ⅩⅡ.冥王と柘榴
*****
一方その頃、ヘルメス、そしてアスカラポスと共に地上を目指すコレーはというと…。
「…この道を真っ直ぐ行けばまもなく地上へ出られますよ。今頃地上ではデメテル様もお待ちになられているはずです。」
「……ええ…」
コレーはヘルメスの言葉に頷いたものの、心ここにあらずといった様子だった。
「…コレー様、今はお辛いでしょうが、時が経てばこの判断が間違いでなかったと思える日が来ます。貴女が地上の者たちのためにも帰るという選択をしてくださったことは英断だと私も思いますよ。」
「……そう、ね」
コレーはそう言ったものの、心ではずっとハデスのことが気掛かりだった。自分がこのまま地上へ戻ったらハデスはまた独りで冥界で暮らすことになる。無論、彼には部下たちもいる。皆とてもいい
彼の心の隙間を埋めるのはきっと愛であるはずだ。誰かを愛し愛される、それこそが唯一彼を癒すことのできる方法だと思う。
できることならば、その相手は自分がよかった。彼を愛し、彼に愛されるのは…私でありたかった。でも…
(「私には…その資格がないわ…。彼のために自分の世界を捨て去ることもできない…。そんな中途半端で意志の弱い私が…冥界の女王になんて…ふさわしいはずないもの…。」)
コレーは沈痛な面持ちで俯きながら歩く。一歩一歩がまるで鉛の塊をくくりつけられているように重い。その様子をアスカラポスが傍らから心配そうに見ていた。
やがて、その足元がにわかに明るくなり始めた。顔をあげれば少し先に、地上の光が差し込む出口が見てとれる。久方ぶりに見るその
「…ほら、地上はもうすぐそこですよ」
「ええ…」
ヘルメスに続いて少し上り坂になっている道を進む。そのうち、自分の名を呼ぶ母の声が耳に届いた。
「コレー!コレー!ああ、やっと会えるのね!愛しい我が子!」
「…お母様…」
母の声を聞くと自然と力が抜け、表情が緩む。やはり母親の声というのはいくつになっても安心する。
間もなく、洞穴の外から母・デメテルが顔を覗かせた。
「ああ、コレー!帰ってきたのね!私のもとに!愛しいコレー!可愛い私の娘!さぁ、はやくその顔を私に見せてちょうだい。私のコレー!世界で一番いい子」
一足先にヘルメスが地上へ出た。彼はこの難しい任務をやり遂げた達成感から誇らしげな笑みを浮かべ、すぐ後ろにいたコレーを振り返った。コレーはまもなく自分に続いて地上にでてくるはずだ。
しかし、どういうわけか1分経っても2分経ってもコレーは出てこない。ヘルメスは同じく彼女が出てくるのを心待ちにしているデメテルと顔を見合わせ、冥府へと続く洞窟を覗き込んだ。
コレーはまだ中にいた。あと数歩歩けば地上へ出られるはずだ。だがコレーはその場から一歩たりとも動こうとしなかった。
「どうしたの…コレー…?まさか、ハデスに何かされたんじゃないでしょうね…?」
デメテルが不安を滲ませた声でそう尋ねる。それを受けてコレーは
「いいえ、お母様…、彼はとても紳士だったわ。本当に優しくて、真面目で、尊敬できる方だったわ…。」
「そう…。でもハデスがお前を
デメテルは両手を広げ、娘に
「このまま私が地上に帰ったら…、またお母様が私を守ってくれるの?」
「そうよ!もちろんよ!もう貴女を何処へもやったりしない!私たちはずっと一緒よ!私が男どもなんか一歩たりとも貴女へ近づけやしないわ!」
「……」
少しの間、沈黙が流れた。やがて顔を上げたコレーは真っ直ぐにデメテルを見つめる。
「…ごめんなさい、…お母様…、」
コレーが手に持っていた何かを持ち上げる。コレーを注視していたデメテルは、布切れから現れたそれが血のように紅い冥界の果実だということに気が付いた。
「ヘルメスッ!」
傍らの俊足の神を呼ぶが、一足遅かった。
デメテルの目の前で、娘はその禁断の果実を自ら口にした。
それをデメテルと、彼女の傍らに留まっていたアスカラポスだけがしっかりと見ていた。
唖然として立ち尽くすデメテルをしっかりと見据えたまま、コレーは言う。その瞳には今まで親の庇護下でただ護られるだけだったか弱い乙女とは違う、自分の足で立つ凛とした女性の強い光が宿っていた。
「……私ね、
コレーはくるりと身を翻し、もと来た道を駆け出し始めた。その姿はあっという間に冥界の闇に飲まれ、見えなくなる。
「コレー…どうして…?……私のところに帰ってきて…」
去り行く娘の後ろ姿に、デメテルは手を伸ばし、力なく呟いた…。
*****
一方のコレーは愛しいひとの顔を思い浮かべ、夢中で冥界へと続く道を駆け降りていた。
(「ごめんなさい、お母様…!私やっぱり、あのひとのことを忘れて生きるなんてできないわ…!あのひとはもう、私の魂の一部だもの…!」)
コレーは走った。「はしたない」と子供の頃に母に怒られて以来やってなかった全力疾走で。そのために邪魔な服の裾は太ももまでたくしあげた。きっと今のコレーの姿を見たら
基本的に死者と冥界神しか通らない冥道は荒削りで、ゴツゴツとした岩肌がコレーの美しい足を傷付けた。足元を舞う土埃がコレーの白い肌を汚した。神である以上、神力を使えば浮くことができるのでこれらの問題とは無縁になることもできる。でもコレーはあえて自分の足で地面を蹴った。そうすることで自分の意志を持ってこの道を選んだと実感できた。
(「元々私は、神殿に
母や地上の民たちが気掛かりなのも、嘘ではない。できる限り彼らの傍にいて支え、尽くしたいも思う。でも、自分の想いに嘘まではつけない。
(「ハデス…!私、貴方が好き…!!」)
タンッと力強く地面を蹴った時、ちょうど冥道の出口に出た。暗く狭い冥道の穴から、アケローン川の舟着き場のすぐ近くの、冥界のひらけた場所に出る。
「あ…!」
しかしながら、冥道が地面より少し高い位置にあったことを失念していたコレーは、駆けていた勢いそのままに宙に身体ごと投げ出されてしまった。
あわや地面に激突…と思われたが、すんでのところでコレーの身体を誰かが抱き止めてくれる。視界の片隅で黒い外套が翻った。
「…ハデス!」
「コレー!?何故ここに…んっ!?」
ハデスが言葉を言い終えないうちに、唇で彼の口を塞ぐ。
「コ、コレー…これは…どういう…?」
まだよく状況が飲み込めておらず、
そんなハデスの顔を真っ直ぐに見つめ、微笑みながらコレーは言った。
「大事な話があるの。…あのね、ハデス…私、貴方を愛しているわ。私のこと…お嫁さんにしてくれる?」
いつの間にかハデスを追いかけてきていたヒュプノスとタナトスが、タイミングよくその場面に出くわし互いに顔を見合わせた。そして思わずニヤリと笑い合う。
当のハデスも、最初こそまさかのコレーからの逆プロポーズに驚いて目を見張って固まっていたものの、すぐに顔を
「…勿論だとも。其方がそれを望んでくれるのなら。是非とも…我が妻になってくれ。コレー」
二人はどちらからとでもなく再び唇を重ねた。
それを目撃していた冥界の神々は皆、静かに、しかし最大級の賛辞を二人に送った…。
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