシを少し入れてみました」と答えながら食べていく。ときおり史緒さんは音楽をスマホから流す。今日は喫茶店で流れていそうな静かな曲だった。そうやって、ふたりであまり話さずご飯を食べる。この半年で築いたふたりの食事風景だった。
ふいに引き戸がガラガラと開いた。女の人が立っていた。少ししわがついた灰色のスーツを着ていた。肩までかかる艶やかな髪がだいぶ乱れている。
また違う人だった。こないだとは違うし、2か月前の人とも違う……。
その人は困ったように私達へ話しかけた。
「あの……」
顔が私に向く。説明を求められているようだったけれど、私は何も話すことができなかった。それを遮るように史緒さんが言う。
「ああ、ごめん。まだ寝てると思ってさ。食べる? 私の半分あげるよ? 紫乃のはあげないけど」
「いえ……」
「あ、もしかして。3人でしたいとか言わないでよ?」
女の人の顔が青ざめる。
この人はきっと良い人なのだろう。普通に史緒さんのことを愛していたに違いない。
私は食べかけのパスタを置いて立ち上がる。それから女の人のそばにそっと近づき、安心させるように話しかける。
「驚きましたよね。今日は帰ったほうがいいと思います」
「ねえ、史緒。この子誰なの? 妹さん?」
史緒さんにとっては、それがいちばん嫌いな言葉だった。ううん、違うかもしれない。好きな言葉なのかも。だって……。
椅子から離れると、私の前に史緒さんが立った。強引に私のブラウスのボタンを外し、手を胸に入れる。ブラと膨らみの間に史緒さんの細い指が入っていく。私の気持ちよいところを探るように、奥へと少しずつ入れられる。
私は史緒さんの腕をつかんでやめさせようとしたけれど、耳元で史緒さんが「だめ」と拒絶の言葉を言う。
私は恐る恐る女の人を見た。
唇を噛みしめ、目の前の光景を考えようと必死になっている。
「紫乃、いい匂い。懐かしいな、制汗剤の偽物ぽい匂いと、汗のリアルな匂い。私もこんなだったな……」
首筋を舐められて私が思わず「んっ……」という甘い声を出してしまった。少し鼻で笑うように史緒さんが言う。
「ねえ、あなた。まだ見てるの? 私達、こういう関係だから」
私は女の人をかわいそうに思いながら、史緒さんのされるがままにしていた。それが私がここに居られる条件だったから。
「史緒は死んだほうが良いよ」
絞り出すように女の人がそう言う。そのまま早足で歩き、玄関の戸が閉められる音がした。
私は少しほっとして史緒さんに体を預けながら言う。
「こんなことしなくても……」
「あれぐらいこっぴどくふられたほうがいいんだよ。引きづらなくて済むから。昨日だってほとんど待ち伏せされていたようなもんだし」
史緒さんは笑っていた。私はそれを見ていられなかった。顔をそらすと、そのせいで引き戸の奥が目に映る。さっきまであの人が抱かれていた乱れたベットが、そこにあった。
「おいで」
史緒さんが静かに言う。
引き戸の奥へと連れていかれる。
服を脱がされ、体を触られる。
違う女の人が匂いが私を包む。
ただの体だけの付き合い。ただの利害関係の一致。
これを恋と呼ぶには、あまりに不純すぎると私は思った。
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