ⅩⅠ.冥王と部下たち

*****


そのあとの足取りはとても重かった。コレーに背を向けたハデスはそれから一度も振り返ることなく歩みを進め、コレーは彼に少し遅れてその後ろ姿についていった。まるで足枷をはめられてその重い鎖を引きずって歩いているようだとコレーは思った。


先日彼と腕を組んで並んで歩いた時に見たコキュートス川はもっときらめいていた気がするのに、今はただその名の通り、『嘆きの川』にしか見えない。コキュートス川の水音はさめざめと泣く人の声に似ていると云われるが、その理由がわかった。くらく澱んだ気持ちでここを通ると、本当にそういう音に聞こえるのだ。ちょうど今のハデスとコレーのように。


きっとアケローン川を渡り、コキュートス川に沿って冥王の神殿へと向かう死者たちは皆こういう気持ちなのだろう。せめて川のほとりに花でも植えたら少しは明るい気持ちになれるかもしれない…と無意識のうちに考えていたコレーは、もう二度とここに来ることはないのだと思いだし、余計悲しくなった。


そうこうしているうちに、あっという間に神殿の入り口の前まで戻ってきてしまった。神殿の入り口に扉はないのですんなりと中に足を踏み入れれば、待ち構えていたヘルメスが駆け寄ってくる。


「おかえりなさいませ。…話はついたので?」


「…ああ。私はこのまま仕事に戻る。コレーの身支度が整い次第、地上へと送ってやってくれ。それと冥界からは庭師のアスカラポスを遣いに出そう。…なにぶん人手不足なものでな。」


ハデスは淡々とヘルメスに告げると奥の冥王の間へと消えて行った。結局最後までこちらを振り向いてはくれなかった…。


「…では、ご準備をお願いします。コレー様。事態は逼迫ひっぱくしておりますので…できるだけ早く地上へ戻らねばなりません。」


「ええ…。わかっているわ…ヘルメスお兄様…」


*****


―それから数十分後、冥王の神殿・執務室。


「…ハデス様ァ、ホントにコレー様を追わなくていいんデスかァ?」


床に力なく転がりながらタナトスが言う。その顔には疲労が色濃く滲み、もともと生気のない蒼白い顔がますますやつれて見える。現在、地上の混乱により冥界神は皆、例外なく仕事に駆り出されているが、特に“死”を司るタナトスの忙しさは群を抜いており、今ここで床に転がっているのもたった数分の束の間の休息に過ぎなかった。


「…追ってどうする。地上へ戻るというのはコレーの意志だ。たとえそれが地上の生命を人質にとられているようなものゆえそうする他なかったのだとしても…、その元凶である私が彼女の決意に水を差すようなマネはできん」


「でモォ…」


「…なら、ハデス様のお気持ちはどうなるんです?」


なおも食い下がろうとするタナトスに続いて、口を開いたのは意外にもヒュプノスだった。


「…どうしたヒュプノス、お前まで。珍しいな」


タナトスと同じように疲れきった様子で隅のソファに力なく寝転んだヒュプノスが、顔だけをハデスの方に向けた。そしてそのまま、声音に疲労を滲ませながらもはっきりと言う。


「…ハデス様、オレ達はもう随分と長い間、貴方様とこの冥界で暮らしてきました。貴方の優しさは重々承知していますし、そんな貴方だから、貴方が見初めた女性ひととの恋路も…極力応援してきたつもりです。そのうえではっきり言います。コレー様ほど、貴方に似合う娘はいません。ここは多少強引にでも彼女を妻にするべきです。たとえそれで…地上やオリュンポスを敵に回すことになっても。」


「…面倒事を嫌うお前が…本当にどうしたというのだ」


ヒュプノスは一つ息をつき、そして続けた。


「ハデス様、貴方は気にしていないようですが、オレ達は皆、“夜”の女神・ニュクスの息子です。ティタン族でこそありませんが、オリュンポスをはじめとする地上の神々からは酷く嫌われている呪われた一族なんですよ。」


「……」


ハデスは思わず押し黙った。それが紛れもない事実であったからだ。


ハデスの直属の部下である、ヒュプノス、オネイロス、タナトス、カロン…他にもまだいるが、彼らは皆ニュクスの息子である。そして彼らの母・ニュクスは自分達より何代も前の、それこそ世界の始まりである混沌カオスにより生み出された原初の女神だ。元はといえばこの冥界自体、彼女とその一族が支配する領域であった。彼女らは神々同士の闘いであったティタノマキアにも参戦せず、中立の立場を保っていたが、新しく覇権を勝ち取ったオリュンポスの神々にとって目の上のたんこぶであることは間違いなかった。ハデスが冥界の支配を任されたのも、そういう側面がある。


「…それでも、ハデス様だけはオレ達に他の神となんら変わりなく、普通に接してくださいました。それにオレ達がどれほど救われたか…。」


ヒュプノスがそう告げた時、タナトスも大きく頷いて同意した。


「そうデスよ!俺たチ、ずっとコの冥界から勝手に出るコとさえ許されてなかったんデス!出られるのは仕事の時だけ、しかも俺なんて“死”の神だから、神々からモ人間からモ、めっちゃくちゃ嫌われてて、人間の命を取る時モ、痛みや苦痛を伴うから、すっごい恨みのこモった目で見られて、正直怖かったシ、嫌だったけど、ハデス様がヒュプノスを連れていくようにアドバイスしてくれてから、人間たちモあんまり俺を恨まなくなったんデスよ!」


“眠り”をもたらすヒュプノスの仕事は夜だけだと思っている者は多いが、彼にはもうひとつ仕事がある。それが兄弟のタナトスの仕事に同行することだった。タナトスが魂を刈り取る時、ヒュプノスが対象者に眠りを与えることで、その者は眠るように永眠できる。そしてそれは、他ならぬハデスが発案したことであった。


「今ココにいないオネイロスも、そしてさっきコレー様とヘルメスを乗せて舟を出したカロンも、普段言わないだけで皆ハデス様には深く感謝し、敬愛しています。……貴方が望むのなら、今すぐにでもコレー様をヘルメスから奪い返してきます。戦争は面倒ですが…、貴方様のめいなら先鋒に立つこともやぶさかではないですよ?」


「……」


ハデスを見つめるヒュプノスとタナトスと瞳には、先ほどまでとは違い強い光が宿っていた。その力強さから恐らく部下たちの思いに偽りはないのだろうと感じ取ったハデスは暫し考え込み、それからゆっくりと椅子から立ち上がる。


「…行きますか?」


ヒュプノスがそう訊ねるが、ハデスはかぶりを振る。


「…いや、やはりオリュンポスと正面から戦争をするのは…得策ではない」


それを聞いてやや好戦的な面持ちになっていたタナトスはがっくりと項垂うなだれた。しかし、ハデスはそのままゆっくりと扉の前まで歩いていき、背後の部下たちに告げる。


「…だが、ここで大人しく引き下がってやるというのも面白くはないな。お前たちはここにいろ。コレーは…我が妻は私が迎えに行く。」


ハデスは冥王のイメージどおりの不敵な笑みをたたえ、そのまま神殿をあとにした。その笑みの下には既に、周囲にもたらす影響ばかりを考え常に無難を選んできた男の、長男らしい気遣いは微塵もなかった…。


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