ⅩⅢ.冥王と妃

*****


―それから約1年後、冥界。


「いや~、正直あん時はどうなるモンかと思ったが、蓋を開けてみりゃ全部丸く収まってよかったよなァ~。」


上機嫌で神酒ネクタルを飲み干しながらカロンが言う。ここは冥界の一角にある冥界神たちの憩いの場。平たくいえば現代のバーのようなものだ。


ここは冥界の中でもタルタロスの深淵に程近い、『原初の闇』もしくは幽冥エレボスと呼ばれる場所で、夜の女神・ニュクスとその夫エレボスの支配領域である。本来ニュクスやエレボスは、ゼウスやハデスよりも高位の神であった。そのため、彼女らはこの冥界に独自の支配領域を持つことを認められている。だから、ここには冥界の王たるハデスですらそう易々やすやすとは踏みいることができないのだ。そのため、冥界神たちが少々羽目を外す恰好の場となっていた。


「いやァ~まったく!コレー様サマサマだぜ!お陰で俺たちの休憩時間も増えたしよォ!」


「…もともと渡し賃のない死者たちを追い払ってしょっちゅうサボってたろ。それと、コレー様じゃなくてペルセポネ様だ」


カロンを横目で見ながらヒュプノスがたしなめる。カロンは注意されたのが面白くなかったようで、ヒュプノスを見ながら「なんでェ…自分だってしょっちゅうそこらへんで昼寝してるクセによォ…」とぶつぶつ言いながら神酒をあおった。


「でモさ~、ほんとペルセポネ様が女王になってから仕事の効率よくなったよなァ~、まー、ペルセポネ様ってか、ヘカテーのおカゲだけどさー…」


「…まァな」


ヒュプノスはタナトスの言葉に頷くと自らも神酒をあおった。するとその傍らに羽音も立てずにミミズクが1羽飛んでくる。ヒュプノスはそのミミズクに、自分がつまみにしていた豆と干し肉の載った皿を差し出した。


「…お前も大変だったな、アスカラポス。」


ミミズクが皿の肉をついばみながら「ホゥ」と鳴く。彼はただのミミズクではない。デメテルにより姿を変えられたアスカラポスだ。


ハデスとコレー…ことペルセポネが正式な夫婦となってから1年。この1年で冥界、そして地上にも劇的な変化が起きていた。


まず、冥王の妃となったコレーだが、彼女がハデスとの正式な婚姻を認めさせるためにハデスを伴って地上へ舞い戻った時、当然の事ながら彼女の母であるデメテルは烈火の如く怒り、結婚を認めないと宣言したうえで裁判を起こした。


デメテルは『コレーが柘榴を食べたところは見ておらず、柘榴の件についてはハデスによる偽証である』と言い張ったが、これがデメテルの嘘であり、ペルセポネは自ら柘榴を口にしたとアスカラポスが証言したため、裁判はすぐに閉廷した。…まぁ、そのせいでデメテルの怒りをかったアスカラポスはミミズクに変えられてしまったわけだが。


その後、ゼウスによってコレーは食べた柘榴の面積の分だけ、即ちざっくり見積もって1年のうちの1/3という期間をハデスの妃として冥界で過ごすことを認められた。これは、地上にいる期間の方を長くすることでデメテルの譲歩と許しを引き出そうというゼウス…そしてハデスによる作戦だった。結果としてこれは成功し、頑なに娘を嫁にやることを認めようとしなかったデメテルもついに折れることとなった。


こうして晴れて冥界の女王となったコレーは、名前をコレーからペルセポネへと改めた。冥界の女王の名が“乙女コレー”ではあまりに威厳がないから…というのは本人の談だ。何故“目も眩むような光ペルセポネ”なのかと言えば、夫となったハデスに贈られた言葉であったそれが非常に気に入ったから、らしい。


しかしペルセポネには、デメテルによりもたらされた地上の冬を早急に終息させる役目があった。そのため、そのまますぐに冥界へ帰るわけには行かず、自分の代わりに冥界の業務を手伝う者として“新月”の女神であるヘカテーを寄越したのだ。このヘカテーが驚くほど仕事のできる神だったために、忙しさゆえ様々なところがおざなりになっていた冥界の勤務形態が一新され、きちんとした休息がとれるようになった。そのお陰で今、兄弟がこうして顔を突き合わせて神酒さけが飲めている。


地上は地上で、デメテルが「やはり娘が冥界にいる間は仕事が手につきそうにもない」との事だったのでその間は作物の育たない冬となることが正式に決まった。そのために人間たちにしっかりと備えをさせておかなければならないペルセポネの負担は増えることとなったが、身も心も“乙女”から“女王おとな”となった彼女には少しも苦ではないようだ。


そして、その女王ペルセポネは、間もなく冥界へ帰還する。先日そう連絡があったのだ。


「でもよォ~、ホント結婚相手がコ…じゃなくてペルセポネ様でよかったよなァ。ハデス様、女見る目ねェからよォ~、レウケーはともかく…、メンテー…だっけ?あの女の時は酷かったなァ…なんつーか目も当てられねェっていうかよォ…」


「…カロン、飲み過ぎだ。そろそろ引き上げないと明日の業務に差し支えるぞ。またハデス様とヘカテーにどやされたくないだろう?」


すっかり酔いが回ったのかくだを巻くカロンをヒュプノスが再びたしなめる。この時カロンが何気なく口にした名の女性が、この数年後冥界に思わぬ波乱を巻き起こすことになろうとは、彼らは知る由もなかった…。


ヒュプノスに目配せで促されたタナトスがカロンを引っ張って椅子から立たせ、寝所へ放り込もうと肩を組んで支えたちょうどその時、扉が開き、オネイロスが現れた。


「みんなにヘカテーから伝言?伝言なのかな~??伝言かもしれないね~??…zzz」


「ヘカテーはなんだって?オネイロス」


「う~んと…ペルセポネ様がご帰還?ご帰還かな~??全員集合…かもしれないね~…zzz」


それを聞いたヒュプノスとタナトスは顔を見合わせ、渡し舟を出さなくてはならないであろうカロンに慌てて冷水をぶっかけた。


*****


それから暫くして、冥王の神殿の広間にて冥界神たちは揃って1年ぶりの帰還となる女王を出迎えた。


「…おかえりなさいませ、ペルセポネ様」


うやうやしく頭を下げるヘカテーを含めた冥界神たちを懐かしそうに見つめて微笑みながら、ペルセポネはその歓迎に応える。


「…皆、ただいま。1年間、留守を預かってくれてどうも有難う。苦労をかけましたね」


「勿体なきお言葉、お心遣いに感謝します」


「…ところで、舟に乗った時カロンがびしょ濡れだったのだけれど…」


心配そうに言うペルセポネに向かって、タナトスが慌てた様子で言う。


「アー…あれは…デスね…」


「あれは寝ぼけて舟から落ちただけです。カロンはよくドジをするので」


ヒュプノスがすかさずタナトスの言葉を遮り、そう告げた。ペルセポネは気にしないだろうが、女王の帰還の前に飲み明かしていたと知られれば、間違いなくハデスからあとで小言をもらうことになる。これはヒュプノスの処世術だった。


「そうなの…?」


ペルセポネは少し心配そうにしながらも、疑ってはいないようだった。彼女の純粋さに少し救われたと思いながら、ヒュプノスは奥の執務室を指差す。


「…さぁ、そんなことよりハデス様が今か今かとお待ちになられていますよ。」


それを聞いてペルセポネの顔がぱあぁぁ…と破顔した。彼女はすぐに駆け出し、愛しい夫のもとへと向かう。


その姿だけは1年前、ハデスの元へ駆け戻ってきた時となんら変わりない、恋する少女のものだった…


*****


「ハデス!ただいま!会いたかったわ!」


待ち望んだ妻の声にハデスは弾かれたように顔を上げ、あの時と同じように自分の胸に飛び込んでくる妻を抱き止めた。鼻腔をかぐわしい花の香りがくすぐる。


こうして抱き合えるのも婚礼の日の夜以来、およそ1年ぶりで、彼女を放すまいという思いからか自然と腕に力がこもる。


「…其方そなたをこうして抱き締められる日を、どれほど待ち望んだことか」


「私もよ、ハデス。離れている間もずっと貴方を想っていたわ」


それから二人は見つめ合い、離れていた時間を埋めるように何度も唇を重ねた…。



ペルセポネは“花と季節”の女神。ペルセポネが来た時、そこには陽気で暖かく幸せな春が訪れる。逆に彼女が去る時はそこは寒々とした冬になる。それは地上でも冥界でも同じことだ。


―冥界の春は短い。だが今年はまだ、始まったばかり。そして季節は巡る。何度でも、何度でも。



Fin.

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